走れ!ケー100
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『走れ!ケー100』(はしれ ケーひゃく)は、TBS系列局ほかで放送されていたテレビドラマである。TBSとC.A.Lの共同製作。全51話。TBSでは1973年4月13日から1974年3月29日まで放送。
注釈
出典
- ^ 「走れ!ケー100 その奇跡の旅路記録写真集」P35
- ^ 金田益実「INTERVIEW 杜澤たいぶん」『別冊映画秘宝 特撮秘宝』vol.3、洋泉社、2016年3月13日、pp.69-71、ISBN 978-4-8003-0865-8。
- ^ 第16話のセリフより。当時の大野しげひさは33歳。
- ^ 第5話より。これは通称「5トン機関車」のケ100形蒸気機関車と同程度。臼井茂信「国鉄狭軌軽便線 5」鉄道ファン1983年6月号 (No.266) P88参照
- ^ 毎日小学生新聞・昭和48年3月1日(発車オーライ!走れケー100)
- ^ この廃車体は鉄道ファン1968年7月号、1985年3・5月号、1999年11月号、RailMagazine1994年6月号、臼井茂信「機関車の系譜図 2」(1973年、交友社)などでも紹介された。ただしカラーブックスの「ケ100」という説明は誤りで、実際はケ100とは無関係の機関車である。
- ^ 山下商店の「深川」。 - 編集長敬白アーカイブ「山下商店のSL」(泡沫軌道部)
- ^ クレジットの二郎は誤植。
- ^ a b 金城哲夫少年役。第26話では「紺野秀樹」、第49話では「紺野英樹」とクレジットされている。
- ^ 『毎日新聞 縮刷版』毎日新聞社、1973年4月6日。 ラジオ・テレビ欄。
- ^ DVD「めざせ!夕張編」解説書に採録の企画書。
- ^ a b c DVD「行くぜ!沖縄編」解説書
- ^ 尾美は公式には1978年、13歳で市川崑監督の映画『火の鳥』でデビューしたことになっており、正確なデビュー作は不明。
- ^ 「走れ!ケー100 その奇跡の旅路記録写真集」P33
- ^ 第49話で登場した際には次回で金城哲夫本人が登場するため、役名を名乗ることも呼ばれることも無かった(第51話オーディオコメンタリー・青野監督の発言)。
- ^ a b c 「スーパー戦隊制作の裏舞台 上原正三」『スーパー戦隊 Official Mook 20世紀』《1975 秘密戦隊ゴレンジャー》講談社〈講談社シリーズMOOK〉、2018年3月24日、31頁。ISBN 978-4-06-509616-1。
- ^ オープニングにはクレジットされていない。
- ^ 放送当時の1973年8月21日に法人名をCBS・ソニーレコード株式会社から株式会社CBS・ソニー(現:株式会社ソニー・ミュージックエンタテインメント)に称号を変更したが、番組オープニングのテロップは最終話までCBS・ソニーレコードのままだった。
- ^ 演歌・歌謡 今月の最新配信曲2016年9月25日閲覧
- ^ 『北海道新聞』(縮刷版) 1973年(昭和48年)4月13日 - 1974年(昭和49年)3月29日付朝刊、テレビ欄。
- ^ 『河北新報』1973年4月13日 - 9月7日付朝刊、テレビ欄。
- ^ a b 『河北新報』1973年4月13日 - 1974年3月29日付朝刊、テレビ欄。
- ^ 『福島民報』1973年4月13日 - 1974年3月29日付朝刊、テレビ欄。
- ^ 『福島民報』1973年7月6日 - 1974年3月29日付朝刊、テレビ欄。
- ^ 『北日本新聞』1974年3月29日付朝刊、テレビ欄。
- ^ 本放送終了後の1975年3月31日毎日放送とネットチェンジした。
- ^ 『北日本新聞』1973年9月12日付朝刊、テレビ欄。
- ^ 『信濃毎日新聞』1973年9月12日付朝刊、テレビ欄。
- ^ 『河北新報』1974年8月6日 - 8月27日付朝刊、テレビ欄。
- ^ 走れ!ケー100 : その奇跡の旅路記録写真集 : 第一回放送終了35周年記念記録写真集 (「走れ!ケー100」記念写真集編纂委員会): 2009|書誌詳細|国立国会図書館サーチ2016年3月9日閲覧
- ^ 道路を走る機関車! アオシマ 1/43 走れ!ケー100後期型 入荷しました(上新電機Joshin web J-鉄道部)2016年3月9日閲覧
- ^ 「最終回にほえろ! Part3」、タカトク「走れ!ケー100フィギュア」-ノスタルジック・ヒーリーズ2014年11月16日閲覧
- ^ Googleフォト「ケー100再生プロジェクト」
ケー100
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元は50年前から北海道の夕張炭鉱で働いていた軽便鉄道の機関車。廃車になり鹿児島の鉄工所に放置されていたところを、鉄工所の息子である隆少年と近所の紋太(22歳)によって修理される。道路を走ることができるように、車輪を鉄輪からゴムタイヤに付け替えられた。(設定上の)重量は5トン。 ただの機械ではなく自分自身の意思を持っており、喋ったりはしないが、紋太の言うことを聞かずに勝手に動くこともしばしば。第20話では漁港で引き揚げられたゴンドウクジラに怯えて逃げ出したり、後半ではヘッドライトを袋などで隠されると、意思が封じられ普通の機関車になってしまう弱点を利用され、しばしばペテン師の石橋によって盗まれたこともある。 第5話では関門海峡を渡るために紋太たちが知恵を絞り、最終的にはケー100をポンポン船で運んでもらおうとするが、そのままでは重量オーバーのため重い煙室扉は取り外し、それを紋太が抱えて地下の関門人道トンネルを必死で歩き山口県側まで運んでポンポン船と合流した。 第7話では紋太が海岸にケー100を止めて昼寝中に満潮になり、目を覚ますとケー100が厳島神社近くの海に浮かんでいて、偶然ケー100が水上も走れることが明らかになった。津軽海峡は自力で渡り、北海道上陸を果たした。 第18話で機関車工場(日立製作所水戸工場)の協力を得て鉄輪を取り付け、旅の開始以来初めてレール上を走行した。(勝田駅付近の常磐線の線路と並行している日立製作所従業員輸送用の専用線(1993年廃止)が撮影に使用された) 第25話では再会を記念して機関士姿の北川久作(笠智衆)を乗せ、三菱大夕張鉄道大夕張炭山駅(1973年12月廃止)を走り抜けた。 階段を登ることも可能で、第11話京都・滋賀編で神社(名称不明)の石段、第16話で向ヶ丘遊園(現・生田緑地ばら苑)の大階段、第30話で山形県・出羽三山神社(羽黒山)の2446段の石段を登った。第39話では鳥取砂丘を縦横無尽に走り回った。 最終回ではハブにタイヤを咬まれて瀕死になり、医者から聴診器で診察されたり血清注射の治療を受けるという、生き物のような扱いをされた。 撮影用の車両はカナダ製の水陸両用車アンフィキャットの改造で、車体部分は軽量化のためFRP製であり、実際に水上を走ったり、階段を登るなどの芸当が可能だった。1 - 3号車の計3台が製作され、1号車を使って3月4日から撮影開始したが、同月中旬に第2話宮崎編のラストを大分県別府市で撮影した際炎上・焼失してしまった。製作準備中だった2号車の完成を急ぎ3月25日に撮影を再開、番組中止の危機を乗り越え、その後2台体制に戻すため急遽3号車も作られた。撮影終了後、残った2台は百貨店などを巡業し、2号車は朝霧高原グリーンパーク(静岡県富士宮市、閉鎖済み)、3号車は沖縄こどもの国に譲渡された。ただし、2台共に現存しない。 番組名は「ケー100」だが、ナンバープレートには「K100」と書かれている。国鉄では実際に軽便鉄道規格の蒸気機関車に「ケ」という称号を付与しており、「ケ100」も実在した。放映当時の新聞記事には、福岡県久留米市にあった廃車体の写真が保育社カラーブックス「蒸気機関車」(1968年、広田尚敬)において「久留米の、ある屑鉄屋の店先に置かれたケ100」(併記された英語解説文では、KE100)として紹介されたことが、企画のヒントになったことを示唆する記述がある。その機関車は2004年時点では現存が確認されているが、荒廃が進んでいる。なお「ケ」の付く機関車としては、ケ90形が静岡県浜松市にて静態保存されている。
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