戦後・現代
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1950年(昭和25年)9月13日 - 津久見と福浦を結ぶ定期船が沈没。死者28人。甘夏柑名称登録。 1951年(昭和26年)4月1日 - 津久見町・日代村・四浦村・保戸島村が新設合併、市制施行し津久見市となる。つくみ港まつりの第1回が開催。 1964年(昭和39年) - 津久見扇子踊り大会の第1回が開催。 1967年(昭和42年)9月5日 - 徳浦合元の石灰石採掘現場で作業中に爆発事故、12人が死亡。発破前の合図のミスによる誤爆。第39回春の選抜高等学校野球大会で津久見高校が優勝。 1972年(昭和47年)6月24日 - 津久見市と小野田セメントが公害防止協定書を取り交わし。8月23日 - 第5回夏の全校高校野球選手権大会で津久見高校が優勝。 1977年(昭和52年) - 臼津バイパス開通。 1984年(昭和59年) - 千怒湾埋立工事完成。 2001年(平成13年) - 東九州自動車道津久見インターチェンジオープン 2011年(平成23年)4月2日 - うみたま体験パーク「つくみイルカ島」開業。 2017年(平成29年)9月17日 - 平成29年台風第18号の記録的豪雨により、市街地を中心に住家1496棟、非住家481棟が浸水した。
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戦後・現代
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ウィキソースに野津原町、佐賀関町を廃し、大分市に編入する件の原文があります。 全国の都市の中でも、大分市は高度経済成長期以降に急激に成長した都市のひとつである。 1950年代には大分市の人口は10万人弱で、宮崎市よりもわずかに少なく、九州(沖縄県を除く)では佐賀市に次いで2番目に小さな県庁所在地であった。 1960年代(昭和35年頃)からの高度経済成長期に入ると、工業化による地域振興を図り大分地域の発展計画のために新産業都市指定を目指した。人口要件を満たすために1963年(昭和38年)に鶴崎市や大南町などとの大合併(新設)に踏みきり、1964年(昭和39年)1月に新産業都市に指定されると、沿岸部に新日鉄などの大工場が進出した。それまでの鄙びた小都市から九州を代表する工業都市へと急速に開発が進み、大分市は「新産都の優等生」と呼ばれた。 人口も1960年代以降急激に増加し、1963年(昭和38年)の合併時には21万人であった人口が1970年(昭和45年)には26万人、1980年代には36万人、1990年代には40万人を突破し、ほぼ倍増するという著しい増加を見せた。周辺部の丘陵地帯には次々に大規模な住宅団地が造成され、城南団地、明野団地、敷戸団地などのニュータウンがスプロール化して連なる特異な郊外環境が誕生した。 新産業都市としての発展にともない、1970年代には長崎屋、ダイエー、ニチイ、ジャスコ、西友など関東・関西資本の大型スーパーが大分駅前に多数進出し、地場百貨店のトキハなどとともに九州では珍しい首都圏の郊外都市のような駅前型の繁華街が形成された。しかし、その後、商業のドーナツ化が進み郊外ではショッピングモールが開発された一方、2009年までに中心部の大型スーパーはすべてが業態転換または撤退。中心部では、大分駅の高架化に伴い2015年(平成27年)春にアミュプラザおおいたが開業している。 1997年(平成9年)4月1日には中核市に指定されている。 平成の大合併では、2005年(平成17年)1月1日、佐賀関町及び野津原町が大分市に編入された。
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戦後 - 現代
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1947年(昭和22年)9月15日-16日 - カスリーン台風により、15日夕方磐井川が決壊し市街地が水没。100人が亡くなり、行方不明者多数。狐禅寺の水位は歴代最高の16.89mとなった。 1948年(昭和23年)9月16日-18日 - アイオン台風により、磐井川が氾濫し、市街地が水没。死者234人・行方不明者239人に及んだ。 1950年(昭和25年)8月4日 - 熱帯低気圧による集中豪雨により北上川が増水。近隣町村も含めて1000戸以上が浸水。 1970年(昭和45年)3月5日 - 交通事故により市立弥栄小学校の校長、教頭、教員ら4人が死亡、用務員1人が重傷を負った。学校が成り立たなくなることを防ぐため、教育事務所による職員派遣が行われた。 1977年(昭和50年)11月19日 - 東北自動車道(一関~盛岡間)が完成し、一関インターチェンジが供用開始。 1982年(昭和57年)6月23日 - 東北新幹線 大宮駅 - 盛岡駅間が暫定開業。新幹線一ノ関駅が開業。 2008年(平成20年)6月14日 - 午前8時43分の岩手・宮城内陸地震で市内では山目で震度5強。舞川・花泉町・千厩町・室根町で震度5弱。また大東町、東山町、川崎町で震度4を観測した。 2008年(平成20年)7月24日 - 午前0時26分の岩手県沿岸北部地震で市内では花泉町・千厩町・室根町で震度5強。山目で震度5弱。舞川・大東町・東山町・川崎町で震度4を観測した。 2011年(平成23年)3月11日 - 午後2時46分の東北地方太平洋沖地震で市内では山目・花泉町・千厩町・室根町で震度6弱。大東町・東山町で震度5強を観測した。
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戦後 - 現代
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1954年(昭和29年) 胆沢郡水沢町、姉体村、真城村、佐倉河村、江刺郡黒石村、羽田村が合併し、水沢市となる。 1955年(昭和30年) 古城村・白山村および東磐井郡生母村と合併し、新制の前沢町が発足。 1955年(昭和30年) 江刺郡岩谷堂町・稲瀬村・愛宕村・田原村・広瀬村・梁川村・玉里村・藤里村・米里村・伊手村が合併し、江刺町となる。 1958年(昭和33年) 江刺町が市制施行、江刺市となる。 1967年(昭和42年) 胆沢村が町制施行し、胆沢町となる。 1977年(昭和50年) 東北自動車道(一関~盛岡間)が完成し、水沢インターチェンジが供用開始。 1985年(昭和60年) 東北新幹線水沢江刺駅開業 2006年(平成18年) 水沢市・江刺市、胆沢郡前沢町・胆沢町・衣川村が合併し、奥州市が誕生する。これらの2市2町1村は、2000年国勢調査に基く水沢都市圏(都市雇用圏 - 10%通勤圏)を構成する地方公共団体である。 同年県の出先機関である一関、花巻、北上、遠野、千厩の各振興局を水沢地方振興局に統合し、県南広域振興局が設置される。 2008年(平成20年) 岩手・宮城内陸地震が発生し、最大震度6強を観測。 2011年(平成23年) 東日本大震災が発生し、最大震度6弱を観測。 2022年(令和4年)2月27日告示の奥州市議会議員選挙において定数を上回る届出がなかった為、立候補者全員に対し奥州市では初の無投票当選が成立。
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戦後、現代
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戦後、モースバッハはアメリカ管理地域ヴュルテンベルク=バーデンに含まれた。 受け容れた放逐民で人口は二倍になった。新たに造られた居住区ハンマーヴェグは、モースバッハおよびネッカーエルツ両地区とともに拡大していった。しばらく後に、ニュステンバッハ方面のマッセルドルン居住区が設けられた。ヴァルトシュタットは、奇跡的な経済復興の時代に連邦政府の建設計画「無からの創造」に従って造営された。 モースバッハ郡は、1973年1月1日に、ブーヒェン郡およびその他の郡のいくつかの町村と合併し、ネッカー=オーデンヴァルト郡として再編された。モースバッハは、この新しい郡の郡庁所在地となった。 モースバッハの人口は、市町村再編により1975年に2万人を超えた。これを承けて市当局は大規模郡都市への昇格を申請し、州当局は1976年7月1日に発効させた。2007年現在、モースバッハはネッカー=オーデンヴァルト郡唯一の大規模郡都市である。 1980年代、職業アカデミーによりモースバッハの教育都市としての価値は高められた。学生数は最初の18人からほぼ1,800人までに増加した。このほとんどの学生がモースバッハ・キャンパスで学んでいるが、2002年秋からはバート・メルゲントハイムの城をもキャンパスにしている。 1980年代には、住宅地ヴァルトシュタイゲ・ヴェスト(ヴァルトシュタイク西)が造成され、10年後にはヴァルトシュタイゲ・ヴェスト2も整備された。 1997年にはモースバッハは、バーデン=ヴュルテンベルク州庭園博覧会の開催都市となった。庭園博覧会開催が決定するかなり以前から旧市街の近代化は進められていたが、これに合わせてエルツ川の川筋を自然な状態に戻す改修が行われた。この都市の1月には、ヒュプナー邸と旧麦芽製造工場の改修も落成した。旧麦芽製造工場は、これによりこの都市に新しく造られた市立ホールに市の中心的イベントホールの役割を譲った。 2002年にはバーデン=ヴュルテンベルク郷土会議がモースバッハで開催された。 旧市街の外れに交通技術センターが新たに建設された。「駅舎保存会」の6年に及ぶ歴史的建造物の保存運動にもかかわらず、これにより旧駅は解体され、市内を貫いて走る連邦道B27号線が4車線に拡張された。
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