風見城の位置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/26 14:09 UTC 版)
風見城について、塩谷町の町史や日本城郭大系では明神山の東護神社が風見城であるとしている。 しかし、以前より、東護神社自体が風見城が存在する以前から存在していた事と合わせて、明神山自体、堀切、横堀、竪堀と言った堀や土塁が一切存在せず、明確な切岸すらもなく城郭遺構の体(てい)を成していない事、また東護神社の縁起によれば、風見城の位置について「社の西に(風見氏)要害有り」(「要害」は山城の別称)と伝えられている事などから、縁起を伝える東護神社の一部氏子や地元の郷土史・城郭研究者などから明神山を風見城とする事に疑問も呈されてきた。 一方で、明治38年に記された栃木県誌の「塩谷郡大宮村東護神社の条」には、「西に要害と称する高峯あり 宝徳天文年間風見四郎左衛門尉に係り旧址猶存せり(きゅうしなおぞんせり)」(原文は全て旧字体)と記されている。実際、東護神社がある明神山の西の山の中には、山の中腹の半独立丘を堀切で区切って形成された単郭の城郭遺構が存在する。つまり、風見城の場所は明神山ではなく、その西側の要害(山城の意)と呼ばれる山である。 明治時代以前より、正確な風見城の位置が伝えられてきたにも関わらず、なぜ、その後、風見城築城以前から存在する東護神社が風見城と混同されてしまったのか、その経緯は不明である。
※この「風見城の位置」の解説は、「風見城 (下野国)」の解説の一部です。
「風見城の位置」を含む「風見城 (下野国)」の記事については、「風見城 (下野国)」の概要を参照ください。
- 風見城の位置のページへのリンク