城郭建築と塔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 02:04 UTC 版)
西ローマ帝国の消滅後、古代ローマの建築技術は急速に失われ、土塁並びに木造の塔や柵が再び主流をなす時代が訪れた。中世初期、ローマに変わり地中海の支配権を手中にしたサラセン人の襲来を監視するための見張塔(英語版)が、地中海沿岸に盛んに建てられるようになった。 10世紀、三圃式農業などの農業技術革命による生産力の上昇に伴い人口の増大と富の蓄積が始まると、それらを守るための施設を作り維持する社会的余裕も生まれた。またカロリング朝フランク王国が衰退・分裂して中央の支配力が緩みだし、ノルマン人やマジャール人の侵入が激しくなると、各地の領主は半ば自立して領地や居舘の防備を強化しはじめた。当初は居館と附属施設の周りに直径50mほどの屏を作り、濠を掘る程度だったが、10世紀の終わり頃から城と呼べる建築物を作るようになった。これらの多くは木造の簡易なもので、代表的な形態がモット・アンド・ベーリー型の城である。平地や丘陵地域の周辺の土を掘りだして、濠(空濠が多かった)を形成し、その土で小山と丘を盛り上げた。小山は粘土で固めてその頂上に木造または石造の塔(キープ)を作った。 11世紀には、天守や外壁が石造りの城が建築されるようになる。石造りの城壁には四角い塔が取り付けられ、壁を守る形になった。12世紀の十字軍の時代には、中東におけるビザンティン、アラブの技術を取り入れ、築城技術に革新的変化がみられた。集中式城郭と呼ばれる城は、モットの頂上に置かれた石造りの直方体の天守塔(キープ)が、同心円状に配置された二重またはそれ以上の城壁で守られていた。内側に行く程、壁を高くして、外壁を破られても内側の防御が有利になるよう工夫されている場合もあった。12世紀後半には十字軍が中東から学んだカタパルト (投石機)が使われるようになる。投石機は50kgの石を200m余り飛ばすことが出来るものもあり、14世紀末に大砲にその役が取って代わられるまで城攻めの中心的兵器であった。この投石機より飛来する石弾の衝撃を逸し吸収するため、直方体の塔は多角形を経て円筒形になり、また壁の厚みも増していった。 12世紀後半になり、塔や城壁に胸壁を設けてクロスボウを用いて反撃を行うようになった。城壁には壁面から突出する半円形の塔(側防塔)を配し、そこに胸壁や銃眼を設けることで城壁に取り付く敵兵に左右から射掛けることが可能となった。こうして城の軍事的機能の中心は天守塔(キープ)から側防塔を配した城壁に移行していった。ついには、城とは強固な城門(ゲートハウス)と側防塔を配した城壁そのものとなり、城壁に内接する形で居住スペースなどの建物が配置された。この様式の城(城壁)のことをカーテンウォール式城郭と呼ぶ。ここに至り天守塔(キープ)の軍事的意味は消滅し、強固な城門であるゲートハウスがその役目を担うことになった。 このほか、中世には橋の防衛のための橋塔、城門を一体化したゲートタワー、居住空間を包含した小型の城タワー・ハウス(英語版)なども建てられた。また、防衛用の塔の中には牢獄として使われた牢獄塔(Prison tower)や、弾薬を保管する火薬塔(Powder tower)として使われるものもあった。 14世紀頃に中国から伝わった黒色火薬の製造技術が大砲の製造を可能にした。15世紀中頃からは高炉技術の普及で鋳鉄を用いた「中型・小型の大砲」が大量生産されるようになる。15世紀の砲弾には炸薬や信管は無かったが、初速が大きく水平に近い軌道で飛ぶ砲弾の破壊力は大きかった。高い建造物は大砲の標的となったため城壁は高さよりも厚さを重視するようになり、さらに地下に掘り下げて建設され地上からはその姿を見いだせないような要塞型の城となっていく。防衛施設としての塔は意味を成さなくなり、以後は国境から遥かに離れた安全な地に防衛機能より居住性や壮大さや豪華さを重視した王侯貴族の居城(邸宅)の一部として塔建築が存続していくことになった。
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