戦後・演技派女優へ
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1946年(昭和21年)、豊田四郎監督の『檜舞台』が戦後第1作となり、戦中の『芝居道』以来共演のなかった長谷川とコンビを復活した。次いで衣笠貞之助監督の『或る夜の殿様』に出演し、同時に衣笠とも恋愛関係を結んだ。同年10月、第2次東宝争議が発生。ストに反対する大河内に同調して、長谷川、高峰秀子、藤田進、黒川弥太郎、入江たか子、原節子、山根寿子、花井蘭子とともに十人の旗の会を結成して日本映画演劇労働組合(略称:日映演)傘下の東宝従業員組合を脱退。これが元で翌1947年(昭和22年)3月に新東宝映画製作所が創立された。しかし、すぐにその脱退組を離れてフリーとなり、製作が再開された東宝で衣笠監督の『女優』に松井須磨子役で主演した。この頃、妻子ある衣笠と経堂に新居を建て、同棲生活をしている。 1950年(昭和25年)、同年公開の『影法師』で共演した加藤嘉と結婚。共産党員だった加藤の影響で思想的に左旋回し、同年に日映演に加入。「人民女優」とのレッテルを張られ、レッドパージの対象にもなった。1952年(昭和27年)、加藤とともに現代俳優協会を設立。この頃は亀井文夫監督の『母なれば女なれば』『女ひとり大地を行く』、関川秀雄監督の『ひろしま』など、独立プロ系の監督作に多く出演した。 その間、娘の瑳峨三智子が東映に入社し、母娘が再会する。しかし、瑳峨は自分を棄てた山田を憎み撮影所で会ったときも母のことを「山田さん」と呼んでいたとされる。そのわだかまりは、瑳峨が山田より先に死を迎えるその日までついに消えなかった。1954年(昭和29年)2月、加藤と家庭と仕事の不成立を理由に協議離婚。その直後に下元勉と結婚するが数年で離婚。 その後は女優として最も充実した時期となり、成瀬監督の『流れる』、豊田監督の『猫と庄造と二人のをんな』、小津安二郎監督の『東京暮色』、黒澤明監督の『蜘蛛巣城』『どん底』、渋谷実監督の『悪女の季節』『もず』、市川崑監督の『ぼんち』など、巨匠・中堅問わず幅広い作品に出演。この時期だけでブルーリボン賞主演女優賞・助演女優賞をそれぞれ1回、毎日映画コンクール女優主演賞を1回、キネマ旬報ベスト・テン女優賞を2回受賞し、名実ともに映画界を代表する大女優となった。
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