犯人視する報道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 11:59 UTC 版)
「富山・長野連続女性誘拐殺人事件」の記事における「犯人視する報道」の解説
また、事件直後には多くの報道機関が、北野をMとともに(警察や検察の発表通り)犯人視する報道合戦を行い、「殺人鬼」「北野は典型的な犯罪者」などの非難の言葉が新聞に並んだ。特に、事件発生直後(1980年 - 1981年)にかけては、警察発表が報道機関によって鵜呑みにされている状態で、「北野は殺人犯」とする論調が大半だった。事件後、北野の父親は職場を解雇され、妹も結婚できなくなり、実家で経営していた店も廃業を余儀なくされた。和田美智子(「メディアの中の性差別を考える会」)は、このような報道は無罪推定の原則に反する旨や、被疑者が受ける刑罰以上に大きな人権侵害を、本人だけでなく家族にもおよぼし、仮に無罪判決を受けても社会復帰を困難にするという旨を指摘している。 北野の弁護人を務めた黒田勇は、このような報道や、男女関係に関する地域社会の偏見が、捜査当局に「身代金目的の誘拐殺人は女性1人ではできない」という偏見を持たせ、「Mの虚言癖や異常性格を看過して彼女の供述を過信し、物証の捜査が後手に回るという失敗をおかすことになった」と指摘している。北野の母親は、このように息子を殺人犯として報道したマスコミに不信感を抱き、ほとんど取材を受けなくなった一方、佐木隆三の取材に対しては「事件のことは世間に忘れてほしくない。二度と起こしてはならない冤罪事件として、いつまでも覚えていてほしい」と述べている。 後に、地元の新聞社は控訴審判決の前後に、冤罪が生まれる構造や、事件報道のあり方、風評被害に苦しむ北野の実情などを報じたほか、事件当時の報道について社会部長名で謝罪した新聞社もあったが、北野に無罪判決が言い渡されてからも、富山県民の北野に対する偏見はすぐには消えなかった。北野本人は無罪判決を受けて以降、マスコミ各社に対し、「釈放後、事件当時の新聞や雑誌(1980年3月 - 9月ごろ)の報道を見ると、極悪非道のまるで別人の自分がいて驚いた。そのような報道を読み続けていた富山県民や日本国民は、私に対する凶悪非道な人間像を先入観として抱いてしまったのだろう」「あなた方が持っているペンは、(使い方次第で)いつでも人を抹殺することができる反面、無実の人を社会復帰させたり、私のような冤罪者を二度と出させないということもできる」「私はマスコミによって一度殺されたのだから、今度はマスコミの力で生き返らせてほしい」などと訴えている。 事件当時の報道および、富山県民の北野に対する冷ややかな視線について、朝日新聞富山支局の記者である熊谷功二・小幡崇は、「事件当時の報道に加え、『愛人と一緒にいて、事件を知らないはずがない』『女1人でできる事件ではない』という『常識』と、(当時は結婚していた北野の)不倫という道義的責任の追及が結び付けられたため、(富山県民の多くからは)無罪を素直に受け入れてもらえないようだ」と考察した上で、北野がその県民からの偏見を解消する方法として挙げた「誠実に生きている姿を見せるしかない」という言葉について、「予断と偏見を助長したマスコミの責任を告発しているようでもあった」と回顧している。 弁護団は毎月3回開かれた公判の際、公判直後の記者へのレクチャー(解説のための懇談)を必ず行い、週刊誌やテレビ、新聞の独自取材も積極的に受けたり、「北野宏を救う会」で年に1回、報道関係者や佐木隆三・井口泰子らを招いた公開座談会を開き、裁判の状況と問題点を訴えたりした。黒田は、逮捕直後の北野と接見した際、「今の(北野を犯人視する報道を続けていた)新聞が必ず、あなたの真実の声を聞き届けてくれる」と説得した一方、1983年(昭和58年)ごろから積極的に公判の取材をするようになった記者と良好な関係を築き、「正確で、公平で、なおかつ読者が読んで面白い記事になってほしい」との考えから、公判内容を詳細に教えたり、1987年4月ごろには記者クラブで「捜査報道の原点に戻って書いてほしい」「検察側の肩を持ちすぎないようにしてほしい」「報道する際、『冤罪をつくる最後の締めくくりは裁判所の誤判だ』という視点を入れてほしい」などと訴えたりした。黒田は、「検察側が冒頭陳述の変更に至ったのは、月3回の公判を丹念に追い続けた記者たちの継続的な取材の力があったからだ」「自分が記者たちにいくつかの注文をした1987年春の時点では、多くの記者たちは、捜査当時の予断報道に対する贖罪意識を持っていた。そのような意識を即記事にできないところがマスコミの弱さだが、それでも継続報道を続け、判決前に裁判の問題点などを多大な紙面を割いて報道してくれた」などと述べている。 また、事件発生と同じ1980年に長野県で開局したテレビ信州 (TSB) は、本事件の報道における失敗(北野を犯人視した報道)を教訓に、後年(1994年)に自局の本社所在地である松本市で発生した松本サリン事件(後にオウム真理教による犯行と判明)の際には、被害者かつ第一通報者でありながら、長野県警や他局から犯人視されていた河野義行を犯人視する報道を控え、自社取材で裏付けの取れた情報のみ報道する方針を貫いた。 佐木は控訴審判決に際し、『読売新聞』富山版の紙面に寄稿した手記で、逮捕直後に北野を犯人視した新聞報道について言及した上で、「この事件についての裁判報道は、一般刑事事件として前例がないほど、ていねいにフォローされた。やはり、初期の報道への深刻な反省が、裁判ウオッチングを続けさせたのだ。」と述べている。また、1995年には小宮悦子との対談で、甲府信金OL誘拐殺人事件(1993年発生)の報道について言及し、犯人逮捕後も「単独犯行はあり得ない」という論調で報道し続けていた報道機関が目立ったと指摘した上で、そのような報道は本事件のような冤罪を生む危険性があると指摘している。川上和久(明治学院大学法学部長)は、メディアスクラムによる犯罪報道が生み出した冤罪事件の例として、本事件と松本サリン事件を挙げている。また、小田貞夫(NHK放送文化研究所)は、メディアが逮捕時や事件発生直後に被疑者を犯人視するセンセーショナルな報道を展開したことによってもたらされた冤罪事件(松本サリン事件と同じ構図の冤罪事件)として、本事件や「松戸OL殺人事件」を挙げている。
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