リチャード3世 (イングランド王)
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リチャード3世(英語: Richard III, 1452年10月2日 - 1485年8月22日[1])は、ヨーク朝(プランタジネット朝)最後のイングランド国王(在位:1483年 - 1485年)。ボズワースの戦いで戦死し、これにより薔薇戦争は実質的に終結することになった。
- ^ Richard III king of England Encyclopædia Britannica
- ^ a b c d e 『毎日新聞』朝刊2024年5月5日[迫る]英魅了する「悪党王」:消えた王子500年の「冤罪」/遺骨発見で謎再燃](1面)、モアが記した「実行役」/真実究明に王室の壁(3面)
- ^ “Wednesday 5 September 2012 (continued)” (英語). University of Leicester. 2020年9月29日閲覧。
- ^ 頭部を剣で突かれた遺体は、衣服を剥がれさらしものに…!遺骨が物語る「イングランド王が受けた屈辱」と「深まる謎」
- ^ “リチャード3世遺骨と断定 DNA鑑定、歴史的謎に幕”. 47NEWS (2013年2月4日). 2013年2月4日閲覧。
- ^ “リチャード3世の容姿探る 遺骨から遺伝情報を解析へ”. 47NEWS (2014年9月18日). 2014年2月12日閲覧。
- ^ “リチャード3世、頭蓋骨に致命傷”. ナショナルジオグラフィックニュース (2014年9月18日). 2014年9月18日閲覧。
- ^ “リチャード3世の「凄惨な死」、遺骨から明らかに”. AFP通信 (2014年9月17日). 2015年3月28日閲覧。
- ^ “リチャード3世、遺骨から浮かび上がる壮絶な最期”. CNN (2014年9月18日). 2014年9月18日閲覧。
- ^ “リチャード3世 冷酷王の真実”. ニューズウィーク日本版(2013年2月26日号). 阪急コミュニケーションズ. (2013-02-19). p. 44.
- ^ a b “リチャード3世の骨、DNA鑑定で非嫡出子の謎浮上”. AFP BB News (2014年12月3日). 2015年8月10日閲覧。
- ^ “英リチャード3世の遺骨、レスター大聖堂に再埋葬” (2015年3月27日). 2015年3月27日閲覧。
- 1 リチャード3世 (イングランド王)とは
- 2 リチャード3世 (イングランド王)の概要
- 3 系譜
- 4 関連項目
リチャード三世
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「ホロウ・クラウン/嘆きの王冠」の記事における「リチャード三世」の解説
戯曲『リチャード三世』に基づく。王弟で脊椎側彎症のグロスター公リチャードがしばしばカメラに向かって独白する。ヨーク派による王位獲得から10年後、王弟クラレンス公ジョージは反逆を疑われて牢に入れられ、王エドワード4世は病に倒れ、リチャードは、ランカスター朝の前皇太子エドワード・オブ・ウェストミンスターの婚約者であったアン・ネヴィルと結婚する。前王妃マーガレット・オブ・アンジューは宮廷に現れてヨーク派を呪う。リチャードは刺客を牢に送って兄ジョージを殺す。 王は崩御し、リチャードと腹心のバッキンガム公は王妃エリザベスの親族の廷臣たちを処刑し、少年王エドワード5世と弟のヨーク公リチャードをロンドン塔に幽閉する。バッキンガム公は議会に諮ってエドワード4世と王妃の結婚は無効であり、2人の子は王位継承権のない私生児であると宣言し、リチャードを王位につける。リチャード3世は囚われの甥たちを殺させる。 ランカスター派のリッチモンド伯ヘンリー・テューダーはフランスから挙兵し、リチャードの母セシリー、エリザベス、マーガレットは共にリチャードを呪う。バッキンガム公とスタンリー卿はリチャードを裏切り、ボズワースの戦いでヘンリーはリチャードを倒す。ヘンリーは王位につき、エドワード4世の娘エリザベス・オブ・ヨークを娶ってランカスター家とヨーク家を結び付ける。 日本語版では、シーズン2の第6話から第8話(リチャード三世パート1-3)となる。
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