張陵とは? わかりやすく解説

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ちょう‐りょう〔チヤウ‐〕【張陵】

読み方:ちょうりょう

中国後漢末道士五斗米道(ごとべいどう)の開祖。沛(はい)(江蘇省)の人。蜀(しょく)の鳴山に入って仙道学び、治病のための符と道書広めて教団組織。のち尊ばれ天師称された。張道陵生没年未詳


ちょうりょう 【張陵】

中国後漢の人。通称張道陵。字は輔漢。道教源流目される五斗米道創始者。(江蘇省北部出身。蜀の鳴山で修行し民衆教法説いたという。しばしば画題とされる。(生没年不詳)→ 五斗米道

張陵Zhang Ling

チョウリョウ
チヤウリヨウ

34?~179?)
徴士

字は輔漢《張魯集解》。沛国豊の人。張魯祖父張衡の父《張魯伝》。「天師」「張道陵」とも称される張魯集解》。

建武十年三四)、呉の天目山生まれたという。さまざまな書物習い、もともとは大儒学者であった直言し諫めたため、江州県令左遷された。官を棄てて洛陽北邙山に隠れ住み、煉形術を修得した章帝博士官職用意して彼を招いたが、張陵は赴かず、和帝即位したとき太傅・冀侯に取り立てようとしたが、やはり拝受しなかった《張魯集解》。

淮水渡って鄱陽入り龍虎山に登って天の精気一身集めた神秘の源探して西方行き、壁洞において「制命五岳摂召霊及神虎秘文」を発見し、そこで嵩山石室行き、『黄帝九鼎丹経』を手に入れた張魯集解》。

そうして道術極めたが、巴蜀名山多く、また病気流行して人々苦しんでいると聞き順帝御代、蜀に仮住まいした《張魯集解後漢書劉焉伝》。初め陽平山に居を構えたが、のちに鳴山に移り、そこで玄元老君老子)の神秘的な声を聞いて経典奥義授かった張魯集解》。

『三国志』張魯伝では「鳴山」とあるが、『後漢書』水経注』では「鳴山」、『太平御覧』では「鳴山」とする《張魯集解》。

こうして身体分解して変化現し、『道書二十余篇を著述して「天師」を自称した。蜀の古老が「むかし漢の高祖二十四気対応する二十四の祭壇作ったので、王となって天下領有できたのだ」と語るのを聞いて、その二十四の祭壇で牛をつぶして祭祀行い、土の祭壇屋根設けて二十四治」と称する治療所を作り、さらに四つ増やして二十八宿と対応させた。そのため病気減っていった。塩水の湧く井戸発掘したり、城に住む鬼を退治したといった話は数え切れない張魯集解》。

永寿二年(一五六)、また渠亭山に住まい移し、「三五斬邪雌雄剣」を見付けだした。陽平の治では(?)、彼の度重なる功績評価し、「天師衡使」の印を授け代々受け継がせることにした《張魯集解》。

熹平年間一七二~一七八)の末期、張陵は大蛇呑み込まれ姿を消した。子の張衡駆けずまわって父の亡骸探した見付けることができず、そこで霊験現し変化したのだと言い、崖の上に石を置いて目印とした。光和二年(一七九)、「正月七日昇天いたすゆえ、張衡天師継承せよ」との遺書残し、張陵は雲に乗って昇天した。齢百二十であった張魯集解》。

建武十年生まれ光和二年に昇天したというから百四十六歳になるはずで、計算合わない。それを指摘する盧弼も百五十七歳と誤っている《張魯集解》。

彼が百姓たちを惑わす際、信奉する者に五斗の米を提出させた。それゆえ米賊と呼ばれているのである張魯伝・後漢書劉焉伝》。

参照張衡 / 張魯 / 劉炟(章帝) / 劉肇和帝) / 劉邦高祖) / 劉保順帝) / 老子玄元老君) / 呉 / 江州県 / 鳴山(山・鳴山) / 漢 / 冀県 / 渠亭山 / 蜀 / 嵩山 / 沛国 / 巴蜀 / 鄱陽県 / 壁洞 / 豊県 / 北邙山 / 陽平 / 雒陽県(洛陽県) / 龍虎山 / 淮水 / 県令 / 侯 / 太傅 / 博士 / 黄帝九鼎丹経 / 制命五岳摂召霊及神虎秘文 / 道書 / 三五斬邪雌雄剣 / 治(治療所) / 天師 / 米賊 / 煉形術


張陵

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/09 03:02 UTC 版)

張陵
34年 - 156年
『列仙酒牌』による張陵
尊称 張天師
生地 豫州沛国豊県
没地 青城山
教派 五斗米道

張 陵(ちょう りょう、34年2月22日建武10年1月15日) - 156年10月10日永寿2年9月9日))[1]は、中国における原始道教の一派である、五斗米道(天師道)の開祖。台湾の道士たちの間で伝わっている『道教源流』という伝承によれば字は輔漢張良八代の孫張翳(字は大順)の子。妻は雍氏(または孫氏)。弟は張道聖(張望)・張道宏。子は張衡張脩中国語版?)・張権(または張機、張機仲景とは別人、妻は王氏)。娘は張文姫(字は文姫、名は不詳)・張文光(字は文光、名は不詳)・張賢(字は賢姫)・張芝(字は芳芝)。孫は張魯張衛・張傀(字は公仁)・張徴。孫娘は張玉蘭中国語版(張衡の娘)。とするが、正史『後漢書』『三国志』では息子の嗣師・張衡(張脩?)以外の名前は書かれていない。

伝承

伝歴には不明な点が多い。また、張道陵(ちょう どうりょう)という別称もあるが、後世の付会であろうとされる。

桓帝の治世下の時代に生まれ、太学に学び広く五経に通じていた。晩年になって[要出典]へ行き、鶴鳴山(鵠鳴山)に入り、「仙道」を学び、142年に「新出老君」(新たな老子)という名を天から授かったと主張した。[2] 「道書」24編を撰したという。後に青城山に赴き、123歳で没したという。[要出典]

彼の教法の中心は、祈祷を主体とした治病であり、信者に5斗(日本の5升=9リットル)のを供出させたことから、五斗米道という呼称が生まれた。

張陵の伝記は、葛洪の手になる『神仙伝』に詳説されているが、多分に潤色を加えられた形跡があり、彼よりも後世の五斗米道の教説も混入している。

その教団は、子の張衡・孫の張魯へと伝わり、広まった。張陵を尊称して「天師」と呼び、子孫は龍虎山へと移住し、道教中の一派である正一教となった。

張陵の唱えた教義について

張陵の教義は良くわからないことが多く、学者たちは張魯の伝承から遡って張陵の教義を推定している。[3] 東洋史学者の佐中壮は、「張陵はアショーカ王(阿育王)の事績を海のシルクロード経由で知り、アショーカ王を理想にして領国を統治し、アショーカ王が広めた仏教と老子の教えを混在した道教を創始した」と考えた。後漢はセイロン島と交流があり、アショーカ王の教えが伝わったセイロン島(葉調国)の使節が中国に来航していたことが『後漢書』順帝紀に「(永建六年)十二月,日南徼外葉調國、撣國遣使貢獻。」として記されている他、張陵の孫の張魯の教団の行動がアショーカ王と似ているためである。佐中は張魯が行っていた義舎(信者向けの無料宿泊所)の建設や道路や病院などの公共施設を建設する、殺生を一定の期間禁止するなどはアショーカ王の模倣であり、また、老荘思想では酒を飲むことを禁じていないが、張陵らが酒を飲むのを禁じていたのも仏教の模倣であるとしている。[4]

関連文献

  • 魏志』第八巻「張魯伝」
  • 真誥』第四巻
  • 神仙伝
  • 『歴世真仙体道通鑑』
  • 『天師世家』
  • 『張氏全譜』
  • 小柳司気太著『道教概説』

脚注

  1. ^ 瞿海源 (1992年4月30日) (中国語). 《重修臺灣省通志‧卷三‧住民志‧宗教篇(第一冊)》. 中華民國: 國史館臺灣文獻館. pp. 第40頁-第41頁. ISBN 9789570007381. https://www.google.com.tw/books/edition/_/qBRhEAAAQBAJ?hl=zh-TW&gbpv=1&pg=PT51&dq=%E5%8D%B3%E8%80%81%E5%90%9B%E4%B8%8B%E9%99%8D+%E4%BB%A5%E7%9B%9F%E6%88%90%E6%B3%95. "正乙派開祖。據臺灣道士所傳「道教源流」云:漢天師諱道陵,字漢輔,沛豐邑人,留侯子房八代嫡孫大順之長子。光武建武十年正月望日生,七歲讀道德經,五千言二篇,十遍而達其旨。永和四年生辰,獲丹書秘訣,遂於鶴鳴山修煉。漢安元年壬午正月望日午時,感金闕后聖玄元道君,即老君下降,以盟成法篆,三五斬邪劍,都功板卷鑲授之。遂能服丹載魁罡,立治庭。而後太上授傳「三清眾經九百三十六卷,符錄丹霞秘訣七十二卷,並製頂冠道服等物賜之,。至桓帝永壽年間,屢賜此經並五斗真經。至永泰二年丙申九月九日,居間州雲臺山,忽太上遣使授此經玉册賜之三天扶教輔元大法天師正一靜應顯祐真君之號。" 
  2. ^ アンナ・ザイデル「張陵」日本大百科全書(ニッポニカ) 、コトバンク。[1]2018年5月21日。2025年3月1日閲覧。
  3. ^ 川勝義雄「張陵」改訂新版 世界大百科事典、コトバンク。[2]2025年3月1日閲覧。
  4. ^ 佐中壮『<雑纂>道敎發生事情に關する一考察』史學硏究會 (京都帝國大學文學部内)「史林」 18 (3), 518-524, 1933-07-01[3]



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