サービスの発展
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「アメリカ合衆国の鉄道史」の記事における「サービスの発展」の解説
鉄道の寝台車は、1836年には既にペンシルベニア州で運行が開始されていたが、室内は暗く間仕切りのカーテンもなく、ベッドは粗末で陰気な牢獄のような雰囲気と捉えられていた。家具製造業をしていたジョージ・プルマンは、1858年に初めて寝台車を製造し、この改善に乗り出した。まだこの寝台車はそれほど豪華なものではなかったが、折から始まった南北戦争で兵員輸送用に政府に大量に買い上げられ、これによって財務基盤を固めた。続いて、豪華客船を範に取った「パイオニア号」を開発した。木目の入った渋い壁材や重厚なカーテン、クリスタルガラスの間切り、磨き上げたブラスの飾りなど豪華絢爛であったが、それまでになく大型で重量の大きいパイオニア号を運行することにどの鉄道会社も難色を示した。しかしリンカーン大統領が暗殺されると、この客車は葬送列車として使われることになり、シカゴからスプリングフィールドまでの通行経路が大至急拡大補強されることになった。この葬送列車で有名になったパイオニア号には、乗車を希望する各界の名士が殺到し、鉄道会社としても無視できないものとなった。また葬送列車のために主要路線が拡大補強されたことで、以降の大型客車の通行可能な路線が増えることになった。 そしてプルマンが1867年に設立したプルマン・パレス・カーは、次々に新しいサービスを開発して送り出すことになった。1867年には厨房室つきホテルカーを、1868年には本格的な食堂車を導入した。暖房には石炭ストーブを止めて、スチーム温水暖房を導入した。1887年にはベスティビュール(英語版)と呼ばれる幌で覆われた構造のデッキを開発して、乗客が風雨にさらされることなく車両間を移動できるようになった。灯油ランプによる照明からピンチガスによる照明を導入して、夜の客車を明るくした。安全性にも配慮し、ウェスティングハウスの空気ブレーキを1871年にいち早く採用したほか、1907年には全鋼製車両を導入した。後にプルマンは車両搭載用のエア・コンディショナーを開発するなど、常に便利・快適・豪華・安全を追い求め続けた。 プルマンが特徴的であったこととして、車両を製造して鉄道会社に販売するだけではなく、自社で所有する寝台車や食堂車を鉄道会社の列車に連結して運行してもらい、自社の車掌やコック、ポーターを乗せて乗客にサービスする事業を展開したことがある。運賃を鉄道会社に払って普通の客車に乗るか、運賃に追加の「プルマン料金」を支払ってプルマンの豪華な客車に乗るかの選択ができるようになったのである。異なる鉄道会社へも客車が直通することから旅客の乗換の手間が省け、鉄道会社としても需要の繁閑の差が大きい寝台車やそのためのスタッフを自前で抱えなくて済むことからこのシステムは広く普及し、全米を覆うプルマンの寝台車網が展開されていった。このために鉄道会社の客車での等級差は意味が無いものとなってしまい、プルマン車とそれ以外という区分になっていった。ヨーロッパの鉄道では三等車の需要が過半を占めていたのに対して、アメリカの鉄道ではプルマン車の需要が大半を占めることになり、鉄道会社の用意する普通の客車は、どうしても料金を負担できない階層の人間の利用に限られることになった。プルマンの豪華列車は、一晩で4万人に寝台を提供する豪華ホテルチェーンとなっていった。 また、プルマンのサービスをするスタッフにはマイノリティーを多く雇っていたのも特徴であった。車掌は白人であったが、ポーターは黒人、ラウンジのボーイにはフィリピン人を採用しており、食堂車のスタッフはこれらの混成であった。これには給与を安く抑えるという経済的な理由と、マイノリティーにも職を与えるという人道的な理由の両方があった。このスタッフは実際の名前に関わらず、ジョージ・プルマンの名前から「ジョージ」と客から呼ばれるのが常であった。スタッフは分厚いマニュアルに基づく徹底した訓練を受けており、すべてのサービスを会社のマニュアルどおりにこなすことを求められ、これを監査するために覆面調査員が雇われているほどであった。こうしたスタッフは給料は安かったが、乗客が渡すチップを含めればかなりの高給となり、またその当時の黒人社会では限られていた旅行の機会に広く恵まれることもあってよい職業であるとされ、プルマンのスタッフから大成した黒人も出ることになった。 プルマンは大企業へと成長したため、1881年に客車の製造工場をシカゴ近郊に移転させ、そこを会社の名前を冠した企業城下町「プルマン(英語版)」とした。工場で働く12,000人近い労働者がそこで住んでいた。工場労働者はスラムのような住宅に住むのが当たり前であった当時、衛生的で近代的な住宅環境を備えた町に労働者を居住させたことは画期的であった。町には学校・病院・商店・劇場・教会などまで備えられていたが、酒を飲むことは許されておらず、後にストライキを招く原因ともなった。 一方、続々と到着する移民向けには「移民車」という特別な等級の車両が用意された。これは非常に安い運賃で移民を乗せたが、設備は最低限のものであった。しかし移民車に乗って到着した人が一代にして成功を収めて、プルマン車で旅行するようになるのも珍しいことではなかった。 プルマンの寝台車を連結した豪華列車は鉄道会社の看板であり、特に競合する区間では激しい競争が繰り広げられた。ニューヨーク・セントラル鉄道は1902年6月15日に20世紀特急の運行を開始した。その翌日、ライバルのペンシルバニア鉄道もブロードウェイ特急の運行を開始した。この両者は共にニューヨーク - シカゴ間で激しい競争を展開し、どちらも豪華な食事と客車を競い、スピード競争を展開した。 貨物輸送の分野では、家畜車や冷蔵車がこの時代に発明された。それまでの家畜車は水や食料の供給が考慮されておらず、輸送中に少なからぬ家畜の死亡が発生していたが、この点が改善されて家畜を屠殺場までよい状態のままで輸送することができるようになった。冷蔵車は1867年に特許が取得されて、精肉や果物などの生鮮食料品の輸送が可能となった。これはまだ機械式冷凍機によるものではなく、氷による冷気を循環させるものであったが、輸送路の沿線に氷を供給し冷蔵車に積み込む仕組みを整備することで冷蔵輸送が実用化された。それまで食料品は缶詰や塩漬けなどの保存可能な形態に加工したもの以外は、その地方で生産されたものを消費するだけであった。しかし冷蔵車による生鮮食料品の大量高速輸送が可能となって状況は一変し、ニューヨークに住む一般庶民がテキサス産牛肉のステーキにアイダホ産ポテトを添えて、デザートにカリフォルニア産オレンジを食べるといったことは一般的なこととなった。また、カタログによる通信販売のサービスが鉄道による小包輸送を背景として成立した。1872年にモントゴメリー・ワード(英語版)が世界で初めて、カタログを元に郵送による受注と発送を行う通信販売サービスを開始した。これにより大型店舗のない地方部でも、大都市の百貨店の品と同等のものを購入できるようになった。鉄道の大量高速輸送が大衆に豊かな生活をもたらしたが、一方で生活の画一化をももたらすことになった。 20世紀初頭に完成したニューヨークのペンシルベニア駅(左)とグランド・セントラル駅(右) この時代の鉄道駅は多くの人が利用する都市の玄関口の役割を果たし、鉄道会社はその威信を示すために壮大な駅舎を建設した。複数の鉄道会社が乗り入れている都市では、各社が共同で使用するターミナル駅としてユニオン駅を建設した。ユニオン駅は通常、乗り入れ各社が共同出資する会社が運営し、各社は使用料を払って乗り入れていた。ユニオン駅はアメリカ中の多くの都市に建設され、ほとんどの都市で単に「ユニオン駅」という名前が付けられており、都市名などは冠されなかった。たとえば1894年に完成したセントルイスのユニオン駅(英語版)には18社が乗り入れていた。一方ニューヨークにおいては、ペンシルバニア鉄道はノース・リバー・トンネルを建設してマンハッタンを横断する形でペンシルベニア駅を設置した。1909年に完成した駅舎は壮麗なギリシア風建築であったが、後に取り壊された。またニューヨーク・セントラル鉄道はやはり地下線でマンハッタンに乗り入れて、グランド・セントラル駅を設置した。1913年に完成した駅舎は壮大な吹き抜けのホールを持つ宮殿風建築で知られる。 フレッド・ハーヴィはフレッド・ハーヴィ・カンパニーを創設して、西部の鉄道駅においてレストランチェーンを展開した。この頃はすべての列車に食堂車があるわけではなく、乗客は機関車の交換などで停車時間の長い駅で下車して、駅にあるレストランを利用していた。事前に注文を車内で集めて電信で伝えることで、到着と同時に食べられるサービスが用意されていたが、レストラン側では同じ客が二度と来ることはないと見越してサービスは劣悪で、客の食べ残しをパイに加工して出すなどのことはそれまで日常であった。ハーヴィはここに良質なサービスを提供することを目指して参入し、アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道と提携して1876年から西部で鉄道駅におけるレストランのチェーン展開を始めた。銀器に盛られた、鉄道で輸送した材料で作った上級の料理はもとより、ハーヴィ・ガールと呼ばれるウェイトレスは大きな反響を呼んだ。東部やヨーロッパで教育を受けた若い女性ばかりを高給で採用して、「ドッジシティの西にレディなく、アルバカーキの西に女なし」と言われた当時の西部にセンセーションを巻き起こした。多くのハーヴィ・ガールが西部で結婚して、西部開拓に一役買うことになった。ハーヴィの上級な料理とサービスが売り物となり、アッチソン・トピカ・アンド・サンタフェ鉄道は大陸横断鉄道の中でも高い輸送シェアを維持できたと言われている。 1916年時点で鉄道は、アメリカの総旅客輸送量の98パーセントを輸送していた。鉄道労働者は170万人に上り、アメリカの総人口の4パーセントに達している上に、これには鉄道車両メーカーなどの関連産業を含んでいなかった。しかし1905年にはアメリカで初めてのバスの営業が、1907年にはアメリカで初めての有償貨物輸送を行うトラックの営業が、そして1914年にはアメリカで初めてのタクシー営業が始まった。1916年には合衆国議会が高速道路建設の計画 (Federal-aid highway program) を開始した。この年は、アメリカの鉄道網が歴史上もっとも長い、約254,000マイル(約406,400 km)に達した年でもあった。1917年には450万台の自動車と40万台のトラックがアメリカを走っており、1919年には陸軍のトラック部隊が初めて大陸横断実験に成功した (Transcontinental Motor Convoy)。フォード・モーターは1908年にフォード・モデルTの生産を開始し、1914年には年産50万台、1924年には年産120万台となった。1903年にライト兄弟によってライトフライヤー号の初飛行が成功し、1919年にはニューヨークとシカゴを結ぶ初の定期郵便航空路線が、1920年代半ばには民間の定期航空路線が開設された。鉄道の競合者は着々と成長していた。
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