創刊経緯とは? わかりやすく解説

創刊経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 06:26 UTC 版)

テレビランド」の記事における「創刊経緯」の解説

東映多角経営化は1971年8月大川博没後、後を継いだ岡田茂のもとでその本領が発揮された。映画部門への依存度が高かった大映日活事実上脱落し、その二社に似た体質を持つ東映は、映画部門以外から収益を出すことが求められた。岡田は「あくまで映画本業だが、映画だけでは将来難しい」と、「これから東映犯罪ならないもので儲かるものは何でもやる」と、定款変更してあらゆる職種積極的に取り組んでいくと宣言した岡田1972年6月映画会社初め事業部制敷き関連事業室を作り、「すべての事業ファンに結びつけ、大衆向けの低額なものを狙う」とアピール。「映画だけでなく附帯事業をいろいろやれ」と社員指示するなどの根回し後、温泉ホテル買収催事ゴルフ場軽井沢別荘販売パチンコ(東盛商事)、サラ金ゲームセンタースポーツ事業進学塾葬儀屋ジャズ喫茶ラーメン店焼肉屋、サンドイッチ店スターポスター制作販売映画主題歌レコード販売仮面ライダーキャラクターグッズ販売複製画など新規事業に手を拡げ、福富太郎クラブ経営させたりし、"映画からラーメンまでの東映"と揶揄された。この事業部制東映関西支社にも敷かれ同事業部が始めたアニメ関連商品販売発展し1980年大阪梅田東映会館3階への開設皮切りに全国展開したのが元祖アニメショップアニメポリス・ペロ。 1973年2月1日にあった東映全体会議で、岡田は「東映全部門をさらに伸ばし10年後には全事業全国的なネットワーク張り巡らせ東映三角マーク日本全国津々浦々貼り付けたい」と、"東映NN計画"(Toei Nationwide Network Program)なる大風呂敷広げた中でも岡田新規事業として一番意欲的だったのが出版事業で、「出版事業社長就任の時から考えていたんだ出版界大手によって支配され、あとはインディペンデント・プロみたいなもんでな。また配給日販東販の二社で独占され新規では入り込めない業界なんだな。そこで私が考えたのは、将来野望を抱く出版社手を組み地固めをしていくということなんだ」などと話しタバック設立した同じ1973年2月1日設置したテレビ関連事業室に、最初にやらせたのが黒崎出版との提携と「テレビランド」の創刊だった。岡田は「考えてみれば、ウチ長い間手掛けて来た、劇映画教育映画テレビ映画製作配給というのと、出版というのは同じようセンスなんだ。そこでまずテレビ事業室で『テレビランド』を手掛けたわけだ。これは"東映は損をしない"といういつもの(笑)、損をしないという範囲始めたから、そのかわり利も薄いよ。まあ何ぼ入ってくるでしょう(笑)必要なら別の会社作ろう考えてる」などと述べた単行本の出版なども岡田最初からの構想で、「私はこの出版という事業を、二、三年のうちに必ずものにして全国ネット組めるようにしたい」という計画立てていた。 『テレビランド』に続いて岡田徳間書店社長徳間康快とで企画したのが成人向け劇画雑誌コミック&コミック』(『別冊アサヒ芸能 コミック&コミック1973年5月20日創刊)で、岡田徳間構想したのが、映画監督劇画家を組ませた映画作品映画化するというものだった当時最も熱気があった劇画東映映画二つサブカルチャー強引に結びつける力業創刊された『コミック&コミック』は読書にも歓迎され二十数万部を記録した映画劇画平然と往復しようとする大胆な感覚は、以降スマートなメディアミックス先取りしており野心的であった。『コミック&コミック』に掲載され東映監督劇画原作のうち、唯一映画化されたのが鈴木則文監督の『聖獣学園』。鈴木敏夫は『アサヒ芸能』の特集部に配属の後、この『コミック&コミック編集部経て、『アサヒ芸能』に一旦戻りその後テレビランド編集部に自ら志願して加わり、主にまんがを担当その後アニメージュ編集部移った鈴木の『コミック&コミック時代仕事は、東映気難しい監督たちと若手劇画家を繋ぐ調整役もあったといわれ、「胃が痛くなる思いだったのではないか」と大塚英志指摘している。大塚はまた「岡田茂徳間康快という二人怪物による『劇画』と『映画』という『コミック&コミック』の近さは、やはり『ナウシカ』における『まんが』から『映画』への近さ問題地続きだと私には思える」などとと論じている。『テレビランド創刊と同じ1973年大ヒットした東映映画山口組三代目』は、岡田がやはり徳間先に原作連載持ち掛け岡田徳間話し合い田岡一雄自伝という形を採り、実際は『アサヒ芸能』の編集長に書かせたものを『アサヒ芸能』で連載しそれを原作映画化したものであった。『アサヒ芸能』はこの連載発行部数伸ばした。元々仲がよかったといわれる岡田徳間は、ビジネス上で付き合い深めていた。 前掲多く事業シロウト悲しさ失敗し撤退していったが、出版事業は、映像との相乗効果宣伝制作とも東映グループ組織力バックにし順調に伸びた出版事業以外の失敗撤退事業について岡田は、「ドンドン勇ましくやったということ社員士気インスパイヤ―したわね。やろうという気がだんだん出て来た。試行錯誤した中で本モノだけが生き残った社員一生懸命勉強しましたね。失敗して改めるに憚りなしだよ。どういう商売ならやれるか、分かっただけでもいい勉強になったと思う」などと話した創刊号には東映社長岡田茂黒崎出版社長秋田君夫によるメッセージ掲載された。創刊日と同じ日に設置されテレビ関連事業室の室長抜擢されたのが渡邊亮徳取締役テレビ企画営業部長で、初代編集長にはテレビ関連事業課長飯島敬据えられた。飯島それまで15年東映動画在籍し漫画原作者競合する出版社とも付き合いがあったことからの抜擢。しかし雑誌ノウハウ持っていなかった黒崎出版本誌持て余し、そのうえオイルショック影響経営困難に陥ったため、岡田1973年11月号から、黒崎出版編集スタッフごと全て徳間書店移して刊行した。これは岡田徳間2人銀座クラブ決めたという。岡田徳間古くから仲がよかったといわれ、徳間岡田を"刎頸の友"と表現している。岡田当時大映再建中の旧制広島高校先輩坪井一郎トリオ社長徳間支援していたが、映画関係者当時徳間をよく知らないため、岡田映画素人徳間坪井操って新大映と日活を組まして、第二東映のようにするのではと見られていた。大映永田雅一劇場全部売ってしまっていたため、配給網のない製作だけしか出来ない独立プロのようなもので、岡田にとっては都合がよく、新大映が製作した映画東映劇場で流す構想持っていたと見られた。逆に出版事業に関しては、岡田東映側は素人であった

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創刊経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 17:56 UTC 版)

パソコン批評」の記事における「創刊経緯」の解説

パソコン批評の元となった雑誌は『ゲーム批評』である。ゲーム批評は、雑誌出版ビジネスでは当たり前となっていた広告収益よりどころにした経営放棄し、あくまで本誌売上げ基盤とすることでゲームソフトハードサービス公正な評価目標とした雑誌である。

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創刊経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/22 05:32 UTC 版)

PC-DIY」の記事における「創刊経緯」の解説

1997年創刊当時は、パソコンをより安く入手する方法として、ユーザー部品単位購入し組み立てるという自作パソコンが、1990年代10年間を通して認知されつつあった途上にあったそのような状況の中で、よりマニアコア自作パソコンユーザーのためにPC-DIY創刊された。 実のところグループ会社であるマイクロマガジン社発行していた「パソコン批評」が広告掲載しない方針であったため、当時元気のあった台湾系パソコンパーツメーカーをはじめとするパソコン関連企業広告出稿狙って創刊された。しかし、あまりに貧弱な誌面構成や、発行部数少なさなどが原因でその期待にこたえることはできなかった。 なお、タイトルについては台湾発行されているパソコン雑誌PCDIY!電腦硬派月刊」を参考にしたとされている。

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創刊経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 08:04 UTC 版)

コミック&コミック」の記事における「創刊経緯」の解説

1960年代映画斜陽影響等で、映画製作配給部門への依存度が高かった大映日活事実上脱落したことから、その二社に似た体質を持つ東映当時岡田茂社長映画部門以外から利益出そう1972年6月映画会社初め事業部制敷きサラ金や、パチンコ屋進学塾葬儀屋ラーメン店など、社員に色々やらせた岡田自身新規事業として一番意欲的だったのが出版事業で、1973年2月1日設置したテレビ関連事業室に、最初にやらせたのが黒崎出版との提携1973年2月の『テレビランド』の創刊で、『テレビランド』に次いで岡田徳間書店社長徳間康快とで企画したのが『コミック&コミックであった岡田徳間構想したのが、映画監督劇画家を組ませた映画作品映画化するというもので、創刊号掲載された主要8作品のうち、3作品東映監督原作よるものだった(中島貞夫フリー)。東映1960年代以降岡田指揮下で、エロ暴力前面押し出した"不良性感度路線"を突き進み特異なエネルギー放っていたが、当時最も熱気があった劇画東映映画二つサブカルチャー強引に結びつける力業創刊され雑誌読書にも歓迎され二十数万部を記録した映画劇画平然と往復しようとする大胆な感覚は、以降スマートなメディアミックス先取りしており野心的であった1972年8月より梶芽衣子主演伊藤俊也監督篠原とおる作の劇画女囚さそりシリーズ」が成功したことで、劇画新し映画原作供給源理解していた。 岡田徳間は『コミック&コミック創刊と同じ1973年に『山口組三代目』の原作となる田岡一雄自伝を『アサヒ芸能』に連載したり、大映再建中の徳間岡田支援するなど、もともと仲がよかったといわれ、ビジネス上の付き合い深めていた。徳間岡田を"刎頸の友"と表現していた。 鈴木敏夫は『アサヒ芸能』の特集部に配属の後、この『コミック&コミック編集部経て、『テレビランド編集部に自ら志願して加わりその後アニメージュ編集部移った鈴木は「『コミック&コミック』でキャッチコピー学んだ漫画編集仕事しながら知らぬ間に宣伝やり方学んだ」と話している。大塚英志は「東映気難しい監督たちと若手劇画家を繋ぐ調整役は胃が痛くなる思いだったのではないか」と指摘している。また「『劇画』『漫画』と『映画』『アニメーション』の間の障害はこの国で低いと誰も感じているはずだ。岡田茂徳間康快という二人怪物による『コミック&コミック』の近さは、やはり『ナウシカ』における『まんが』から『映画』への近さ問題地続きだと思える。『まんが』の読み手も創り手も『まんが』や『映画』を『アニメーション』に脳内置き換えることにこの国の人々困難さ感じない。その『劇画』と『映画』の境界の上雑誌作ろう考えたコミック&コミック』はメディアミックスの語では表現できない二つジャンルの『近さ』をやはり象徴する雑誌だったように思う。『ナウシカ』がまんがかアニメという道を自然に歩むことになる一つ前史がやはり『コミック&コミック』に見出すことができる気がしてならない」と論じている。 組合色が強かったことが災いしたとされ、1974年9月4日号で告知なく休刊した。スタッフは『アサヒ芸能』や『テレビランド』などに散らばった

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