チョウリョウとは? わかりやすく解説

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ちょう‐りょう〔チヤウリヤウ〕【張良】

読み方:ちょうりょう

[一][?〜前168中国前漢創業功臣新鄭河南省)の人。字(あざな)は子房。韓の貴族出身で、秦の始皇帝暗殺失敗後、劉邦謀臣となって秦を滅ぼし、さらに鴻門(こうもん)の会では劉邦危急から救った。漢の統一後は留侯に封じられた。

[二]謡曲四番目、五番目物観世信光作。黄石公が川に落とした沓(くつ)を漢の張良が取って履かせ、人柄認められ太公望兵法奥義授かる


ちょう‐りょう〔チヤウ‐〕【張陵】

読み方:ちょうりょう

中国後漢末道士五斗米道(ごとべいどう)の開祖。沛(はい)(江蘇省)の人。蜀(しょく)の鳴山に入って仙道学び、治病のための符と道書広めて教団組織。のち尊ばれ天師称された。張道陵生没年未詳


ちょう‐りょう〔テウリヤウ〕【跳×梁】

読み方:ちょうりょう

[名](スル)はねまわること。転じて好ましくないものが、のさばりはびこること。「悪鬼が—する」


跳梁

読み方:チョウリョウ(chouryou)

おどりはねること


長陵Chang ling

チョウリョウ
チヤウリヨウ

前漢時代には戸数五万人口十七あったというが、王莽の乱で十分の一になり、また羌族暴力によって、戸数は四千未満になってしまっていた。

県令】尹敏 / 吉黄

【県吏】楽親

県人王元 / 楽恢 / 楽已 / 第五倫 / 第五頡 / 第五種 / 第五防 / 第五儁 / 第五元 / 第五文休 / 趙岐 / 趙戩


張陵Zhang Ling

チョウリョウ
チヤウリヨウ

34?~179?)
徴士

字は輔漢《張魯集解》。沛国豊の人。張魯祖父張衡の父《張魯伝》。「天師」「張道陵」とも称される張魯集解》。

建武十年三四)、呉の天目山生まれたという。さまざまな書物習い、もともとは大儒学者であった直言し諫めたため、江州県令左遷された。官を棄てて洛陽北邙山に隠れ住み、煉形術を修得した章帝博士官職用意して彼を招いたが、張陵は赴かず、和帝即位したとき太傅・冀侯に取り立てようとしたが、やはり拝受しなかった《張魯集解》。

淮水渡って鄱陽入り龍虎山に登って天の精気一身集めた神秘の源探して西方行き、壁洞において「制命五岳摂召霊及神虎秘文」を発見し、そこで嵩山石室行き、『黄帝九鼎丹経』を手に入れた張魯集解》。

そうして道術極めたが、巴蜀名山多く、また病気流行して人々苦しんでいると聞き順帝御代、蜀に仮住まいした《張魯集解後漢書劉焉伝》。初め陽平山に居を構えたが、のちに鳴山に移り、そこで玄元老君老子)の神秘的な声を聞いて経典奥義授かった張魯集解》。

『三国志』張魯伝では「鳴山」とあるが、『後漢書』水経注』では「鳴山」、『太平御覧』では「鳴山」とする《張魯集解》。

こうして身体分解して変化現し、『道書二十余篇を著述して「天師」を自称した。蜀の古老が「むかし漢の高祖二十四気対応する二十四の祭壇作ったので、王となって天下領有できたのだ」と語るのを聞いて、その二十四の祭壇で牛をつぶして祭祀行い、土の祭壇屋根設けて二十四治」と称する治療所を作り、さらに四つ増やして二十八宿と対応させた。そのため病気減っていった。塩水の湧く井戸発掘したり、城に住む鬼を退治したといった話は数え切れない張魯集解》。

永寿二年(一五六)、また渠亭山に住まい移し、「三五斬邪雌雄剣」を見付けだした。陽平の治では(?)、彼の度重なる功績評価し、「天師衡使」の印を授け代々受け継がせることにした《張魯集解》。

熹平年間一七二~一七八)の末期、張陵は大蛇呑み込まれ姿を消した。子の張衡駆けずまわって父の亡骸探した見付けることができず、そこで霊験現し変化したのだと言い、崖の上に石を置いて目印とした。光和二年(一七九)、「正月七日昇天いたすゆえ、張衡天師継承せよ」との遺書残し、張陵は雲に乗って昇天した。齢百二十であった張魯集解》。

建武十年生まれ光和二年に昇天したというから百四十六歳になるはずで、計算合わない。それを指摘する盧弼も百五十七歳と誤っている《張魯集解》。

彼が百姓たちを惑わす際、信奉する者に五斗の米を提出させた。それゆえ米賊と呼ばれているのである張魯伝・後漢書劉焉伝》。

参照張衡 / 張魯 / 劉炟(章帝) / 劉肇和帝) / 劉邦高祖) / 劉保順帝) / 老子玄元老君) / 呉 / 江州県 / 鳴山(山・鳴山) / 漢 / 冀県 / 渠亭山 / 蜀 / 嵩山 / 沛国 / 巴蜀 / 鄱陽県 / 壁洞 / 豊県 / 北邙山 / 陽平 / 雒陽県(洛陽県) / 龍虎山 / 淮水 / 県令 / 侯 / 太傅 / 博士 / 黄帝九鼎丹経 / 制命五岳摂召霊及神虎秘文 / 道書 / 三五斬邪雌雄剣 / 治(治療所) / 天師 / 米賊 / 煉形術


張遼Zhang Liao

チョウリョウ
チヤウレウ

169222
魏使持節前将軍晋陽剛侯

字は文遠雁門郡馬邑県の人。もともと聶壱の子孫だが匈奴復讐避けるため姓を改めた

若いころ役人となり、武勇見込まれ幷州刺史丁原従事として召し出される。兵を率いて都に赴き、大将軍何進のために河北兵卒千人徴募したが、帰洛したとき何進宦官殺されていたので董卓属し、また董卓敗れると呂布属して騎都尉任じられた。呂布李傕敗れて徐州逃れると、魯国相となる。ときに二十八歳曹操下邳呂布を滅ぼすと軍勢引き連れて投降し中郎将関内侯となった。のち武功重ねて将軍昇進する袁紹敗北する魯国諸県平定した。

東海郡拠る昌豨夏侯淵とともに包囲したが、数ヶ月のあいだ落とせ兵糧が底をつき、軍議の席で撤退について話し合いとなった。張遼は夏侯淵に「ここ数日昌豨は私の顔をじっと見つめて矢を射ようともしません。私に彼と話をさせて下さいと言った。そこで使者をやると昌豨は城を出て話し合い応じ、張遼が「曹操様は徳義によって天下治めておられる。今帰服すれば大きな恩恵受けられるだろう」と言うと昌豨喜んで投降した曹操はこれを聞いて大将やることではない」と叱ったが、張遼は「明公威信天下鳴り響いているので、昌豨には逆らう勇気がないと思ったのです」と陳謝した。

袁譚袁尚討伐のため黎陽従軍し、行中堅将軍任じられた。また鄴の袁尚攻撃したが、袁尚堅く守ったので、曹操は許に帰還して、張遼と楽進陰安攻略し住民黄河南岸移した。また鄴を攻撃して、これが陥落すると、趙・常山平定し黒山孫軽らを降伏させた。さらに袁譚攻撃参加してこれを破ると、別軍率いて沿海地域攻略し遼東の賊柳毅撃破した鄴に帰還すると曹操は自ら張遼を迎え手を引いてじ車乗せ、盪寇将軍任命した

また別軍率いて荊州江夏郡平定し臨潁戻って駐屯し、そこで都亭侯に封じられた。袁尚討伐戦従軍して柳城至ったが、突如蹋頓らが襲撃してきた。張遼は曹操迎撃することを勧めたが、彼の意気軒昂たる様子見て曹操指揮の旗を張遼に授けて戦わせた。張遼は賊軍戦って撃ち破り単于蹋頓の首を斬った。

長社駐屯したとき、叛逆企てた者が夜間火を放ち軍中大い混乱した。張遼は側の者に「みだりに動くな。叛逆者が騒ぎ大きくしているだけだ」と言って軍中に静まるように命令し、張遼自身数十人の供を連れて陣の中央に立つと、騒動鎮まったので、叛逆者を捕まえて処刑した

陳蘭梅成が六・灊県こぞって叛乱すると、于禁臧霸梅成にあたり、張遼は張郃朱蓋連れて陳蘭あたった梅成一度于禁降ったが再び背き陳蘭とともに灊山に立て籠もった。山の中に天柱山という頂があり、その上に陳蘭らの砦があったが、そこまでの道は狭く険しかったので、将軍たちは「我が軍の数は少なく道は険しいので進むことができないと言ったが、張遼「これは一騎打ちの道といって勇者なら進むことができるのだ」と言って侵入し陳蘭梅成らを攻撃して首を斬った。曹操はこれを賞して張遼の所領加増し、仮節を与えた

のちに楽進李典ら七千人とともに合肥駐屯して孫権備える。曹操漢中制圧のため西方行ったので、孫権軍勢十万起こして合肥攻め寄せた曹操事前に彼らに残した命令書には「張遼・李典城外戦え」とあったが、諸将ためらって同意しなかった。張遼は「公の救援待っていたら我が軍敗北するぞ。敵の包囲網整わぬうちに攻撃してから守ればよい」と主張し李典賛成したので、勇気のある兵士八百人を募集し、牛を潰して彼らに振る舞った

翌朝、張遼は自ら先頭立って敵陣突入し二人の将と数十人の兵を斬り、名乗り挙げながら孫権本陣まで迫った孫権らは驚いてなすすべなく小高い丘に逃れた。張遼は下りてきて戦え叫んだが、孫権は敵の少なさ見て取って彼らを包囲させた。張遼は左右に斬り込んで数十人の部下とともに幾重にも重な包囲切り抜けた残され部下たちが「私たち見捨てないください」と叫んだので再び敵中飛び込み、彼らを救い出してやった。こうして真昼まで戦い孫権軍勢はすっかり戦意なくしてしまったので、張遼は合肥城に帰還した孫権は十余日かけて城を落とせなかったので撤退したが、張遼はこれを追撃して孫権捕える寸前まで大勝利収めた曹操は非常に感じ入り、彼を征東将軍任じた

建安二十一年二一六)、曹操孫権征伐のため合肥駐屯したとき、張遼が戦った所を巡り歩いて感歎した。張遼の兵を増やして居巣駐屯させた。のち曹仁樊城関羽包囲されたので張遼は救援向かった到着しないうちに徐晃関羽破ったので、摩陂で曹操拝謁した曹操は輦に乗って張遼の軍をねぎらった孫権はすでに帰服していたので、陳郡駐屯することになった

曹丕魏王即位する前将軍拝命する。領地を兄張汎分けられ、子が列侯封じられた。再び孫権叛逆したので合肥駐屯し都郷侯に封じられた。張遼の母に車が支給され家族官軍守られ合肥赴いた。彼らが到着すると、合肥駐留する諸将軍吏は道に並んで挨拶をして出迎えた

曹丕帝位即く晋陽侯に進められ千戸加増されて二千六百となった。翌黄初二年(二二一)に洛陽参内したとき、曹丕親しく孫権撃ち破ったときのことを尋ね感嘆して彼を「古の召虎である」と言った。また彼のために邸宅を建て、その母のために御殿築いた。そして張遼とともに孫権戦った兵士たち召して虎賁とした。

孫権が臣礼をとったため駐屯地雍丘移したが、ここで病気罹った曹丕侍中劉曄と太医を張遼のもとに派遣し、また虎賁たちも彼の病気を心配して道路に引きも切らなかった。曹丕は彼を行在所召し寄せ親しく見舞って手づから御衣下賜した。また太官に命じて天子と同じ食事贈った。こうして張遼の病気はやや治癒した

孫権はまたも叛逆したので、張遼は舟に乗って曹休とともに海陵駐屯した。このとき孫権は彼を恐れ諸将に「張遼は病気とはいえ油断してはならぬぞ」と命じた。張遼は孫権の将呂範撃破した。張遼の病気はますます重くなって、江都にて亡くなった曹丕彼のために涙を流し、剛侯と諡した。

参照于禁 / 袁尚 / 袁紹 / 袁譚 / 何進 / 夏侯淵 / 楽進 / 関羽 / 朱蓋 / 徐晃 / 召虎 / 昌豨 / 聶壱 / 曹休 / 曹仁 / 曹操 / 曹丕 / 臧霸 / 孫軽 / 孫権 / 張郃 / 張汎 / 陳蘭 / 丁原 / 董卓 / 蹋頓 / 梅成 / 李傕 / 李典 / 柳毅 / 劉曄 / 呂範 / 呂布 / 陰安邑 / 海陵県 / 合肥侯国 / 下邳国 / 河北 / 漢中郡 / 雁門郡 / 許県 / 鄴県 / 居巣県 / 荊州 / 江夏郡 / 江都 / 徐州 / 常山国 / 晋陽県 / 灊山 / 潜県(灊県) / 趙国 / 長社県 / 陳国陳郡) / 天柱山 / 東海郡 / 馬邑県 / 樊城 / 幷州 / 摩陂 / 雍丘 / 雒陽県(洛陽県) / 六県 / 柳城 / 遼東郡 / 臨潁県 / 黎陽県 / 魯国 / 王 / 関内侯 / 騎都尉 / 侯 / 剛侯 / 刺史 / 侍中 / 従事 / 相 / 征東将軍 / 前将軍 / 太医 / 太官 / 大将軍 / 中堅将軍 / 中郎将 / 盪寇将軍 / 都郷侯 / 都亭侯 / 裨将軍 / 諡 / 仮節 / 宦官 / 匈奴 / 行 / 黒山賊 / 虎賁 / 単于 / 輦 / 列侯


張良

読み方:チョウリョウ(chouryou)

初演 明治19.12(東京・新富座)


張良

読み方:チョウリョウ(chouryou)

分野 幸若舞

年代 室町時代

作者 作者未詳


張良

読み方:チョウリョウ(chouryou)

分野 謡曲

年代 室町中期~後期

作者 観世信光



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