北海道時代
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1990年4月、北海学園大学演劇研究会に森崎博之が入部。森崎が入部当初の会員数は4名だった。1992年12月、安田顕が演劇研究会に入部。安田は、ジャズ研究会、グリークラブ、ESSと転々した後の入部であった。翌1993年4月には、戸次重幸(当時は、佐藤重幸。2008年に戸次に改名)が入部。さらに翌1994年4月、大泉洋と音尾琢真が演劇研究会に入部し、5人が揃う。お互いの第一印象はあまり良くなかったが、物真似等を通して、5人は仲が良くなり、一緒によく過ごし、度々旅行に行くなどしていた。 1996年3月、当時、森崎・戸次・大泉・音尾が所属していた稲田博主宰の劇団イナダ組の予定されていた公演が、脚本が間に合わず、延期となり、イナダ組側から押さえてあった劇場で公演をやったらどうかと提案を受ける。そして、大学を卒業する森崎・安田の卒業制作として、思い出作りに、旗揚げ解散公演と銘打ち、札幌の小劇場で、『LETTER〜変わり続けるベクトルの障壁〜』を行う。こうして、1996年3月7日に『LETTER』のための、1回限りのユニットとして5人で結成したのが始まりであった。また、北海道テレビ(HTB)『モザイクな夜V3』のお見合い企画に『LETTER』の宣伝で出演し、メンバー全員が揃っての初のテレビ出演を果たしている。 森崎・安田の大学卒業とともに解散し、森崎は上京して東京の証券会社に、安田は地元の総合病院の事務職に就職した。しかし、リーダーの森崎が入社から9ヵ月後に証券会社を辞め、安田も入社から10か月後に総合病院を退職。森崎の呼び掛けで、1997年8月の『RECOVER〜描き続けるもう一つの結論〜』で再結成する。森崎が再結成を呼び掛けたとき、安田・戸次・音尾は喜んだが、演劇を続けるか、就職するかで揺れ動いてた大泉は、手放しでは喜べなかった。大泉は、森崎から「人生なんとかなる」と言われ、誘いに乗ることにしたという。 再結成後、1998年の『FEVER〜眺め続けた展望の行方〜』で正式に演劇ユニットとして始動。以降、札幌でおよそ1年ごとに舞台公演を行っていた。脚本と演出はリーダーの森崎が担当することが多かった。 再結成当時は、安田(1993年契約)と大泉(1995年契約)以外の3人は、CREATIVE OFFICE CUE所属ではなく、メンバーが揃っての活動が困難だった。しかし、当時のCREATIVE OFFICE CUEの社長(現会長)であり、俳優・タレント・映画監督などとしても活動する、鈴井貴之に大泉と安田が、「5人で活動がしたい」と直談判し、1999年にフリーで活動していた森崎が加入、2000年には他の事務所に所属していた戸次と音尾が移籍した事で、全員がCREATIVE OFFICE CUE所属となった。メンバーの移籍及び公演制作には、CREATIVE OFFICE CUEの現社長の伊藤亜由美(当時は鈴井亜由美。鈴井貴之の元妻)が、副社長であった頃から手掛けている。ただし、鈴井貴之は、自身も演劇人であるという立場から介入していない。なお、大学時代に森崎が手掛け、他のメンバーも出演した、北海学園大学演劇研究会第41回定期公演『CHAIR~立ち続けることは苦しいから~』を鈴井貴之が雑誌で批評し、森崎と論争になった事がある。 また、1996年から2002年までレギュラー放送され、大泉がレギュラーで、安田が準レギュラーで、その他メンバーもゲストで出演した北海道テレビの『水曜どうでしょう』など、メンバーそれぞれが北海道各局のテレビ番組・ラジオ番組に出演する。2001年から2004年まで、北海道テレビで放送された『ドラバラ鈴井の巣』にはメンバー全員がレギュラー出演。2001年には、AIR-G'で、冠ラジオ番組『NACS GOTTA ME!』の放送が開始(2005年に放送終了)。2003年には、北海道テレビで、冠番組『ハナタレナックス』の放送が開始(現在もNACSのメンバー全員が出演する唯一のレギュラー番組として放送中である)。公演以外では、主に、深夜番組に出演するローカルタレント集団として活動していた。 『水曜どうでしょう』のヒットをきっかけに大泉目当てに演劇に関心のない人が足を運ぶようになったことで、2002年の『WAR〜戦い続けた兵たちの誇り』では、演劇文化が活発でない北海道では異例の9,500人を動員するなど、公演は観客数が伸び、2000年代はじめには北海道内で圧倒的人気を確立するようになった。だが、鈴井亜由美(当時)は、「地デジ化への設備投資が負担になり、地方局が番組づくりに十分な資金を回せなくなる」という不安と、「地元北海道限定の活動では彼らの能力を伸ばしきることは出来ない」という危機感をいだき、全国展開を模索。その後、2002年の本公演『WAR〜戦い続けた兵たちの誇り』を観劇し、将来性を感じたサンシャイン劇場の山本和彦プロデューサーから2年後に東京で舞台公演を行ってほしいという誘いを受けた事をきっかけに、東京進出の準備に入った。
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北海道時代
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16歳の頃、漁船のコックをしていた友人がオホーツク海で遭難死。襟裳岬まで哀悼の旅に出て、その帰路、門別の牧場で馬の出産を目にし、牧場を開くことを夢に抱き、青森の高校を卒業後北海道の酪農学園大学へ進学。しかし田中は「鍬で開拓すれば牧場が簡単にできる」と思っていたため、大学4年のころ先生に「牧場をやる」と宣言した際に「牧場をやるには最低2億(1970年代当時)の資金が必要」と告げられ、ショックを受ける。 シンガーソングライターとしての活動を大学時代に開始。1980年、フレッシュサウンズコンテストで審査員特別賞を受賞。その後はラジオ番組のオーディションを受けるが歌ではなく、喋りで合格して、河村通夫のアタックヤング(STVラジオ)内で5分間のコーナー番組「田中義剛の酪農根性」を開始した。
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北海道時代
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江別市立病院で産まれる。1980年、江別市立大麻東小学校に入学。小学5年生の時、札幌市南区に引っ越し、札幌市立真駒内南小学校に転校。その後、札幌市立真駒内中学校、市立札幌藻岩高等学校を卒業後、浪人し、予備校の代々木ゼミナール・サテライト講座で学ぶ。浪人時代は、遊んでばかりだったという。 1994年に2浪して北海学園大学経済学部経済学科に入学。本来志望していた大学ではなく、母親から「もう死ぬんじゃないか」と心配されるほど滅入っており、当初は本人もかなり落ち込んでいたという。しかし、「このまま腐った気持ちでいるのはまずい」と奮起し、演劇研究会に入る。そこで森崎博之、安田顕、佐藤重幸(現:戸次重幸)、音尾琢真の4人と仲良くなった。初舞台は同年夏、演劇研究会の道内地方公演での大林先生 役。公演当時より独特のキャラクターが際立っていた5人だったので、演劇部内で浮いていた。1996年、大学を卒業する森崎・安田の卒業制作として公演を行なうための1回限りのユニットとして、上記の4人と「TEAM-NACS」を結成。森崎・安田の大学卒業とともに解散したが、森崎・安田が会社を辞め、1997年8月に再結成する。 また1995年には、演劇研究会の先輩である森崎と戸次の薦めで音尾と共に稲田博が主宰する劇団イナダ組に入団した(2004年まで所属)。代表の稲田博は「初めて舞台に立つときの立ち方を教えてくれた方」として今でも師とあおいでいる。 また、大学在学中の1995年10月には、北海道テレビ(HTB)の深夜番組『モザイクな夜V3』に、2代目「元気くん」として出演し、芸能活動を開始。これは、初代「元気くん」・田中護の後任を探していた時に、演劇研究会の舞台を見た劇団OOPARTS(鈴井貴之主宰)の劇団員に認められ、当時鈴井の妻であった伊藤亜由美がディレクターの杉山順一に大泉を紹介したことがきっかけであった。「元気くん」は、すすきののニュークラブを取材するというレポーターで、初出演の時には、レポート先で「緊張する人」を演じた。その後、トーク力が買われ、スタジオにも呼ばれるようになった。また、番組の出演がきっかけで、鈴井貴之が代表を務めるCREATIVE OFFICE CUEに所属することになった。 翌1996年7月公開の『ガメラ2 レギオン襲来』にレギオンから逃げる地下鉄乗客役で映画初出演を果たすが、鈴井のミスによってエンディングにクレジットされていない。 同年10月には、HTBでスタートした深夜番組『水曜どうでしょう』に出演することとなり、北海道内でのタレント活動が活発化した。大泉と鈴井、ディレクターの藤村忠寿と嬉野雅道の4人を中心に過酷な旅を行う内容が人気となり、深夜枠での放送にもかかわらず、1999年には最高視聴率18.6%を得て、全国に番販され、それに伴い大泉の知名度も全国的に広がっていった。2002年にレギュラー放送を終了したが、2022年現在でも再編集版が『水曜どうでしょうClassic』・『水曜どうでしょうプレミア』として全国各地で再放送されていたり、不定期で新作が制作・放送されたりと人気がある。 1999年からは、『鈴井の巣』(HTB)でPUFFYにインタビューしたことがきっかけとなり、『パパパパパフィー』(テレビ朝日)に不定期で出演するようになり、全国ネットのバラエティ番組に登場することとなった。初出演時は、ゲストに郷ひろみや安室奈美恵がいる中、当時北海道外ではほぼ無名だった大泉がジャージ姿で司会として出演したが、観客から「キモい」などと言われ、落ち込んだ。この時はまだ東京に進出する気はなかった。 また、歌手としては、2000年に『鈴井の巣』(HTB)で大泉がボーカルの「大泉バンド」を結成し、番組内で奥田民生の作曲による「負け戦」を披露した。また、『ドラバラ鈴井の巣』(HTB)では、ドラマ企画毎に歌唱と共に、作詞・作曲を手掛けた。2004年には、作詞・大泉、作曲・根本要で、スターダストレビューとのコラボレーションシングル「本日のスープ」を「北海道限定版」と「全国版」で発売。全国版はオリコン最高10位を記録し、『ミュージックステーション』(テレビ朝日、2004年2月放送)や『うたばん』(TBS、2004年5月放送)に出演した。同年には、『おにぎりあたためますか』(HTB)の企画内で戸次重幸とのユニット『FAN TAN』でザ・ミュージックカウンシルより「起きないあいつ」を発売し、オリコン最高7位を記録。台湾デビューも果たす。 俳優としては、2003年には鈴井貴之監督の映画『river』で映画初主演となった。声優としても『千と千尋の神隠し』など、複数のスタジオジブリ作品に参加。2003年には、高坂希太郎監督の『茄子 アンダルシアの夏』にて主人公のペペ・ベネンヘリを務めた。
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