報道に対する批判
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「愛子内親王不登校騒動」の記事における「報道に対する批判」の解説
また、皇室を取材するマスコミの姿勢にも疑問が投げかけられた。 騒動後、2012年の3学期になっても愛子内親王の不登校が続いているかのように雑誌では記述されたが、久能靖はこれを「完全にお一人で登校されている」と強く否定している。 久能と小林よしのりらは対談で、「皇族は一方的な報道に対し反論できない立場にあり、また特に皇室バッシング記事は『売れる』ため、反論が来ないのをいいことに皇太子妃雅子の適応障害診断を疑ったり離婚を薦めるなどの敬意を欠いた報道が横行し、もはや皇室に対する逆差別となっている」と指摘した。 この背景には、宮内庁内の幹部を含む関係者や、学習院の関係者が(とくに皇太子家に関して)偏った情報を意図的に流していること、宮内庁幹部が他の官庁からの出向であり、任期中に事を荒立てることを嫌い自己保身に走っていることを挙げている。そして本騒動においては、「マスコミは普通の児童に同様の事態が起きれば学校側を追及すべき状況にも関わらず、小学生の愛子内親王に対してスパルタ教育的に陰湿ないじめに耐えることを求める異常な状況だ」といい、自分の子供を守るために授業を参観する母・雅子妃の姿勢を擁護した。また友納尚子は、「愛子内親王に対する取材は、誕生時からメディアに注目された父の皇太子と比べても過剰で、登校時にも父の頃よりはるかに多数のカメラや記者が貼りつく状態であるといい、彼女の幼少時に事実に反する自閉症の疑い説が流されたことも含め、子供のことは悪く書かないといった最低限のルールが守られない状況にある」と指摘した。
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報道に対する批判
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1981年(昭和56年)6月30日に輿掛が2回目の事情聴取を受けて以降、マスメディアは輿掛を重要参考人として犯人視する報道を続けた。支援者らによれば、こうした報道は地元紙の大分合同新聞が最もひどかったという。大分合同新聞は、6月30日の夕刊で「重要参考人を呼ぶ-若い会社員を追及」という見出しで「Aに対する二十九日までの事情聴取の中でも、Aの主張するアリバイには確固とした裏付けがなく、捜査本部ではAの追及に全力を挙げている」と報じたのに始まり、7月9日には「捜査難航-乏しい物証-交友関係者はシロ?」として「捜査本部では、すでに重要参考人として事情を訊いた大分市内の若い会社員を依然マークして身辺捜査を続ける」とする記事を載せ、7月30日には「捜査に焦りの色も」と題して「捜査開始当初から捜査本部が強い疑惑を捨てていない人物が大分市内の会社員Aだ」とし、隣室にいながら物音を聞いていないと主張していることや新しい傷があったことなど「多くの不審点が浮かんでおり、身辺捜査を通じて出てきた関連情報からも疑惑は消えていない」と報じた。さらに、9月27日には「詰めの捜査へ-消去法で絞り込む」という見出しで捜査本部長である藤波重喜大分署長のインタビューを載せ、この中で輿掛について聞かれた藤波署長は、「特定の人物については逮捕もしていないのにどうこう言うことはできない」としつつも「これまでリストアップした中に犯人が必ずいる」と語っている。 逮捕当日の1982年(昭和57年)1月14日には、大分合同新聞の朝刊に「”隣室の男”逮捕へ」の大見出しの下、「女子短大生殺人事件 体毛、血液型が一致 大分県警が断定」「事件直後、新しい傷」に続き、小さく「本人は否認のまま」という見出しが紙面に踊った。記事では、202号室で他の女性と同棲していた「大分市内の会社員A」の逮捕令状を請求と報じていた。その日の夕刊では、手錠をかけられて連行される輿掛の写真を大きく載せて「ホテル従業員逮捕」「執念……7カ月ぶりに-ムッツリした犯人・輿掛」と報じ、翌15日の朝刊では、「けさから本格追及-短大生殺しの輿掛 いぜん否認続ける」の見出しで「是が非でも輿掛を自供に追い込む構え」「輿掛はふだんはおとなしいが、酒を飲むと狂暴になるタイプ」などと報じた。そして、1月22日の朝刊では、輿掛の「自供」を発表する藤波署長の写真を載せ、「輿掛やっと自供」「『私に間違いない 恋人とけんか……カッと』」「良心ゆさぶる説得で……」の見出しの下、「事件直後の捜査本部による数回の取調べに対して、ふてぶてしいほどに犯行を否認し続けた輿掛も、捜査本部の長期にわたる執念の捜査によって得た体毛の鑑定結果やその他多くの状況証拠の前に屈した」「二一日までに輿掛は『私がやったのに間違いありません。遺族や市民の方に迷惑をかけて申し訳ありません』と犯行を全面的に自供した」「この自供により、難事件といわれた女子短大生殺人事件は七カ月ぶりに一気に全面解決へ向かう」と報じた。また、犯行の動機として、輿掛が「恋人とケンカし、彼女がアパートを飛び出したのでムシャクシャして酒を飲んでいた。そこへ(被害者名)が帰ってきたので……」と供述しているとされたが、そのような供述調書は存在しない。 逮捕までは匿名ではあったが、狭い地域社会では誰のことかは周知のことであり、輿掛はもとより親類までが報道被害を受けた。輿掛によれば、報道後、母親はパートや銭湯にも行きづらくなり逮捕後は長姉の元に引き取られたが、その姉たちも嫁ぎ先で肩身の狭い思いをし、うち一人は離婚している。珍しい姓であったため「輿掛」の名前では仕事につけず、嫌がらせ電話が絶えないため電話番号を変えて電話帳にも載せないようにしたという。 当時のマスコミのこうした報道姿勢に対して、弁護団は、無罪推定の原則を尊重する姿勢に欠け、自白偏重の捜査など権力の行き過ぎをチェックするマスコミの使命は全く見いだせないとし、これらの記事を読んだ近隣住民などの証言や裁判官の心証に大きな影響を与えることになったと批判している。ノンフィクション作家の小林道雄も、こうした警察発表を垂れ流すだけの報道は裁判官に予断を生じさせることになり、起訴状一本主義は有名無実と化すとし、「輿掛さんを犯人にしたのは、警察・検察・一審裁判所の三者であり、それに加えてマスコミが輿掛さんを抹殺しようとした。この四者すべてが謝罪していない」「この四者の中でマスコミはいち早く謝罪し、他の三者にも謝罪するように迫るべきだ」と主張している。 1995年(平成7年)6月30日の無罪判決を受けて、大分合同新聞は翌日の朝刊で「DNA鑑定の信用性否定」「『別に真犯人』を示唆」と報じ、「『科学鑑定』に警鐘 自白偏重にも反省促す」とする解説記事を掲載した。他社も、「現代型冤罪」「自白偏重主義」「危険な予断捜査」「真犯人像を示す」などと警察を批判する記事を掲載した。西日本新聞は、時効成立前日の1996年(平成8年)6月27日から5日間、当時の報道姿勢に対する自戒を込めた「時効 それぞれの15年」という記事を連載した。しかし、当時の報道について輿掛に謝罪した報道機関はなかった。みどり荘事件の報道を検証した同志社大学教授の浅野健一らによるアンケートでは、報道各社は輿掛に謝罪しない理由として「謝罪の要求を受けていない」などとした。しかし、輿掛や弁護団などは、「自分に非があるとわかっているのなら、こちらから謝罪の要求をしなくとも自主的に謝るのが常識だ」として、自発的謝罪を求めている。また、大分合同新聞は「輿掛さん本人がいったん自白した」ことを謝罪しない理由の一つとしたが、これに対して浅野教授らは、公判記録から輿掛の供述が「自白」とは呼べないことは明白であると批判している。 弁護団は、報道機関に対して、輿掛が無実であったことを根気強く報道し、読者の誤解を解くよう努力する責任があると主張している。浅野教授らも、地方の事件では地元のメディアの影響力が大きくそれだけ責任も重いとして、大分合同新聞が率先して謝罪と検証を行って輿掛や家族の社会復帰を支援するのが地元メディアの役割であると提言している。浅野教授は、著書の中で「みどり荘事件報道の検証を怠り、報道改革に努力しないマスコミ人はジャーナリストの名に値しない」と述べている。
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