戦後期 - 調教師専業時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/08 08:05 UTC 版)
「稲葉幸夫」の記事における「戦後期 - 調教師専業時代」の解説
終戦後、1946年10月に日本競馬会主催の競馬が再開された。これに伴って競馬会が戦前に買い上げていた競走馬を馬主に抽選で配布し、さらにそれらが各調教師に5頭ずつ割り振られた。稲葉はその内の1頭・ヤマトナデシコで中山記念(秋)を制し、戦後の重賞初勝利を挙げた。同馬はもともと大久保房松が管理していたが、新馬主の門井鍋四郎が稲葉の開業当初からの顧客であったため、大久保の計らいで稲葉厩舎に入っていた。稲葉は謝意を表すため、同馬で得た1シーズン分の賞金を大久保に贈っている。 1954年には公営・大井競馬から転厩してきたオーストラリア産馬・オパールオーキツトで天皇賞(秋)(戦前は前身の帝室御賞典)に優勝。これも牝馬によるものであった。以後しばし八大競走制覇から遠ざかったが、1964年にヤマトナデシコの孫・ヤマトキヨウダイが天皇賞(秋)と有馬記念を連勝し、同年の最優秀5歳以上牡馬に選出された。 同年、弟子の嶋田功が騎手としてデビュー。嶋田は急速に頭角を現し、以後厩舎の主戦騎手となった。1970年代に入ると稲葉-嶋田の師弟による馬が主に牝馬のクラシック戦線で顕著な成績を挙げ始める。ナスノカオリで1971年の桜花賞を制したのを皮切りに、翌1972年にはタケフブキがオークスを制覇、1973年はナスノカオリの妹・ナスノチグサがオークスを制覇。1976年にはテイタニヤが桜花賞とオークスを連覇し、牝馬クラシック二冠を達成した。同馬は秋のエリザベス女王杯で史上初の牝馬三冠が懸かったが、15頭立て8番人気のディアマンテに敗れ、三冠は成らなかった。このディアマンテも稲葉の管理馬であり、この勝利によって稲葉自身は調教師として初の牝馬三冠を達成した。1981年にはテンモンがオークスを、1982年にはビクトリアクラウンがエリザベス女王杯を制し、稲葉は牝馬三冠競走で計9勝を挙げた。 牡馬では、1973年にタケフブキの弟・タケホープが東京優駿(日本ダービー)と菊花賞を制してクラシック二冠を達成し、同年の年度代表馬に選出されている。翌年には天皇賞(春)も制覇、いずれも、当時空前の競馬ブームをもたらした人気馬ハイセイコーを破ってのもので、両馬は後年まで「ライバル物語」の題材として扱われている。稲葉は「ハイセイコーという好敵手がいたからこそ、あの馬の良さも一段と光ったのです。馬でも人でも強力なライバルがいてこそやる気を出すものです」と語っている。 ビクトリアクラウンのエリザベス女王杯制覇を最後に大競走の制覇からは遠ざかり、重賞勝利もキリノトウコウによる1987年のクリスタルカップが最後となった。1989年には調教師定年制が導入され、同年2月28日付で当時80歳を過ぎていた大久保房松、小西喜蔵、諏訪佐市、久保田彦之とともに調教師を引退した。通算成績は日本競馬会が発足した1937年以降、10422戦1451勝、うち重賞51勝。稲葉は「どこの先進国行ったって、中央競馬みたいな定年制などありゃしない」と、この制度に批判的であった。 その後はJRAで非常勤参与を務めたのち、2001年10月7日に93歳で死去した。2004年、日本中央競馬会創立50周年を記念して調教師・騎手顕彰者制度が発足し、稲葉は調教師部門で選出され中央競馬の殿堂入りを果たした。
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