城郭・遺構
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 18:16 UTC 版)
主郭・天守・本丸 古城山頂に分布し、一の曲輪・二の曲輪・三の曲輪・四の曲輪があり、大手曲輪、帯曲輪、腰曲輪、石積(石垣)、堀、堀切、畝状竪堀、切岸、虎口、岩場跡、土塁見張台が加治田山の峰や尾根に続く。主要な主郭曲輪入口や難所には虎口があった。本丸には、物見櫓、見張櫓、隅櫓、主郭の住居(天守)があり、織田信長の中濃侵攻戦時は、櫓(二重櫓)があった。加治田城最大規模改築(加治田・兼山合戦)においては三重櫓以上となる。主郭と虎口の施設には今でも石垣や石積み、岩跡が残っている。本丸には加治田城の表示がある。 東曲輪(東砦)・西曲輪(西砦) 本丸より東の山に東曲輪がある。本丸より竪堀と堀切から西には岩(狼煙台)と西曲輪の岩跡が遺っている。東西から本丸を囲んでいる。 中腹屋敷城・城主屋敷城 加治田城本丸・本城と城下町・御殿屋敷城の中腹(山腹)にあった屋敷城。帯状に重なった曲輪が遺っている。 東櫓・西櫓 東の小山(天神山)には、堅固な櫓で三徳櫓、西の小山(元加治田小学校裏山)に砦があった(東は家老長沼三徳、西は古参の西村治郎兵衛が守備)。三徳櫓には、旗を立てる大岩(三徳岩)がある。この砦は加治田城御殿屋敷を囲むように位置し、加治田城山頂本丸へつづく道を挟んでいる。(こちらが本来の登山道であり、登るのが困難なジグザグの本城登山道となっており、今も整備されており途中、厳しいところには登山用ロープが用意されており、ロープで登ることが可能である。) 御殿屋敷・家臣団屋敷・龍福寺 上之屋敷とも言い、城主の居館伝承地がある。東公民館(旧加治田村小学校、加治田村役場跡)が跡地となっており、公園がある。山沿いへ西に行くと、菩提寺「龍福寺」がある。この山縁の場に家臣団屋敷があった。 衣丸(出丸) 川浦川にある絹丸橋の北、加治田山麓の絹丸神社の南にあり、捨堀に囲まれ柵が二重三重であり、櫓や家臣の石垣でつくられた屋敷もあった。街道が加治田村(絹丸村)の東で飛騨路として加治田の出入口、西は関市、岐阜方面、北は加治田山を登り、武儀郡、郡上八幡、敦賀方面、南は勝山から木曽川を下り、伊勢神宮への街道が衣丸にて分かれており、重要な曲輪であった(関・加治田合戦においても長井道利勢を衣丸で防ぎ切り、加治田城下町や本城への侵入を防いでいることや、湯浅新六等、主要な将を配置している)。 馬場 街並の南裏・川裏側の北に、駅馬があり、駅家郷があった。 木戸外 加治田城下町西のはずれで、付近は駅の出入口の柵があった。 米取場・狼煙台・見張台 衣丸より、北街道の絹丸神社の横道を行くと加治田山途中に大きな岩山がそびえたつ。その岩山が米取場(米置場)として使用され、そこまでは馬車で運び、米取場からは、本城まで人が担いで城まで運んでいた。岩山は景観がよく、狼煙台・見張台や砦としても使用されていた。北の津保川と南の衣丸から同じ距離になり、東の本城へ続く道もあり、重要視された。 東清水口 白華山清水寺の入口砦で、南は川浦川、大洞川があり、入口は狭く侵入が難しい場所である。白華山清水寺より加治田城本丸への道がつづいているが、本丸の周りを回りながら登城しなければならない。 清水滝口 白華山清水寺の裏手の砦であり、滝がながれている。川口が深く道が狭い場所で守りやすく攻めにくい。 郷が洞 絹丸神社裏頂上山に位置し砦があった。 鳥帽子岩・霊雅山 龍福寺の北、西の頂上の山。ここにも砦があった。 小屋洞・田洞・石拾い 加治田衆の武将と農民・町民の領民が組織した部隊が集まる砦があった。 北の難所 北は津保川が流れている麓から梨割山頂上までは急斜面の崖で岩肌が多く、登るのは至難の場所であった。唯一、衣丸から加治田山の米取場を通り、武儀郡へ出る道が西にあるが、北の入口は津保川が流れており、入口は砦があり急で狭く侵入が難しい。また、山の丘の登り降る傾斜が多く難を極めた。 梨割山山頂 北の難所の頂上で加治田城本丸より奥にある。加治田城下町より中大手道から城主の中腹屋敷を通り、西大手道→西見張台→堀切から東が本丸への道と大手門があり、北へ搦手曲輪→搦手道→梨割山山頂へと続いていた。山頂はひらけており、北側の景観を一望できる。また、麓の城下町は見えないが南方の遠くまで見渡せる場所で見張台、狼煙台、砦があった。 加治田川小牧 北側の平地。津保川沿いに町屋や佐藤氏親族屋敷が並んでいた。又、川の瀬が深い事も有、川舟の流通も兼ねている。
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城郭・遺構
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 15:43 UTC 版)
羽生城は利根川沿岸の舌状台地を生かした平城であり、その周囲は沼地に囲まれていたとされる。江戸後期に編纂された『新編武蔵風土記稿』や福島東雄著の『武蔵志』には次のように記されている。 古城蹟当城は平城にして西を首とし、東を尾とし、東南北の三方は沼にして、西の一方のみ平地に続き、此所に大手口ありし由、本丸と二の丸の境とおぼしき所に土手の跡残り、何様堅固の体なり、大手を入りて二の丸あり、そこの広さは東西南北四十間余、それより橋を渡りて本丸に至れり、此所は少しく地高く形円やかにして東西六十間余、南北四十間余、ここより良に当たり、天神曲輪と云あり、南の方に小沼と云沼一ヶ所、また北の方にも今はわずかの蓮池及び蒹葭生い茂れる、広き沼あり、何れも城ありし頃固めの沼なりし — 新編武蔵風土記稿 古城蓑沢村の境町場に内東谷と云所にあり 天神あり 当地砂野土にて田多畑少 城南に丸沼あり 北に城沼あり 芦原あり 今は皆耕田となり — 武蔵志 この他に江戸期の様子を伝える資料として宝暦3年(1753年)に作成されたと推測される『武陽羽生古城之図』があるが、歴史家の冨田勝治は「仮に(『新編武蔵風土記稿』や『武陽羽生古城之図』が執筆された時点で)遺構が残されていたとしても、それが羽生城全体の姿とはいえないだろう」としている。かつて羽生の市街地を囲うように曼荼羅堀と呼ばれる堀が設けられていたといい、冨田はこれが羽生城の惣堀の役目を果たしていたものと推測している。 1971年(昭和46年)12月5日、記念物(史跡)として羽生市の指定文化財となった。ただし、城跡は住宅地や曙ブレーキ工業の工場敷地となっている。沼地も昭和期には一部が残されていたが、平成に入った現在では完全に埋め立てられている。天神曲輪の跡には古城天満宮が建立され、境内には城跡を示す石碑が建てられている。
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城郭遺構
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/15 15:52 UTC 版)
南西麓の石垣 山麓では唯一の現存石垣である。山上の石垣に多い「野面積み」ではなく、より高度な「打ち込みはぎ」で積まれている。 三の丸跡 西登山路が通っている。上中下3段ないし上下2段になっている(狭い中段を数に入れるかどうかで異なると思われる)が、下段は大半が城山配水池のために切土され遺構は失われている。残存部分はヤブガラシの草原になっている。北に張り出した材木櫓跡(石垣を積まず同じ三の丸と同じ高さ)には、北麓から、築城時に資材運搬のために開かれた谷が伸びている。 帳櫓(とばりやぐら)跡 三の丸と西二の丸の間で、西二の丸より少し高い。4間×4間(約7m×7m)。石造りの基礎が残る。かつて、1907年に鋳造された日露戦勝記念鐘の鐘楼があった。 西二の丸跡 西登山路が通っている。ヒメアシボソの草原になっている。 弓櫓(ゆみやぐら)跡 本丸跡西端と繋がっており、しばしば本丸跡の一部とされる。段差があり本丸跡より少し高く、城山の山頂(最高点)がある。7間×8間(約13m×15m)。石造りの基礎が残る。 本丸跡 山頂付近に東西に広がる広場。草は生えておらず、玉砂利ないし土がむき出しである。1938年から2003年まで護國神社があった。 本丸東石垣 渭山城時代の石垣ではないかと言われていたが、調査により否定された。また、五輪塔の火輪と水輪の石が使われており、立ち退きを拒否して斬罪された範月坊を供養するためと言われるが、当時の築城によくある石材としての転用のようである。 東二の丸跡 東登山路が通っている。キンエノコロの草地になっている。 天守跡 東二の丸跡に碑が立つ。徳島城の天守は本丸ではなく東二の丸にあった。
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城郭遺構
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 10:04 UTC 版)
現在、仙台城址は青葉山公園として整備されているが、二の丸が東北大学川内キャンパス、三の丸が仙台市博物館としてそれぞれ利用されている。本丸から三の丸にかけて石垣および土塁が現存し、三の丸には長沼および五色沼と呼ばれる水堀が残る。馬場の跡地については川内追廻を参照。 太鼓塀については明治以降のものか江戸期のものか判断が分かれるところである。 城内に残された建造物は第二次世界大戦頃までにすべてが失われたが、寅の門が宮城県知事公館の門(県指定有形文化財)として移築され現存する。この門は以前は二階建ての楼門形式であった。また、本丸搦手の辰ノ口門が満興寺山門として、山門が孝勝寺山門として、二の丸勘定所の板倉と伝えられる建物(県指定有形文化財)が宮城野区岩切の民家に移築現存する。 この他、勾当台地区にあった藩校養賢堂正門が、泰心院山門(市指定有形文化財)として移築され現存する。
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城郭遺構
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 20:49 UTC 版)
石垣 - 公園内各地。 月見櫓跡 - 城山南。 太鼓櫓跡 - 城山南。 舌石 - 城山南。寺島川の石垣に残る。 西二の丸跡 - 城山。 東二の丸跡 - 城山。 天守跡 - 城山(東二の丸跡内)。 張櫓跡 - 城山。 弓櫓跡 - 城山。
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