城郭と歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/03 06:03 UTC 版)
その歴史については、伝承や文献もなく不明であるが、遺構やその位置から見ると、築城遺構は、川崎城の出丸として、南方の防御の要のひとつとして機能している。遺構は、堀とそれに伴う切岸がメインで、単郭であり、曲輪内は一部を除いてほとんど未整地であり、城の北側は、やや山の斜面が急ではあるものの、そのためか全く手が加えられておらず、作りは実に簡素である。そのため、遺構と縄張を見る限りは、構造的に常に兵が常駐出来るものではなく、戦時のみ機能していた陣城と考えられている。城主は不明だが、その一帯が大沢氏の領地であったから、大沢氏により管理された可能性が高いとされている。 城は、川崎城とともに廃されたと考えられている。
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