創刊期
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「週刊少年チャンピオン」の記事における「創刊期」の解説
月刊少年誌『冒険王』『まんが王』を手がけていた秋田書店が週刊少年誌の時代に対応すべく、1969年7月に「フレッシュな少年週刊誌」の謳い文句で『少年チャンピオン』の誌名で隔週刊(月二刊)誌として創刊。創刊号の表紙にはキックボクサーの沢村忠が起用された。 前年に創刊され、新人中心のラインアップで勝負を余儀なくされた集英社の『少年ジャンプ』と異なり、手塚治虫やさいとう・たかをなど有力作家を連載陣に揃えた。1970年6月24日発売号からの週刊化に伴い誌名は『週刊少年チャンピオン』に改められた。創刊の経済的基盤を支えたのは、大手出版社が本腰を入れていなかった新書判のマンガ単行本「サンデーコミックス」のヒットによるものと言われる。この時期の人気連載として、『夕やけ番長』(梶原一騎・荘司としお)、『あばしり一家』(永井豪)、『狂人軍』(藤子不二雄Ⓐ)、『ガッツジュン』(神保史郎・小畑しゅんじ)、『宇宙猿人ゴリ』(うしおそうじ・一峰大二)、『太陽の恋人』(梶原一騎・かざま鋭二)、『原始少年リュウ』(石ノ森章太郎)、『バビル2世』(横山光輝)などがある。
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創刊期
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1935年6月に「健康を育む食を提案する」ことをテーマに創刊された。当初は香川栄養学園(のちの女子栄養大学)にあった家庭食養研究会の講義録をまとめたものとして発行されていた。家庭食養研究会は1933年から活動を始めており、謄写版の会報を発行していたが、啓蒙をかねて活版で雑誌を発行しようということになった。創刊者である香川昇三及び香川綾夫妻は、「学園に通うことができない全国津々浦々の人々にも医学や栄養学などの科学的な知見と、それを家庭の食生活で実践する方法を伝え」ることを目的としてこの雑誌を作ることにした。力を入れるべき内容として規定したものが3つあり、「栄養学の講座」「日常の食事作りと専門家から学ぶ趣味の料理」「病人のための食事作り」が三大テーマであった。創刊号は脚気の治療に良い食事などという時代の関心にそった内容だったが、「当時まだ珍しかった本格西洋料理のレシピ」や、山田政平による「支那料理」、つまり中華料理の記事なども掲載されていた。「商業誌」という位置づけではなく、創刊号は200部しか刷らなかった。『栄養と料理』という雑誌名は医師で香川綾の恩師であった島薗順次郎がつけたが、この当時は「栄養料理はまずいもの」という固定観念があったため「大胆な名前」だと考えられたという。当初は教育目的であったため無料で頒布していたが、人気が出すぎたため12銭で有料販売するようになった。2号は1000部発行された。2号からは付録として「栄養と料理カード」という調理法を説明する小さなカードがつくようになった。方針として薬の広告は載せないことにしていたが、これは「正しい食生活をしていれば、しょっちゅう薬を飲む必要はない」という理念からであった。 戦時中には代用食の記事が増えた。紙が配給制になっていたため、戦争末期まで廃刊にならずに刊行を続けていた料理雑誌は『栄養と料理』だけになっていた。1945年に昇三が亡くなった後は綾が発行人として雑誌を支えた。1945年には学校の校舎が戦災で焼失したため1年の休刊があり、1946年1-2月合併号により復刊した。敗戦後は紙の入手が困難であり、多数の雑誌が廃刊になったが、『栄養と料理』は「必要な出版物として、出版業界から復刊をしきりに促され」たため、紙の配給を受けて復刊することができたという。この時の発行部数は千部程度だった。 綾は戦後、「勘に頼っていた調理の計量化を実現」するための研究をすすめ、その成果は『栄養と料理』にも生かされた。しかしながら戦後の食糧難や、やや堅苦しいと受け取られがちな記事内容のせいもあり、1949年頃までは部数が3500部で頭打ちとなり、なかなか雑誌の売り上げは伸びなかったという。このため綾は猪熊弦一郎にデザインコンセプトについての相談を持ちかけ、カラーの料理写真を増やすことにしたため、売り上げは改善していった。1950年には広告係を置くようになった。綾は編集長を退任後も雑誌の巻頭言を書き続けた。
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創刊期
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「ブラックウッズ・マガジン」の記事における「創刊期」の解説
『ブラックウッズ』はホイッグ党支持の『エディンバラ・レビュー』(Edinburgh Review)に対抗する保守系雑誌として立ち上げられたものである(当時のエジンバラはホイッグ党支持が多かった)。また同じトーリー党寄りの『クォータリー・レビュー』(The Quarterly Review)が堅い論調であるのに対し、『ブラックウッズ』は攻撃的・論争的であった。これは主要執筆者の一人で「クリストファー・ノース」(Christopher North)という仮名で寄稿していたジョン・ウィルソン(John Wilson)の論考によるところが大きい。ウィルソンは編集を任されることはなかったが、ジョン・ギブソン・ロックハート(John Gibson Lockhart )やウィリアム・マギン(William Maginn )といった他の主要な寄稿者とともに雑誌の大部分を執筆した。辛辣で洞察力に富んだ風刺、書評、批評など、彼らが書いた多種多様な記事は非常に人気があり、この雑誌はすぐに多くの読者を得ることとなった。 ウォルター・スコットはメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』(1817)の書評を『ブラックウッズ』2号(1818)に寄稿し、超常的な出来事の心理的効果を生み出す筆致を評価しつつ、登場人物たちの内面描写の自然さについては疑問を呈している。 『ブラックウッズ』は保守系雑誌としての地位を確かなものにしていた一方、個人攻撃も含めたその論争的な文章ゆえに同誌の記事は訴訟問題に発展することも多かった。パーシー・ビッシュ・シェリーやサミュエル・テイラー・コウルリッジといったイギリス・ロマン主義の急進派の作品を掲載したり、ウィルソンの評論によってウィリアム・ワーズワスの詩人としての天才としての評価を確固たるものにした一方、ロックハートがヨーロッパで広がっていたバイロンに対する熱狂を風刺したり、ジョン・キーツ、リー・ハント(Leigh Hunt)、ウィリアム・ヘイズリットらの詩作品を「コックニー詩派」(Cockney School )と呼んで攻撃するなどし、同時代人の文人からの怒りを買うことも少なからずあった。 1821年には『ロンドン・マガジン』(The London Magazine)の編集者ジョン・スコット(John Scott)がロックハートによるコックニー詩派への誹謗中傷をめぐって諍いになり、最終的にはスコットとロックハートの代理人ジョナサン・ヘンリー・クリスティ(Jonathan Henry Christie)との間の決闘でスコットが命を落とした。 1820年半ばになる頃には主要寄稿者であったロックハートとマギンはロンドンに拠点を移し、ロックハートは『クォータリー・レビュー』の編集者として、マギンは『フレイザーズ・マガジン』(Fraser’s Magazine)を中心に様々な雑誌への寄稿者として、それぞれ活動した。これ以降はジョン・ウィルソンが『ブラックウッズ』の最も重要な執筆者となり、雑誌の人気も悪評も彼の記事によるところが大きくなった。 1824年から1825年にかけて、当時ヨーロッパ中で読まれていたアメリカ人批評家ジョン・ニール(John Neal)の数々の論評(文学批評やアメリカ人伝記、女性の権利を擁護したものなど)が『ブラックウッズ』に掲載されたが、これは英国の文芸雑誌として初めてアメリカ人による記事を出版したものであった。またその中には最初のアメリカ文学史となるニールの「アメリカ人作家」(“American Writers”)という連載も含まれている。(なお、ニールによるアメリカ人の伝記や文学史は、イギリス人批評家シドニー・スミス(Sydney Smith)が「誰がアメリカの本を読むのか?」と問いかけたことへの批判的応答として書かれたものであり、当時のイギリスにおけるアメリカ文学への低い評価の見直しのきっかけを作ったと考えられている。)
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創刊期
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創刊号から連載開始した『悪魔の花嫁』(原作:池田悦子、作画:あしべゆうほ)が人気作品となり、部数躍進へと導いた。他連載作品は『蒼い炎』(イケスミチエコ)、『ミリアム・ブルーの湖』(原作:名木田恵子、作画:青池保子)、『恋して!!ポッポ』(如月亜衣)、『つまんない子ちゃん』(赤塚不二夫)、『おしゃべりラブ』(吾妻ひでお)、『となりのリブちゃん』(田村セツコ)、『笑ってちょーだい!!』(仲村計)、『真貴子』(ささやななえ)など目立たない作品が多かった。 この時期の他の人気作品には『トラジマのミーめ』(松本零士)、『ふたごのプリンセス』(わたなべまさこ)、『シンデレラの森』(原作:暮山みどり、作画:細川智栄子)がある。 また、余談であるが、後に『週刊少年マガジン』(講談社)に連載されることになる『クイーン・エメラルダス』(松本零士)は1975年に『月刊プリンセス』に掲載された読切短編『エメラルダス』が最初である。
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創刊期
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新潮社では戦前から出ていた大衆誌『日の出』を1945年11月に廃刊にし、新しい大衆向け雑誌を検討し、元々会社が小説専門であり、『新潮』の小説特集号もよく売れるということから、既成の作家によるわかりやすい小説の雑誌として1947年9月号で創刊。芸術性を失わずに大衆性を持った小説を目指し、創業者佐藤義亮の次男で専務だった佐藤俊夫が編集長となり、編集顧問の河盛好蔵がアドバイスした。5月に創刊された『日本小説』に続く中間小説雑誌とされる。誌名は社内募集で決定。用紙事情が悪く、創刊号は64ページ、定価18円。表紙は猪熊弦一郎、巻頭のグラビアは「作者の近影」でその後の号でも続く。ラインナップは山本有三「露伴翁の永眠に対して」、および里見弴、梅原龍三郎、舟橋聖一、長谷川伸、邦枝完二、石川達三など、巻末の谷崎潤一郎らによる座談会「天皇陛下の御前に文芸を語る」など。河盛の創刊の辞に続く、2号の「大衆文学とか純文学ということばはもうなくしていいと考える」という文章は一層中間小説志向を鮮明にしている。 1948年1月号から連載された石坂洋次郎「石中先生行状記」と舟橋聖一「雪夫人絵図」、内田百閒(百鬼園)の随筆「億劫帳」は人気が高く、林忠彦による巻頭グラビアでのバー「ルパン」での太宰治、自室で散乱した紙屑の中にいる坂口安吾は人物写真の傑作として残っている。「石中先生行状記」の第5話(10月号)は猥褻罪の疑いで摘発される(起訴猶予処分)。
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