戦後期以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 06:28 UTC 版)
昭和26年3月31日に都市計画法(旧法)に基づいて錦公園と湊山および後藤グラウンド(のちの湊山球場)を合わせて湊山公園と命名されることとなった。その後、市の中心となる大規模都市公園(いわゆるセントラルパーク)の必要性や市の施設用地の確保などのため、昭和46年度より清洞寺岩から出山を結ぶ中海を埋め立てることとなった。その際に老朽化していた鳳翔閣と公会堂は取り壊された。その後、一部は隣接している鳥取大学医学部附属病院の用地となった。昭和51年より多くの施設の整備が開始され、現在の湊山公園の形となっている。
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