城郭の構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/19 15:21 UTC 版)
多気盆地の西方にある標高560m、比高240mの山の頂に築城され、南東約1.1kmの麓には多気御所(国司の館)があった。急峻な尾根に2条の堀切を設け、長さ120m×幅30mの範囲に北東郭と南西郭の2郭が存在した。北東郭は三方を土塁で固め、南西郭は北東郭よりも高い位置にあり、四方に土塁を築いていた。このため、南西郭が城の中心核であると考えられる。本丸の近くに鐘撞堂を設けていた。 現代も往時も霧山城まで登ることは容易ではなかったことから、北畠氏は平常時は多気御所に住み、霧山城は詰めの城として使用していた。霧山城を取り囲むように支城が並び、霧山城を守護する経塚屋敷もあった。 多気に至る津市美杉町丹生俣からの杉峠と松阪市飯高町赤桶からのしょう路越(「しょう」はたつへんに章)には峠口に砦を、松阪市飯南町上仁柿からの櫃坂峠と津市美杉町奥津からの飼坂峠には関所を、松阪市嬉野上小川町からの白口峠と津市美杉町下之川からの桜峠と津市美杉町八知からの比津峠・漆峠には峠口に監所を置き、外郭としての機能を果たしていた。
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城郭の構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/13 16:37 UTC 版)
城跡は大きく南郭と北郭からなり、南郭は東西25m×南北30mの範囲にある比高12mの台状地、北郭は70m四方の範囲にある台状地で、南北の郭は250mほど離れている。ここで、南郭を白米城、北郭を椎之木城と呼んでいる。 北郭(椎之木城)の方が規模が大きく新しく、堀切や土塁などで複雑に構成されていることから、北郭が主郭であると考えられる。2つの狭長な台状地を中心に、台状地間と両端に堀切を巡らす。北側の西下斜面には竪堀が2か所みられる。南郭(白米城)の方が北郭(椎之木城)よりも高い位置にあり、松阪市街から見ることができる。45m×60mの基底部は台形をしており、上面は20m×35mの平面楕円形をした台状地で、四隅に小さな台状地を持つ。 南郭(白米城)の東・北・西の三方の尾根に堀切と小型の台状地、北西の尾根には2条の堀切が整備され、桝形山山頂には堀切・空堀・狼煙(のろし)台があった。 近辺には高城(たかんじょう)・枳城(からたちじょう)などの出城があった。高城は北畠氏の家臣・大宮氏が築城したものとみられ、虎口を有し、戦国時代の雰囲気をまとう。枳城は南北朝時代の特長を有する。
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城郭の構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 10:25 UTC 版)
台地の先端部を堀切で分断して平山城を形成している。周囲を土塁・空堀・帯曲輪で囲まれた本丸には、東南部に建造物・西北に人工的に土を盛り上げて作った櫓台(標高・約66メートル)が備わっていた。また本丸の馬出とも言える二の丸など、いくつかの曲輪が本丸の周囲を固めていた。空堀は当初は薬研堀であったが、後に一部は箱堀に作り変えられていたことが調査で判明している。
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