作風・執筆歴
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現存するカフカの草稿の中で最も古いものは「ある戦いの記録」と題されているもので、大学時代の1904年に着手され、1910年まで断続的に書き続けられたが最終的に放棄された。カフカは生前この作品から一部を抜き出し「祈る人との対話」「酔っ払いとの対話」として文芸誌『ヒュペーリオン』に掲載(1909年)、また、最初の作品集『観察』(1912年)にも、この作品から抜き出した短編「樹々」「衣服」「山へハイキング」「街道の子供たち」を収めている。「ある戦いの記録」の内容自体は、パーティから抜け出した語り手と、そこで知り合った人物とのやり取りから始まり、語り手の妄想とも現実ともつかない状況や会話が取り留めなく連ねられるというもので、文体等にホーフマンスタールの影響が認められる。これと並んで古い草稿は1907年から1908年頃に成立した「田舎の婚礼準備」と題されているもので、いずれも中断しているA稿、B稿、C稿の三つの草稿から成る。この作品では田舎に住む婚約者に会いに行こうとする青年エドゥアルト・ラバンを視点人物として、プラハの都会をフローベールを範にしたといわれる微細な筆致によって描写している。 最初に公表されたカフカの作品『観察』は、当初8編の作品を集めたものとして1908年に『ヒュペーリオン』誌に掲載され、後9編を加えて1912年に刊行された。収められている作品はいずれも散文詩風の小品である。当時の記者からは印象主義的スケッチという、ペーター・アルテンベルクやロベルト・ヴァルザー、ジュール・ラフォルグらが作り出した流行のジャンルに連なるものと考えられていたらしく、特に表現面ではヴァルザーに通じる所があった。『ヒューペリオン』の編集者フランツ・ブライは知人に宛てた手紙で「カフカとヴァルザーは同一人物ではない」と念押ししているほどである。カフカの研究者の間では、この『観察』や「ある戦いの記録」等を若書きの作品として斥ける傾向があったが、現在ではこれら青年時代の作品の特性を明らかにしようという本格的な取組みが行われている。 カフカは1912年9月22日から23日にかけて、フェリーツェ・バウアーとの出会いに触発されて「判決」を一晩で書き上げ、この作品で「すべてを語ることができた」と後に述べるほど強い満足を覚えた。この作品では罪、判決、訴訟といった、後期の作品に現れる法的なモチーフや、日常的な情景が後半で一転して非現実的な展開を見せる、「夢の論理」や「夢の形式」とも言われるカフカ特有の作風が初めて顕著に現れている。カフカはこの直後、前年に着手していた長編『失踪者』を初めから書き直し始め、更に10月から11月にかけてカフカの作品の中で最もよく知られている『変身』を書き上げている。「判決」は商人の主人公が父親によって、その罪をなじられ溺死の判決を受ける物語、『変身』は、ある朝、目覚めると虫になっていた主人公が、家族の厄介者になり衰弱していく物語、『失踪者』の第一章として書かれた「火夫」は、不祥事によって両親の手でアメリカに行かされる少年の物語であり、カフカはこの3編をまとめて『息子たち』のタイトルで刊行する事を考えていたが、出版社の判断により、これは実現しなかった。 カフカの三つの長編小説『失踪者』『審判』『城』はいずれも未完に終わっており生前には発表されていない。この内、最も早い時期に書かれた『失踪者』は「判決」の前後の1911年から1914年頃にかけて書かれた。前述のドイツ人の少年カール・ロスマンが様々な出来事を経験しながら異国の地アメリカを放浪する物語であり、モンタージュ的な語りやカメラアイ風の視点等、映画的な特徴が指摘されている。『審判』では、理由の分からないまま起訴された主人公ヨーゼフ・Kが裁判の為に奔走し、最後には犬の様に処刑される。この作品はカフカがフェリーツェ・バウアーとの婚約を解消した直後、1914年から1915年にかけて執筆された。最も成立時期の遅い『城』は1922年、カフカが結核の為、療養していた時期に執筆されている。この作品の主人公はKという匿名的な記号で表される測量士であり、彼はとある田舎の城に招かれて村にやってくるが、しかし城の役人に振り回されるばかりで、いつまで経っても城に近づく事が出来ない。これらの長編作品では、いずれも罪と罰、息子の反抗と父の勝利、法に対する違反と追放、死の孤独といった共通するモチーフを持っており、死後カフカの作品を刊行したマックス・ブロートは、その内容からこれを「孤独の三部作」と呼んだが、カフカ自身も、それに近い事を日記や手紙に記していた。 以上の様な作品の主人公達には、しばしばカフカ自身を思わせる名前が付けられており、生前のカフカ自身も自作に対して、その様な分析を行なっていた。例えば「田舎の婚礼準備」の主人公ラバン(Raban)はドイツ語の「カラス(Rabe)」を思わせ、チェコ語でコガラスを意味するカフカ(Kafka)に通じ、また、両者は母音、子音の並びの規則が同じである。この母音と子音の並びは『変身』の主人公グレゴール・ザムザ(Samsa)や「判決」主人公ゲオルク・ベンデマン(Bende-mann)にも共通する。『審判』のヨーゼフ・K、『城』のKは共にカフカ自身の名と共通する頭文字である。 生前に発表されたカフカの作品は、ほとんどが短編作品であり、名前も分からない町が舞台であったり、(しばしば奇妙な)動物が登場する寓話風のものが多い。生前に発表された短編は、その大半が1915年から喀血の前後の1917年にかけて、「錬金術通り」の部屋やシェーンボルン地区の一人部屋で執筆されたものである。カフカは長編を大判の四つ折ノートで執筆する一方で、短編には、より小さい八つ折ノートを宛て、短編の他にも多くの書きさし、断片、アフォリズム等を記していた。
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作風・執筆歴
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「ウィリアム・シェイクスピア」の記事における「作風・執筆歴」の解説
シェイクスピアの劇作家としての活動は1592年ごろから始まる。フィリップ・ヘンズロウの日記(当時の劇壇の事情を知る重要な資料として知られる)に『ヘンリー六世 第1部』と思われる戯曲が1592年3月から翌年1月にかけて15回上演されたという記録が残っているほか、同じく1592年にはロバート・グリーンの著書に新進劇作家シェイクスピアへの諷刺と思われる記述がある。これらが劇作家としてのシェイクスピアに関する最初の記録である。 最初期の史劇『ヘンリー六世』三部作(1590-92年)を皮切りに、『リチャード三世』『間違いの喜劇』『じゃじゃ馬ならし』『タイタス・アンドロニカス』などを発表し、当代随一の劇作家としての地歩を固める。これらの初期作品は、生硬な史劇と軽快な喜劇に分類される。 ペストの流行により劇場が一時閉鎖された時期には詩作にも手を染め、『ヴィーナスとアドーニス』(1593年)や『ルークリース陵辱』(1594年)などを刊行し、詩人としての天分も開花させた。1609年に刊行された『ソネット集』もこの時期に執筆されたと推定されている。1595年の悲劇『ロミオとジュリエット』以後、『夏の夜の夢』『ヴェニスの商人』『空騒ぎ』『お気に召すまま』『十二夜』といった喜劇を発表。これら中期の作品は円熟味を増し、『ヘンリー四世』二部作などの史劇には登場人物フォルスタッフを中心とした滑稽味が加わり、逆に喜劇作品においては諷刺や諧謔の色づけがなされるなど、作風は複眼的な独特のものとなっていく。 1599年に『ジュリアス・シーザー』を発表したが、このころから次第に軽やかさが影を潜めていったのが後期作品の特色である。1600年代初頭の四大悲劇と言われる『ハムレット』『マクベス』『オセロ』『リア王』では、人間の実存的な葛藤を力強く描き出した。また、同じころに書いた『終わりよければ全てよし』『尺には尺を』などの作品は、喜劇作品でありながらも人間と社会との矛盾や人間心理の不可解さといった要素が加わり、悲劇にも劣らぬ重さや暗さを持つため、19世紀以降は「問題劇」と呼ばれている。 『アントニーとクレオパトラ』『アテネのタイモン』などのあと、1610年前後から書くようになった晩期の作品は「ロマンス劇」と呼ばれる。『ペリクリーズ』『シンベリン』『冬物語』『テンペスト』の4作品がこれにあたり、登場人物たちの長い離別と再会といったプロットのほかに、超現実的な劇作法が特徴である。長らく荒唐無稽な作品として軽視されていたが、20世紀以降再評価されるようになった。 シェイクスピアは弱強五歩格という韻律を好んだ。『ウィンザーの陽気な女房たち』のように散文の比率が高い戯曲もある。
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