戦後・演技派女優へとは? わかりやすく解説

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戦後・演技派女優へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 01:31 UTC 版)

山田五十鈴」の記事における「戦後・演技派女優へ」の解説

1946年昭和21年)、豊田四郎監督の『檜舞台』が戦後第1作となり、戦中の『芝居道』以来共演のなかった長谷川コンビ復活した次いで衣笠貞之助監督の『或る夜の殿様』に出演し同時に衣笠とも恋愛関係結んだ同年10月第2次東宝争議発生スト反対する大河内同調して長谷川高峰秀子藤田進黒川弥太郎入江たか子原節子山根寿子花井蘭子とともに十人の旗の会を結成して日本映画演劇労働組合(略称:日映演傘下東宝従業員組合脱退。これが元で翌1947年昭和22年3月新東宝映画製作所創立された。しかし、すぐにその脱退組を離れてフリーとなり、製作が再開され東宝衣笠監督の『女優』に松井須磨子役で主演したこの頃妻子ある衣笠経堂新居を建て、同棲生活をしている。 1950年昭和25年)、同年公開の『影法師』で共演した加藤嘉結婚共産党員だった加藤影響思想的左旋回し同年日映演加入。「人民女優」とのレッテル張られレッドパージ対象にもなった。1952年昭和27年)、加藤とともに現代俳優協会設立この頃亀井文夫監督の『母なれば女なれば』『女ひとり大地を行く』、関川秀雄監督の『ひろしま』など、独立プロ系の監督作多く出演したその間、娘の瑳峨三智子東映入社し母娘再会する。しかし、瑳峨は自分棄てた山田憎み撮影所会ったときも母のことを「山田さん」と呼んでいたとされる。そのわだかまりは、瑳峨が山田より先に死を迎えその日までついに消えなかった。1954年昭和29年2月加藤家庭仕事不成立理由協議離婚。その直後下元勉結婚する数年離婚その後女優として最も充実した時期となり、成瀬監督の『流れる』、豊田監督の『猫と庄造と二人のをんな』、小津安二郎監督の『東京暮色』、黒澤明監督の『蜘蛛巣城』『どん底』、渋谷実監督の『悪女の季節』『もず』、市川崑監督の『ぼんち』など、巨匠中堅問わず幅広い作品出演。この時期だけでブルーリボン賞主演女優賞助演女優賞それぞれ1回毎日映画コンクール女優主演賞1回キネマ旬報ベスト・テン女優賞を2回受賞し名実ともに映画界代表する大女となった

※この「戦後・演技派女優へ」の解説は、「山田五十鈴」の解説の一部です。
「戦後・演技派女優へ」を含む「山田五十鈴」の記事については、「山田五十鈴」の概要を参照ください。

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