創刊経緯
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東映の多角経営化は1971年8月の大川博没後、後を継いだ岡田茂のもとでその本領が発揮された。映画部門への依存度が高かった大映と日活が事実上脱落し、その二社に似た体質を持つ東映は、映画部門以外から収益を出すことが求められた。岡田は「あくまで映画が本業だが、映画だけでは将来は難しい」と、「これからの東映は犯罪にならないもので儲かるものは何でもやる」と、定款を変更してあらゆる職種に積極的に取り組んでいくと宣言した。岡田は1972年6月に映画会社で初めて事業部制を敷き、関連事業室を作り、「すべての事業をファンに結びつけ、大衆向けの低額なものを狙う」とアピール。「映画だけでなく附帯事業をいろいろやれ」と社員に指示するなどの根回し後、温泉ホテル買収、催事、ゴルフ場、軽井沢別荘販売、パチンコ(東盛商事)、サラ金、ゲームセンター、スポーツ事業、進学塾、葬儀屋、ジャズ喫茶、ラーメン店、焼肉屋、サンドイッチ店、スターのポスター制作・販売、映画主題歌のレコード販売、仮面ライダーのキャラクターグッズ販売、複製画など新規事業に手を拡げ、福富太郎にクラブを経営させたりし、"映画からラーメンまでの東映"と揶揄された。この事業部制は東映関西支社にも敷かれ、同事業部が始めたアニメ関連商品の販売が発展し、1980年に大阪梅田東映会館3階への開設を皮切りに全国展開したのが元祖アニメショップアニメポリス・ペロ。 1973年2月1日にあった東映の全体会議で、岡田は「東映の全部門をさらに伸ばし、10年後には全事業に全国的なネットワークを張り巡らせて東映の三角マークを日本全国津々浦々に貼り付けたい」と、"東映NN計画"(Toei Nationwide Network Program)なる大風呂敷を広げた。中でも岡田が新規事業として一番意欲的だったのが出版事業で、「出版事業は社長就任の時から考えていたんだ。出版界は大手によって支配され、あとはインディペンデント・プロみたいなもんでな。また配給も日販、東販の二社で独占され、新規では入り込めない業界なんだな。そこで私が考えたのは、将来に野望を抱く出版社と手を組み、地固めをしていくということなんだ」などと話し、タバックを設立した同じ1973年2月1日に設置したテレビ関連事業室に、最初にやらせたのが黒崎出版との提携と「テレビランド」の創刊だった。岡田は「考えてみれば、ウチが長い間手掛けて来た、劇映画、教育映画、テレビ映画の製作配給というのと、出版というのは同じようなセンスなんだ。そこでまずテレビ事業室で『テレビランド』を手掛けたわけだ。これは"東映は損をしない"といういつもの手(笑)、損をしないという範囲で始めたから、そのかわり利も薄いよ。まあ何ぼか入ってくるでしょうよ(笑)。必要なら別の会社も作ろうと考えてる」などと述べた。単行本の出版なども岡田の最初からの構想で、「私はこの出版という事業を、二、三年のうちに必ずものにして全国ネットを組めるようにしたい」という計画を立てていた。 『テレビランド』に続いて岡田と徳間書店社長・徳間康快とで企画したのが成人向け劇画雑誌『コミック&コミック』(『別冊アサヒ芸能 コミック&コミック』1973年5月20日創刊)で、岡田と徳間が構想したのが、映画監督と劇画家を組ませた映画作品を映画化するというものだった。当時最も熱気があった劇画と東映映画の二つのサブカルチャーを強引に結びつける力業で創刊された『コミック&コミック』は読書にも歓迎され二十数万部を記録した。映画と劇画を平然と往復しようとする大胆な感覚は、以降のスマートなメディアミックスを先取りしており野心的であった。『コミック&コミック』に掲載された東映監督の劇画原作のうち、唯一映画化されたのが鈴木則文監督の『聖獣学園』。鈴木敏夫は『アサヒ芸能』の特集部に配属の後、この『コミック&コミック』編集部を経て、『アサヒ芸能』に一旦戻り、その後『テレビランド』編集部に自ら志願して加わり、主にまんがを担当、その後『アニメージュ』編集部に移った。鈴木の『コミック&コミック』時代の仕事は、東映の気難しい監督たちと若手劇画家を繋ぐ調整役もあったといわれ、「胃が痛くなる思いだったのではないか」と大塚英志は指摘している。大塚はまた「岡田茂と徳間康快という二人の怪物による『劇画』と『映画』という『コミック&コミック』の近さは、やはり『ナウシカ』における『まんが』から『映画』への近さの問題と地続きだと私には思える」などとと論じている。『テレビランド』創刊と同じ1973年に大ヒットした東映映画『山口組三代目』は、岡田がやはり徳間に先に原作の連載を持ち掛け、岡田と徳間で話し合い、田岡一雄の自伝という形を採り、実際は『アサヒ芸能』の編集長に書かせたものを『アサヒ芸能』で連載しそれを原作に映画化したものであった。『アサヒ芸能』はこの連載で発行部数を伸ばした。元々仲がよかったといわれる岡田と徳間は、ビジネス上でも付き合いを深めていた。 前掲の多くの事業がシロウトの悲しさで失敗し撤退していったが、出版事業は、映像との相乗効果、宣伝、制作とも東映グループの組織力をバックにし順調に伸びた。出版事業以外の失敗・撤退事業について岡田は、「ドンドン勇ましくやったということで社員の士気をインスパイヤ―したわね。やろうという気がだんだん出て来た。試行錯誤した中で本モノだけが生き残った。社員が一生懸命勉強しましたね。失敗して改めるに憚りなしだよ。どういう商売ならやれるか、分かっただけでもいい勉強になったと思う」などと話した。 創刊号には東映社長・岡田茂と黒崎出版社長・秋田君夫によるメッセージが掲載された。創刊日と同じ日に設置されたテレビ関連事業室の室長に抜擢されたのが渡邊亮徳取締役テレビ企画営業部長で、初代編集長にはテレビ関連事業室課長の飯島敬が据えられた。飯島はそれまで15年間東映動画に在籍し、漫画原作者や競合する出版社とも付き合いがあったことからの抜擢。しかし雑誌のノウハウを持っていなかった黒崎出版は本誌を持て余し、そのうえオイルショックの影響で経営困難に陥ったため、岡田は1973年11月号から、黒崎出版の編集スタッフごと全てを徳間書店に移して刊行した。これは岡田と徳間が2人で銀座のクラブで決めたという。岡田と徳間は古くから仲がよかったといわれ、徳間は岡田を"刎頸の友"と表現している。岡田は当時、大映を再建中の旧制広島高校の先輩・坪井一郎トリオ社長と徳間を支援していたが、映画関係者は当時は徳間をよく知らないため、岡田が映画素人の徳間と坪井を操って、新大映と日活を組まして、第二東映のようにするのではと見られていた。大映は永田雅一が劇場を全部売ってしまっていたため、配給網のない製作だけしか出来ない独立プロのようなもので、岡田にとっては都合がよく、新大映が製作した映画を東映の劇場で流す構想を持っていたと見られた。逆に出版事業に関しては、岡田や東映側は素人であった。
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創刊経緯
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パソコン批評の元となった雑誌は『ゲーム批評』である。ゲーム批評は、雑誌出版ビジネスでは当たり前となっていた広告収益をよりどころにした経営を放棄し、あくまで本誌の売上げを基盤とすることでゲームソフトやハード、サービスの公正な評価を目標とした雑誌である。
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創刊経緯
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1997年の創刊当時は、パソコンをより安く入手する方法として、ユーザーが部品単位で購入し組み立てるという自作パソコンが、1990年代の10年間を通して認知されつつあった途上にあった。そのような状況の中で、よりマニアでコアな自作パソコンユーザーのためにPC-DIYが創刊された。 実のところ、グループ会社であるマイクロマガジン社が発行していた「パソコン批評」が広告を掲載しない方針であったため、当時元気のあった台湾系パソコンパーツメーカーをはじめとするパソコン関連企業の広告出稿を狙って創刊された。しかし、あまりに貧弱な誌面構成や、発行部数の少なさなどが原因でその期待にこたえることはできなかった。 なお、タイトルについては台湾で発行されているパソコン雑誌「PCDIY!電腦硬派月刊」を参考にしたとされている。
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創刊経緯
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1960年代の映画斜陽の影響等で、映画製作配給部門への依存度が高かった大映と日活が事実上脱落したことから、その二社に似た体質を持つ東映の当時の岡田茂社長が映画部門以外から利益を出そうと1972年6月に映画会社で初めて事業部制を敷き、サラ金や、パチンコ屋、進学塾、葬儀屋、ラーメン店など、社員に色々やらせた。岡田自身が新規事業として一番意欲的だったのが出版事業で、1973年2月1日に設置したテレビ関連事業室に、最初にやらせたのが黒崎出版との提携と1973年2月の『テレビランド』の創刊で、『テレビランド』に次いで岡田と徳間書店社長・徳間康快とで企画したのが『コミック&コミック』であった。岡田と徳間が構想したのが、映画監督と劇画家を組ませた映画作品を映画化するというもので、創刊号に掲載された主要8作品のうち、3作品が東映の監督原作によるものだった(中島貞夫はフリー)。東映は1960年代以降、岡田の指揮下で、エロと暴力を前面に押し出した"不良性感度路線"を突き進み、特異なエネルギーを放っていたが、当時最も熱気があった劇画と東映映画の二つのサブカルチャーを強引に結びつける力業で創刊された雑誌は読書にも歓迎され二十数万部を記録した。映画と劇画を平然と往復しようとする大胆な感覚は、以降のスマートなメディアミックスを先取りしており野心的であった。1972年8月より梶芽衣子主演・伊藤俊也監督で篠原とおる作の劇画「女囚さそりシリーズ」が成功したことで、劇画を新しい映画の原作供給源と理解していた。 岡田と徳間は『コミック&コミック』創刊と同じ1973年に『山口組三代目』の原作となる田岡一雄の自伝を『アサヒ芸能』に連載したり、大映を再建中の徳間を岡田が支援するなど、もともと仲がよかったといわれ、ビジネス上の付き合いも深めていた。徳間は岡田を"刎頸の友"と表現していた。 鈴木敏夫は『アサヒ芸能』の特集部に配属の後、この『コミック&コミック』編集部を経て、『テレビランド』編集部に自ら志願して加わり、その後『アニメージュ』編集部に移った。鈴木は「『コミック&コミック』でキャッチコピーを学んだ。漫画編集の仕事をしながら、知らぬ間に宣伝のやり方を学んだ」と話している。大塚英志は「東映の気難しい監督たちと若手劇画家を繋ぐ調整役は胃が痛くなる思いだったのではないか」と指摘している。また「『劇画』『漫画』と『映画』『アニメーション』の間の障害はこの国で低いと誰も感じているはずだ。岡田茂と徳間康快という二人の怪物による『コミック&コミック』の近さは、やはり『ナウシカ』における『まんが』から『映画』への近さの問題と地続きだと思える。『まんが』の読み手も創り手も『まんが』や『映画』を『アニメーション』に脳内で置き換えることにこの国の人々は困難さを感じない。その『劇画』と『映画』の境界の上で雑誌を作ろうと考えた『コミック&コミック』はメディアミックスの語では表現できない二つのジャンルの『近さ』をやはり象徴する雑誌だったように思う。『ナウシカ』がまんがからアニメという道を自然に歩むことになる一つの前史がやはり『コミック&コミック』に見出すことができる気がしてならない」と論じている。 組合色が強かったことが災いしたとされ、1974年9月4日号で告知なく休刊した。スタッフは『アサヒ芸能』や『テレビランド』などに散らばった。
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