張雄飛とは? わかりやすく解説

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張雄飛

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/01 09:39 UTC 版)

張 雄飛(ちょう ゆうひ、生没年不詳)は、モンゴル帝国大元ウルス)に仕えた漢人の一人。字は鵬挙。沂州臨沂県の出身。

概要

張雄飛の父の張琮は金朝に仕えた人物で、金末には家族を許州に残し、河陰の守護を務めていた。幼くして母を亡くした張雄飛は張琮の妾である李氏に育てられたという。モンゴル軍が許州に侵攻した時、張雄飛と李氏は命を奪われる寸前であったが、かつて張琮の配下であった田某が自らの家人であると偽って両名を助けた。この時張雄飛はわずか10歳であったが、モンゴル軍に連れられて北方に移住した。李氏は霍州に至ったところで逃れようとしたが、これを察した張雄飛がしばらくの間側を離れなかったため、遂に逃亡をあきらめて潞州に移住するに至ったという。潞州にて成長して張雄飛は王宝英に学び、金朝の滅亡後は所在のしれなくなった父を求めて各地を転々とした。しかし遂に父を探し当てることはできず、最後には燕京に入ってモンゴル語などを学ぶようになったという[1]

1265年(至元2年)、廉希憲の推薦を得て第5代皇帝クビライに仕えるようになり、やがて同知平陽路転運司事の地位を授けられた[2]。ある時、江孝卿とともにクビライに招かれた張雄飛は、綱紀粛正のために御史台を建てることを進言した[3]。クビライはこの進言を受け入れて御史台を設立し、タガチャル[4]を御史大夫に、張雄飛を侍御史に任命した[3][5]

このころ、参議枢密院事の地位にあった費正寅が狡猾な人物として知られており、ある時費正寅は告発を受けた。そこで張雄飛と中書右丞相のカルジンが審理を担当することとなり、費正寅は寛容な処置を請うたものの、張雄飛はこれを顧みることなく罪を暴き、費正寅は処刑されるに至ったという[6]

その後、尚書省が設立された時にはこれに反対して左遷され、澧州安撫使に赴任することとなった。このころ、澧州の民は朝廷の支配に反感を抱いていたが、張雄飛が撫民に務めたため、民心は安定したという。また、巨商2人が脱税および殴打の事件を隠匿するために官に賄賂を贈っていたことを知ると、賄賂を受けて無罪にしようとしていた同僚の意見を退け、巨商2人の捕縛に踏み切ったとの逸話がある[7]

1277年(至元14年)には安撫司が総管府に改められたことに伴い、張雄飛はダルガチとして荊湖北道宣慰使に遷った。このころ、常徳の十余家が徳山寺の僧と組んで反乱を起こそうとしているとの告発があったため、荊湖北道の官たちは出兵を計画していた。しかし、張雄飛は富豪たちを仇とする者による告発ではないかと疑い、出兵の前に調査をさせたところ、張雄飛の推測した通りで出兵はとりやめになったという。またこのころ、湖広地方の征服を担当したエリク・カヤが降3,800戸を自らの家奴としたことが問題となっており、張雄飛はエリク・カヤに直談判しても受け入れられなかったため、朝廷に働きかけて家奴を民に戻させたという[8]

1279年(至元16年)、御史中丞行御史台事の地位を拝命した。このころ、尚書省の長のアフマド・ファナーカティーがわが子のフセインを江進行省に入れようとしており、張雄飛と対立するであろうことを予想して、張雄飛を陝西漢中道按察使の地位に改めてしまった。ところがそれからまもなくアフマドは暗殺されてしまい、その配下の官僚たちも罷免されてしまったため、張雄飛は中央に召喚されて参知政事に任じられた。アフマドが権勢を振るっていた時期、賄賂政治によって綱紀がゆるみきっていたため、張雄飛は自ら位階を下げることを申し出て範を示し綱紀粛正に取り組んだ。1284年(至元21年)春に尊号を定めるに当たって天下に大赦を行うことが検討されたが、張雄飛は大赦を行うことは「不公平な政治(不平之政)」であると述べて反対した。これを聞いたクビライは「『大猟した後に良き射を見る』『集議した後に良き言を知る』とはこのことだ」と述べて張雄飛の言を受け入れ、大赦の対象を軽い刑に止めたという[9]

張雄飛は剛直廉慎な人柄で知られ、1286年(至元23年)には燕南河北道宣慰使に再起用されたが、それからまもなく官職に就いたまま死去した[10]

息子には張師野・張師諤・張師白・張師儼・張師約5人がいた[11]

脚注

  1. ^ 『元史』巻163列伝50張雄飛伝,「張雄飛字鵬挙、琅邪臨沂人。父琮、仕金、守盱眙。金人疑之、罷其兵柄、徙居許州。尋復命守河陰、仍留家人于許。雄飛幼失母、琮妾李氏養之。国兵屠許、惟工匠得免。有田姓者、琮故吏也、自称能為弓、且詐以雄飛及李氏為家人、由是獲全、遂徙朔方、雄飛時方十歳。至霍州、李欲逃、恐其累己、雄飛知之、頃刻不去左右、李乃変服与倶還、寓潞州。雄飛既長、往師前進士王宝英于趙城。金亡、雄飛不知父所在、往来沢・潞、求之十餘年、常客食僧舎。已而入関陝、歴懐・孟・潼・華、終求其父弗得、遂入燕。居数歳、尽通国言及諸部語」
  2. ^ 『元史』巻163列伝50張雄飛伝,「至元二年、廉希憲薦之于世祖、召見、陳当世之務、世祖大悦。授同知平陽路転運司事、搜抉蠹弊悉除之。帝問処士羅英、誰可大用者、対曰『張雄飛真公輔器』。帝然之。命駅召雄飛至、問以方今所急、対曰『太子天下本、願早定以繋人心。閭閻小人有升斗之儲、尚知付託、天下至大、社稷至重、不早建儲貳、非至計也。向使先帝知此、陛下能有今日乎』。帝方臥、矍然起、称善者久之」
  3. ^ a b 高橋 2007, pp. 32–33.
  4. ^ ほぼ同時期に活躍したオッチギン家のタガチャルと混同されることが多いが、『中堂事記』などで「諸王塔察児」と「前平章政事塔察公」が明確に区別されていることにより、別人と考えるべきである。御史大夫や平章政事を務めた官僚のタガチャルは、伝記資料が残っておらず、どのような出自の人物か不明である(高橋2007,p.24)。
  5. ^ 『元史』巻163列伝50張雄飛伝,「他日、与江孝卿同召見、帝曰『今任職者多非材、政事廃弛、譬之大廈将傾、非良工不能扶、卿輩能任此乎』。孝卿謝不敢当。帝顧雄飛、雄飛対曰『古有御史台、為天子耳目、凡政事得失、民間疾苦、皆得言。百官姦邪貪穢不職者、即糾劾之。如此、則紀綱挙・天下治矣』。帝曰『善』。乃立御史台、以前丞相塔察児為御史大夫、雄飛為侍御史、且戒之曰『卿等既為台官、職在直言、朕為汝君、苟所行未善、亦当極諌、況百官乎。汝宜知朕意。人雖嫉妬汝、朕能為汝地也』。雄飛益自感励、知無不言」
  6. ^ 『元史』巻163列伝50張雄飛伝,「参議枢密院事費正寅素憸狡、有告其罪者、詔丞相線真等与雄飛雑治之。請托交至、雄飛無所顧、尽得其罪状以聞、正寅与其党管如仁等皆伏誅。会議立尚書省、雄飛力争于帝前、忤旨、左遷同知京兆総管府事。宗室公主有家奴逃渭南民間為贅壻。主適過臨潼、識之、捕其奴与妻及妻之父母、皆械繋之、尽没其家貲。雄飛与主争辯、辞色倶厲。主不得已、以奴妻及妻之父母・家貲還之、惟挾其奴以去」
  7. ^ 『元史』巻163列伝50張雄飛伝,「入為兵部尚書。平章阿合馬在制国用司時、与亦馬都丁有隙、至是、羅織其罪、同僚争相附会、雄飛不可曰『所犯在制国用時、平章独不預耶』。衆無以答。秦長卿・劉仲沢亦以忤阿合馬、皆下吏、欲殺之、雄飛亦持不可。阿合馬使人啗之、曰『誠能殺此三人、当以参政相処』。雄飛曰『殺無罪以求大官、吾不為也』。阿合馬怒、奏出雄飛為澧州安撫使、而三人竟死獄中。時澧州初下、民懐反側、雄飛至、布宣徳教以撫綏之、民遂安。有巨商二人犯匿税及殴人事、僚佐受賂、欲寛其罪、雄飛縄之益急。或曰『此細事、何執之堅』。雄飛曰『吾非治匿税殴人者、欲改宋弊政、懲不畏法者爾』。細民以乏食、群聚発富家廩、所司欲論以強盗、雄飛曰『此盗食、欲救死、非強也』。寛其獄、全活者百餘人。澧西南接渓洞、傜人乗間抄掠居民、雄飛遣楊応申等往諭以威徳、諸傜悉感服」
  8. ^ 『元史』巻163列伝50張雄飛伝,「十四年、改安撫司為総管府、命雄飛為達魯花赤、遷荊湖北道宣慰使。有告常徳富民十餘家、与徳山寺僧将為乱、衆議以兵討之。雄飛曰『告者必其仇也。且新附之民、当以静鎮之、兵不可遽用、苟有他、吾自任其責』。遂止、徐察之、果如所言。先是、荊湖行省阿里海牙以降民三千八百戸没入為家奴、自置吏治之、歳責其租賦、有司莫敢言。雄飛言于阿里海牙、請帰其民于有司、不従。雄飛入朝奏其事、詔還籍為民」
  9. ^ 『元史』巻163列伝50張雄飛伝,「十六年、拝御史中丞、行御史台事。阿合馬以子忽辛為中書右丞、行省江淮、恐不為所容、奏留雄飛不遣、改陝西漢中道按察使。未行、阿合馬死、朝臣皆以罪去。拝参知政事。阿合馬用事日久、売官鬻獄、紀綱大壊、雄飛乃先自降一階、於是僥倖超躐者皆降之。忽辛有罪、勅中貴人及中書雑問、忽辛歴指宰執曰『汝曽使我家銭物、何得問我』。雄飛曰『我曽受汝家銭物否』。曰『惟公独否』。雄飛曰『如是、則我当問汝矣』。忽辛遂伏辜。二十一年春、冊上尊号、議大赦天下、雄飛諌曰『古人言無赦之国、其刑必平。故赦者、不平之政也。聖明在上、豈宜数赦』。帝嘉納之、語雄飛曰『大猟而後見善射、集議而後知能言、汝所言者是、朕今従汝』。遂止降軽刑之詔」
  10. ^ 『元史』巻163列伝50張雄飛伝,「雄飛剛直廉慎、始終不易其節。嘗坐省中、詔趣召之、見于便殿、謂雄飛曰『若卿、可謂真廉者矣。聞卿貧甚、今特賜卿銀二千五百両・鈔二千五百貫』。雄飛拝謝、将出、又詔加賜金五十両及金酒器。雄飛受賜、封識蔵于家。後阿合馬之党以雄飛罷政、詣省乞追奪賜物、裕宗在東宮聞之、命参政温迪罕諭丞相安童曰『上所以賜張雄飛者、旌其廉也、汝豈不知耶。毋為小人所詐』。塔即古阿散請検核前省銭穀、復用阿合馬之党、竟矯詔追奪之。塔即古阿散等俄以罪誅、帝慮校核失当、命近臣伯顔閲之。中書左丞耶律老哥勧雄飛詣伯顔自辯、雄飛曰『上以老臣廉、故賜臣、然臣未嘗敢軽用、而封識以俟者、政虞今日耳、又可自辯乎』。二十一年、盧世栄以言利進用、雄飛与諸執政同日皆罷。二十三年、起為燕南河北道宣慰使、決壅滞、黜姦貪、政化大行。卒于官」
  11. ^ 『元史』巻163列伝50張雄飛伝,「子五人、師野・師諤・師白・師儼・師約。師野宿衛東宮時、荊湖行省平章政事阿里海牙入覲、言之宰相、欲白皇太子、請以師野為荊南総管、雄飛固止之。帰謂師野曰『今日欲有官汝者、汝宿衛日久、固応得官、然我方為執政、天下必以我私汝、我一日不去此位、汝輩勿望有官也』。其介慎如此」

参考文献

  • 元史』巻163列伝50張雄飛伝
  • 新元史』巻158列伝55張雄飛伝
  • 松田孝一「元朝期の分封制 : 安西王の事例を中心として」『史學雜誌』88号、1979年
  • 藤野彪/牧野修二編『元朝史論集』汲古書院、2012年
  • 杉山正明『モンゴル帝国と大元ウルス』京都大学学術出版会、2004年
  • 高橋文治編『烏臺筆補の研究』汲古書院、2007年



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