戦後柔道の変容とその抱えた矛盾
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:24 UTC 版)
「柔道」の記事における「戦後柔道の変容とその抱えた矛盾」の解説
嘉納治五郎の没後、柔道は大きな変遷を経験することになる。 1938年(昭和13年)5月、嘉納治五郎はカイロでのオリンピック会議の帰途、病死するに至る。 日本政府はその年、7月15日、1940年に開催が決定していた1940年東京オリンピック返上を閣議決定する。 1939年(昭和14年)9月にヨーロッパで第二次世界大戦が勃発し、1941年(昭和16年)12月には太平洋戦争が起こる。戦況が拡大するにつれ、1942年(昭和17年)には日本では大日本武徳会が政府主導に改組される。その中では、剣道、柔道、弓道が、銃剣道、射撃道と共に中心的武技として軍国主義思想に利用されていくことになる。新武徳会における剣道の傘下には種々の武器術武道・武術も、また柔道の中(傘下)には空手や捕縄術、古流柔術など種々の徒手格闘や対武器技術の武道・武術も総合して含むことも明文化される。 1945年(昭和20年)、日本は太平洋戦争における敗戦を経験し、1946年(昭和21年)11月には剣道、柔道、弓道などは軍国主義に加担したとしてGHQにより武道禁止令を受け、大日本武徳会は解散させられることになる。 その後国内での再開の努力や文部省による請願書の提出、海外の柔道連盟の発足などを受けて1950年、柔道は学校教育における再開を果たす。 しかし柔道は武道禁止令の解禁に際し、「競技スポーツとしての柔道」が外圧によって誓約されることになる。それはいわば便宜的なものとも捉えられるものでもあったため、日本の指導者の中にはいつか再び武道を精神教育の中心として復活させようという志を持つ者も多くいた。 しかし国際スポーツ化の流れの中で、1964年東京オリンピック開催に際し、生前の嘉納治五郎が消極的態度をとっていた柔道のオリンピック競技化への道を進むことになる。 それらの流れの上で柔道の変容については次のような指摘がある。 「体育」面では、 「競技の国際化に伴って、次第に競技に勝つための「身体(体力)強化」論が強まることになる。一方では「形」が実践されなくなることに示されるように、嘉納が強調した「身体の調和的発達や保健」という側面は弱化されていく。結果的に、競技力向上のための「強化」が柔道実践の中心となっていき、「体育」として嘉納が重視した大衆性や生涯に亘る継続性の側面は見失われていった。」 「勝負(武術)」面では、 「「競技スポーツとしての柔道」が浸透することによって「勝負は競技場の場における出来事」として限定されていき、戦前ではかなり強く意識されていた、武術としての追及は急速に弱化していった。そのことはまた、武術性を保持する目的が加味されていた「形」の実践の低下とも結びついていった。「柔道はスポーツである」ことが世界共通の認識となっていき、ますます「武術としての柔道」論は顧みられなくなっていくことになった。」 「修心」面、特にその「徳育」面には、昭和60年頃までは、「武道」や「修行」そして「礼儀」という観点から「徳育の低下」を食い止めようとする論調が盛んであった。それら徳育の低下への憂いは基本的に、たとえ「競技スポーツとしての柔道」を容認する者であっても、「他の競技スポーツと柔道は単純に同一ではない」という認識から発せられていた。特に戦前来の多くの指導者では、武道が有する「真剣味」こそが精神の高揚に役立つとする「武道としての柔道」論も根強く残存し、また「修行」という弛まぬ継続性が人間を向上させ、「礼儀」とは日常生活全般に浸透したものでなければならない、という価値観が継承されていた。 しかし、柔道による徳育の効果が、戦前では人間としての「生き方」や「生活」に結びつくものでなければならなかったのに対して、「競技スポーツとしての柔道」では競技という場に限定されてしまうことが問題視されたのであった。 また、武道独特の修行観や段位に対する価値観、あるいは礼儀作法という行動面においてもその低下が憂慮されてきた。 また「精力善用・自他共栄」は、 戦後も不断に唱えられ続けてきたが、昭和60年頃から以降はその唱えはかなり減少する。 概して、嘉納が唱えたようにそれらを「日常・社会生活へ応用する」といった側面は強調されなくなり、「精力善用・自他共栄」を「競技スポーツとしての柔道」にどのように活かしうるか、そこへの関心が集中することになる。 一部で、「競技スポーツとしての柔道では精力善用・自他共栄の理念を活かし難い」という批判が出されていったが、その論調は、「勝ちさえすれば目的を達するような傾向が横行しだした」というように、「勝利第一主義への批判」と結び付いたものであった。 それら変容を決定づけた最大の原因は、競技場で当然のごとく求められた「勝利志向」の強まりにみられる。その理由は、勝利志向の「強まり」と、弱者への配慮(すなわち大衆性)や他者肯定(すなわち道徳性)の「低下」との間には避けがたい相関があり、また、「勝利志向の強まり」が、「競技」の時空のみへと視野を限定させ、柔道を生活や生き方に応用するという幅広い価値観も見失わせた。 ことに日本の柔道界では、国際舞台での勝利が、発祥国としての意地と誇りによって強く求められたがゆえに、「勝利」という価値が「競技化の促進」という価値と容易に結びつき、戦前では修行者の動機づけを高めるための手段的価値に位置づいていた「勝利」が、次第に目的的な価値へと転換していった。 嘉納は生前、教育的価値の体系を保持するために、幾度も「目の前の勝敗に囚われるな」と唱えたが、このような戦後における「勝利の目的化」によって、その体系は崩れていった。」
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