戦後期の開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 02:43 UTC 版)
第二次世界大戦の後すぐ、ソビエト連邦のロケット技術者アレクセイ・イサエフはある報告書を発見した。これは1944年8月の「ジルバーフォーゲル」計画の最新版だった。彼は書類をロシア語に翻訳し、最終的にヨシフ・スターリンの注意を惹いた。彼は対蹠地爆撃の概念に強く興味を示した。1946年、彼は自らの息子であるヴァシリー・スターリンと、戦前に有翼ロケット機の作業を手掛けていた科学者のグリゴリー・トカティをパリに送り、ゼンガーとイレーネ・ブレットを訪問した。ソビエト連邦に参加し、努力するよう説得を試みるためであったが、ゼンガーとブレットは誘いを断った。。 1946年11月、ソ連ではゼンガーとブレットなしに国産の機体を開発するため、ムスティスラフ・ケルディシュの率いるNII-1設計局を編成した。彼らの初期の研究は、同時期のアメリカで開発中だったSM-64ナバホとは異なり、ロケット動力の極超音速スキップ・グライド機のコンセプトがラムジェット駆動の超音速巡航ミサイルに変わることを確信させた。開発はある程度のあいだケルディシュ爆撃機として続けられたものの、従来的な弾道ミサイルの改良は最終的にこの計画を不要なものとした。 アメリカ合衆国でのスキップ・グライドの概念は、渡米した多数のドイツ人科学者により提唱されていた。主な提唱者はベル・エアクラフトに勤めるヴァルター・ドルンベルガーやクラフト・エーリッケである。1952年、ベル社はある爆撃機のコンセプトを提示した。これは基本的に「ジルバーフォーゲル」の垂直発射バージョンで、bomiとして知られた。この計画は1950年代を通じて数種類のコンセプトに引き継がれ、Robo、ハイウォーズ、ブラス・ベル、そして最終的にX-20ダイノソアに至った。初期の設計は一般的に爆撃機であり、後のモデルは偵察や他の任務を狙っていた。ドルンベルガーやエーリッケは1955年に『ポピュラー・サイエンス』誌の記事で共同して働き、定期旅客機に使うためのアイデアを投じた。 成功を収めた大陸間弾道弾(ICBM)の攻撃任務への導入は、スキップ・グライド爆撃機の概念への関心を終わらせ、偵察機としての任務も偵察衛星が同様に果たした。X-20宇宙戦闘機は1960年代を通じて関心を惹き続けたが、最後には予算削減の犠牲となった。1963年3月に行われた別の再検討の後、ロバート・マクナマラ国防長官は12月に計画を中止した。4億ドルを費やした後、彼らは未だに果たすべき任務がないことが注目された。
※この「戦後期の開発」の解説は、「ブースト・グライド」の解説の一部です。
「戦後期の開発」を含む「ブースト・グライド」の記事については、「ブースト・グライド」の概要を参照ください。
- 戦後期の開発のページへのリンク