4歳時(2019年)
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「スタディオブマン」の記事における「4歳時(2019年)」の解説
4歳初戦となったガネー賞はのちに凱旋門賞馬となるヴァルトガイストの2着。続くイスパーン賞でも2戦続けて2着となり、復調の気配を見せていた。7月のメシドール賞(G3)に1番人気で出走するも3着、ジャック・ル・マロワ賞でも6着に敗退。その後、現役を引退し2020年よりイギリスのランウェイズスタッドで種牡馬入りすることになった。
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4歳時(2002年)
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「コンガリー (競走馬)」の記事における「4歳時(2002年)」の解説
この年のコンガリーの始動はやや遅く、5月27日のローンスターパーク競馬場で行われたローンスターパークハンデキャップ(G3・8.5ハロン)が年内初戦となった。この競走でコンガリーはゲートで暴れてうまく発走できなかったものの、すぐさま先頭に立って道中を進め、最後の直線ではプリンスイロコイという穴馬に迫られたが、結局そのまま一度も先頭を譲らずに優勝を手にした。この年はその後スティーブンフォスターハンデキャップ(G1・6月15日・チャーチルダウンズ・9ハロン)で1番人気に支持されながらも6着、デルマー競馬場でのサンディエゴハンデキャップ(G2・8月4日・8.5ハロン)では3着と勝ちに恵まれなかったが、同競馬場9月2日のデルマーブリーダーズカップハンデキャップ(G2・8ハロン)では再び終始ハナを譲らない競馬で勝利を収めている。この後、コンガリーの陣営は芝競走のブリーダーズカップ・マイル(芝8ハロン)を目標にし、それに向けて10月5日にはサンタアニタパーク競馬場のオークツリーブリーダーズカップマイルステークス(G2・芝8ハロン)でコンガリーを初の芝競走に挑戦させたが、7着と大敗したためブリーダーズカップ参戦は見送られた。 この年コンガリーが最後に出走したのは、11月30日アケダクト競馬場のシガーマイルハンデキャップ(G1・8ハロン)であった。この競走ではプリークネスステークス優勝馬のレッドバレット(英語版)やブリーダーズカップ・スプリント3着馬のクラフティシーティーなどが人気を集め、コンガリーは単勝オッズ5.5倍の4番人気であった。レースが始まるとボナヒューという馬が先手を切り、それにクラフティシーティーが続き、その後ろにコンガリーは位置して序盤を進めていった。残り3ハロンの標識地点で前をゆくクラフティシーティーが前を空け、また後ろにいたハーランズホリデーが動き出すのと同じ頃に、コンガリーの鞍上ジェリー・ベイリーは合図を出して前に進めだした。そして6ハロン通過ところでボナヒューから先手を奪い取ると、左ムチを入れられたコンガリーは最後の2ハロンを24秒86のタイムで駆け抜けて、結果勝ちタイム1分33秒11、2着馬アルデバランに5馬身半差をつける圧勝を見せつけた。
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4歳時(2014年)
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「パレスマリス」の記事における「4歳時(2014年)」の解説
2013年のブリーダーズカップ後、パレスマリスの翌年の始動は3月29日のフェアグラウンズ競馬場、ニューオーリンズハンデキャップ(ダート9ハロン・G2)が予定されていたが、2014年2月になって予定変更、ニューオーリンズの前の3月8日にガルフストリームパークハンデキャップ(ガルフストリームパーク・ダート8ハロン・G2)から始動することになった。改めて鞍上にヴェラスケスを迎えて出走したパレスマリスは、立ち上がりは先行できず5番手に控えたが、徐々に進出して第3コーナーから先頭に立った。最終コーナーでは一瞬アンキャプチャード(Uncaptured)に先頭を譲ったものの、再び追い抜いて1着でゴール。3番手から追い上げてきた2着馬ゴールデンチケット(Golden Ticket)をアタマ差抑えて半年ぶりの勝利を手にした。 続いて予定通りの出走となったニューオーリンズハンデキャップでは、パレスマリスは久々にマイク・スミスを鞍上に迎えた。当日はトップハンデの121ポンド(約54.9キログラム)を課せられていた。パレスマリスはこの競走でもスタートが悪く、またコーナーでは大きく外を回らされたものの、それでも着実に順位を上げていき、最後の直線では大きく突き放してゴール、2着のノルマンディインベーション(Normandy Invasion)に4馬身3/4差をつけて連勝を手にした。 パレスマリスの陣営は、パレスマリスの上半期の目標を6月のメトロポリタンハンデキャップ(ベルモントパーク・ダート8ハロン・G1)に定め、そのプレップレースとして5月11日のウェストチェスターステークス(ベルモントパーク・ダート8ハロン・G3)を使ってきた。4頭立てで行われたこの競走で、再びヴェラスケスを鞍上に据えたパレスマリスは単勝オッズ1.05倍という断然人気に支持され、それに応えるように2着馬を9馬身以上突き放す圧勝で3連勝を飾った。 6月7日に迎えたメトロポリタンハンデキャップでは単勝オッズ2.35倍の1番人気に支持され、それにニューオーリンズ以来のノルマンディインベーション、ブリーダーズカップ・ダートマイル(G1)を制してきたゴールデンセンツらが人気で続いていた。先手こそブロードウェイエンパイア(Broadway Empire)とゴールデンセンツに譲る3-4番手からの競馬であったが、最後の直線に向きあってからその2頭の間を割って抜け出し、2着ゴールデンセンツを1馬身差し切って優勝した。勝ちタイムは1分33秒56。管理馬の優勝について、プレッチャーは競走後のコメントで「ベルモントを勝ったが去年のことで、それがこのメットマイルでBCダートマイル馬を負かしたというのは、本当に驚異的なことです」と語った。 連勝の中迎えた8月2日のホイットニー招待ハンデキャップ(サラトガ・ダート9ハロン・G1)では、パレスマリスは単勝オッズ1.65倍という断然の支持を得ていた。この競走ではスタートもよく、バックストレッチでは前にモレノとゴールデンチケットを置く3番手につける絶好のポジションにあった。しかし、ヴェラスケスの合図に対してパレスマリスの反応は鈍く、力尽きたのか最終コーナーで後続の馬群に沈んでしまう。最終的に6着でゴール、モレノの逃げ切り勝ちから11馬身も離された大敗に終わった。競走後、ヴェラスケスは「何が悪かったのかわからない、彼は全力を出さなかった。絶好の位置にいたけど、半マイル(4ハロン)のところで動かそうとしたのに彼は動く様子を見せなかった。彼はレース中ずっと注意散漫だった。調教もウォームアップもよかったのに、今日は全く走らなかった」とコメントしている。
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4歳時(1966年)
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シーバードが凱旋門賞を最後に引退したので、この世代ではルリアンスとダイアトムが二強ということになった。ダイアトムは3月にボイヤール賞(2000メートル)でシジュベール(Sigebert)の追撃を半馬身抑えきって勝った。シジュベールは前年のアンリフォワ賞に勝った馬で、凱旋門賞ではシーバードの前に着外に敗れていた。ダイアトムは、続いて春最初の大レースであるガネー賞(2000メートル)に臨んだ。ここでもダイアトムとシジュベールの争いになり、3/4馬身差でダイアトムが勝った。馬主のロートシルト男爵にとっては、4度目のガネー賞勝利となったが、これはフランソワ・デュプレ氏と並んでガネー賞の最多記録である。 ダイアトムは続いて、6月のドラール賞(2500メートル)に出た。ここでダイアトムは、5キロ斤量の軽い大穴のタジュベナ(Tajubena)に不覚をとってしまい、3/4馬身差の2着に敗れてしまった。次にダイアトムが出走したのは7月のサンクルー大賞典だった。当時のサンクルー大賞典は3歳馬が初めて古馬と対戦する大レースで、ダイアトムの側からすると1歳下の3歳勢を迎え撃つ立場だった。ダイアトムは61キロを背負って出走したが、7キロ軽い斤量の3歳馬シーホークに2馬身差で敗れてしまった。 ダイアトムはこのあと、秋の凱旋門賞を目指す予定だったが、調教中に腱を痛めてしまった。この怪我が原因で、ダイアトムは以後出走ができなくなり、引退することになった。サンクルー大賞典で対戦したシーホークも同じ頃に怪我をして引退することになり、「二強」のもう1頭、ルリアンスもこの年はアクシデントが続いて結局一度も出走できないまま引退となった。この年の凱旋門賞は、開催直前に6日間連続で雨が降り、ひどい不良馬場で行われたのだが、この年の前半にダイアトムに2戦して2敗のシジュベールが逃げ、ゴール寸前まで粘って半馬身差の2着になった。さらに、サンクルー大賞典でダイアトムよりも遅れた3着のベイトアン(Behistoun)はアメリカに渡ってワシントンDCインターナショナルステークスに優勝した。
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4歳時(1976年)
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新馬戦(1月31日) トウショウボーイとグリーングラスのデビュー戦で、且つ初対戦。結果は、トウショウボーイが勝利し、グリーングラスは4着。 なお、当レースにはこの2頭の他、自身も後の重賞勝ち馬で引退後にはトウショウボーイとの間に三冠馬ミスターシービーを産んだ牝馬シービークインも出走している(5着)。 皐月賞 関西の秘密兵器と呼ばれたテンポイントが東上後2連勝、関東の一番手となっていたものの重賞未勝利のトウショウボーイを抑え1番人気となるが、肝心のレースはトウショウボーイが圧倒的なスピードでテンポイントに0秒8差をつけて制す。 当レース後「調教コースに坂が無ければ関東馬には敵わない」とテンポイント陣営が涙ながらに敗戦の弁を述べた事が、後年栗東トレーニングセンターへの坂路調教コース開設に繋がって行き、現在の関西優勢の起因となる。 東京優駿 圧倒的1番人気で望んだトウショウボーイは不利も無く最後の直線に入るものの、加賀武見鞍上のクライムカイザーの奇襲に屈し2着。このレース前に弱点をしゃべる失態を犯したのと、次走の札幌記念の敗戦が、デビューからコンビを組んできた池上昌弘降板の原因となる。 なお、宿命のライバル・テンポイントはそれよりも酷い状態であり、主戦の鹿戸明は落馬負傷で騎乗出来ず、後にライバルの鞍上を担う武邦彦との急造コンビで挑んだものの、レース中に骨折したこともあり、7着に沈む。 グリーングラスはトライアルのNHK杯で優先出走権確保を狙うものの、12着惨敗で参戦出来ず。 菊花賞 初のTTG揃い踏み。 単枠指定を受けたトウショウボーイとクライムカイザーを振り切りテンポイント悲願の勝利と思われたが、条件戦を勝利したばかりで低人気だったグリーングラスが内から抜け出して優勝。 有馬記念 1番人気のトウショウボーイが、武邦彦テン乗りと言うハンデを跳ね返しレコード勝ち。 この時点では無冠の3番人気のテンポイントは第3コーナーから第4コーナーで行き場を失い、最後の直線も差が詰められず2着。
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4歳時(1956年)
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その後、休養に入ったキタノオーは、翌1956年3月に復帰。緒戦のオープン戦を制し、続くスプリングステークスではハクチカラと共に「尾形三羽烏」と評されたホマレモン、ケンセイを退けて勝利した。続くオープン戦では59kgという負担重量もあり3着と敗れたが、さして評価を落とすことはなく、4月22日、クラシック初戦・皐月賞を迎えた。当年は例年開催の中山競馬場が改築中のため、東京競馬場で行われた。キタノオーは「勝利の確率は80%以上」とも評され、ハクチカラを大きく離しての1番人気に推されていたが、外枠不利といわれる東京競馬場・2000メートルという舞台で、16頭立ての15番枠に入った。スタートが切られると勝尾キタノオーは強引に好位をとってレースを進め、最後の直線で先頭に立った。しかし前半のレース運びが響いて脚が上がり、最後は7番人気の伏兵・ヘキラクに差されて1馬身4分の1差の2着と敗れた。ハクチカラは12着と大敗した。同馬はのちに若い馬手(厩務員)が尾形の許可なく整腸剤を投与して調子を崩していたことが判明し、馬手が交代されたうえで立て直しが図られた。 その後、キタノオーは二冠目の日本ダービーを見据えてNHK杯に出走。再戦したヘキラクを難なく退け、2分4秒4というレコードタイムで勝利した。6月3日に迎えた日本ダービーでは1番人気に支持されるも、枠順は皐月賞に続き外枠の25番枠であった。ヘキラクは22番枠、3番人気のハクチカラは4番枠だった。スタートが切られると第1コーナーでキタノオーとヘキラクは内側へ向けて急激に斜行し、煽りを受けた2頭が落馬。それを過ぎるとハクチカラ先頭、キタノオー2番手、ヘキラク4番手と続く形となった。ハクチカラは道中で位置を下げてキタノオーは3~4番手、ハクチカラは6番手前後で進んだが、最終コーナーでハクチカラは馬場内側を突いて一気に抜け出し、キタノオーはこれを追走するも3馬身およばず2着に終わった。竹男は「絶好調だった。敗因は、馬場状態と大外枠の不利だ。ハクチカラの枠からスタートしていれば勝てていただろう」と語ったが、後年には「キタノオーはダービーに勝てる馬だった。あのころは、俺もコチンコチンになっていたし、考えて乗るだけの余裕がなかった」と述懐している。なお、キタノオーとヘキラクの煽りを受けて競走を中止したエンメイは骨折して安楽死処分、騎手の阿部正太郎も重傷を負って最終的に引退へ追い込まれ、この競走後には事故防止委員会が開かれ、レースの流れを監視するパトロールタワー設置などが実施される契機ともなった。 夏の休養を経て、秋緒戦の毎日王冠では4着と敗れたが、続くセントライト記念では前走敗れた牝馬フェアマンナやハクチカラらを退けて勝利。その後、クラシック三冠最終戦の菊花賞に備えて西下し、京都特別で62kgという斤量を負いミナトリュウ(56kg)の2着という成績を経て、菊花賞に臨んだ。1番人気に支持されたキタノオーは、後方待機策から最後の直線で逃げ込みを図るトサモアーを一気に差しきり、クラシック最後の一冠を制した。 続くオープン戦の勝利を経た年末、キタノオーは改築なった中山競馬場において、この年創設された第1回中山グランプリに出走。これはときの日本中央競馬会理事長・有馬頼寧の肝煎りでつくられた、ファン投票で出走馬を選定するオールスター競走であり、キタノオーは6143票を集め、競走史上最初の第1位選出馬となった。出走馬はキタノオー、ハクチカラ、ヘキラク、フェアマンナといった4歳クラシック優勝馬のほか、八大競走2勝のメイヂヒカリ、同3勝のダイナナホウシュウ、オーストラリア産の天皇賞優勝馬ミッドファームらが顔を揃え、12頭中7頭が八大競走優勝馬という顔触れは「史上空前の豪華メンバー」といわれた。当日はファン投票で12票差の2位だったメイヂヒカリが単勝オッズ1.3倍の1番人気に支持され、キタノオーは2番人気となった。レースではダイナナホウシュウが逃げた後方でメイヂヒカリと並んで4~5番手を進んだが、最後の直線では同馬に突き放された。しかし2着争いからは確実に抜け出し、メイヂヒカリから3馬身半差、ミッドファームに2馬身差をつけての2着となった。メイヂヒカリからは離されたが同馬はこれを最後に引退、ハクチカラは5着、ヘキラクは最下位12着となり、キタノオーが次代の最強馬候補との印象をアピールすることになった。
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4歳時(1962年)
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「リユウフオーレル」の記事における「4歳時(1962年)」の解説
年が明けて4歳になると、1月3日の4歳戦で2キロ負担重量が軽いマニーボックスに1馬身3/4差で敗れたが、新春カップ(1600メートル)ではヤマニンフレーム、チトセハーバー、マニーボックス、オーステーツなどを相手に2馬身差で勝った。 その後は低迷し、オープン戦で2連敗し、皐月賞8着、NHK杯7着で東京優駿(日本ダービー)を迎えた。ダービーでは好スタートからカネツセーキに先頭を譲って2番手に位置し、好位を保ったが、最終的には勝馬フェアーウィンから1秒遅れて8着となった。春シーズンの最後となった毎日杯では3着だった。 秋シーズンに入り、これまでの先行戦術をやめ後方待機策をとるようになった。緒戦の平安特別で3着の後、オープン戦(1700メートル)で8戦ぶりに4勝目を挙げると、続く神戸杯(2000メートル)では1番人気に推され、ヒカルポーラらを下して重賞初制覇を遂げた。さらに京都杯(1800メートル)でもコレヒサから3/4馬身差の2着となり、11月末の菊花賞に臨んだ。
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4歳時(1881年)
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「ロバートザデヴィル」の記事における「4歳時(1881年)」の解説
ロバートザデヴィルの4歳緒戦は盛り上がりに欠けるものだった。というのも、ロバートザデビルが出走した5月のニューマーケット競馬場のローズベリープレート(Rosebery Plate)には、ロバートザデヴィルに挑戦しようという馬が1頭もいなかったのである。ロバートザデヴィルは1頭でこの競走を走り、賞金を受け取った。 一方、ベンドアは、4月のシティアンドサバーバンハンデキャップを、重ハンデを背負わされながらも見事な走りで勝った。
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4歳時(1965年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/06 02:40 UTC 版)
「デリングドゥ」の記事における「4歳時(1965年)」の解説
4歳時、デリングドゥは6戦3勝の成績をあげた。サンダウン競馬場のキャヴェンディッシュステークス(Cavendish Stakes)に勝ち、フランスのドーヴィル競馬場のクインシー賞(Prix Quincey)で3着になった(勝馬はホワイトファイア(White Fire))。9月にはグッドウッド競馬場のヴォルドーステークス(10ハロン≒2011メートル)に4対11(1.36倍)の人気で勝った。1か月後、クイーンエリザベス2世ステークスに2度めの挑戦をした。いつものようにブリースリー騎手が乗り、9対4(3.25倍)の人気で、バリシピティク(Ballyciptic)とマイナーポーション(Minor Portion)を退けて優勝した。
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4歳時(1996年)
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「サカモトデュラブ」の記事における「4歳時(1996年)」の解説
シーズン明け初戦となったダート1600m戦のスプリングカップでも惨敗した事から、次走はダート1200mの古馬オープン戦に挑戦し2着、4歳特別の七時雨賞で1秒差の圧勝。トパーズカップで初めて1600m戦で1着となったが、その他のレースでは惨敗と極端な成績が続いた。
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4歳時(1971年)
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古馬になったディクタスは、春初戦のエヴリ賞(G3、1600メートル)でファラウェイサン(Faraway Sun)をクビ差おさえて1分36秒5のレコードタイムで勝ち、グループレース初勝利を挙げた。続くガネー賞(G1、2100メートル)ではカロの前に9着に敗れ、次走モーリスドラクソン賞でも4着に終わった。
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4歳時 (1981年)
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デトロワは現役を続けた翌1981年の春は苦戦を強いられ、凱旋門賞2着後にワシントンDCインターナショナルに優勝したアーギュメントに4月のオカール賞4着、5月のガネー賞5着と連敗した。その後、4ヶ月近く休養し、8月末にクレールフォンテーヌ競馬場のマイナーレースであるアロマンシェ賞(2200m)で復帰して勝利すると、わずか4日後にはドーヴィルのリッジウェイ賞(2000m)にも勝って、9月には凱旋門賞のプレップレースのひとつであるロンシャンのG3フォワ賞(2400m)に挑んだ。タイムフォーム誌によると、このときのデトロワはコンディションは上がっているものの、脚に問題を抱えてバンテージをしているのではないかと心配されていた。レースではスローペースで流れるなか直線で早めに加速して、2着のLancastrianに2馬身差、3着のゴールドリヴァーを抑えて勝利した。しかしながら、勢いに乗って連覇を狙う凱旋門賞に2番人気で出走したものの、好位から直線では馬群に沈み、13番人気の低評価を覆したゴールドリヴァーを後目に二桁着順で大敗した。その後、初めて渡米しアケダクトのターフクラシックに出走するもその年のヴェルメイユ賞に勝ち、前走の凱旋門賞でも3着と好走したエイプリルラン(April Run)の5着に敗れて、引退した。
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4歳時(2018年)
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「エアウィンザー」の記事における「4歳時(2018年)」の解説
2018年は1月7日の準オープン1600万下の寿ステークスから始動、レースは先に動いたトリオンフを捕まえることができず2着に終わる。その後はしばらく間の置いたのち、5月東京競馬場のむらさき賞、9月阪神競馬場の西宮ステークスと1600万下のレースを連勝し、10月28日京都競馬場のオープン特別カシオペアステークスも2着グリュイエールに2馬身差をつける快勝で3連勝を達成。共同通信杯以来の重賞出走となった12月1日のチャレンジカップは、1番人気こそ日本ダービー馬レイデオロの弟レイエンダに譲ったものの、レースでは5番手から進出して最後の直線で後続を突き放し、2着マウントゴールドに3馬身差をつけて4連勝で重賞初制覇を果たした。2018年はこれで走り納めとなり放牧に出され、2019年は春に大阪杯を目標とするローテーションが組まれることとなった。 3歳時とは一変したレースぶりについて陣営では気を抜く場面が解消されたことを理由に挙げ、同じく3歳時の秋から騎乗して重賞タイトルももたらしたミルコ・デムーロも同じく気を抜く面が解消されたことを挙げ、それに加え体格がしっかりしてきたことを挙げた。
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4歳時(2012/2013年)
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「バラエティクラブ」の記事における「4歳時(2012/2013年)」の解説
4歳になったバラエティクラブは、グリーンポイントステークス(Green Point Stakes)を勝ち、1月のケニルワース競馬場で行われるクイーンズプレートを本命馬として迎えた。ドローン(Drawn)という馬が発馬機に入るのを嫌がって発走が遅れたうえに、スタートのやり直しがあった。なんとかレースが始まると、バラエティクラブはすぐに先頭に立ち、そのまま2馬身1/4差で逃げ切った。2着にはジャクソン(Jackson)が入り、短頭差でポモドーロ(Pomodoro)が3着だった。 このあと休養をはさんで、5月にグレイヴィル競馬場(en:Greyville Racecourse)のピナクルステークス(Pinnacle Stakes)に勝った。6月のライジングサンゴールドチャレンジでは、スタートから逃げ、牝馬のビーチビューティ(Beach Beauty)を1馬身差で振り切って優勝、2012年からの連勝を8に伸ばした。この競走のあと、マーカス騎手は「バラエティクラブは、僕が意図したよりハイペースで飛ばしてしまった。だけど、相手がもっと強ければ、この馬はもっと走るよ」と言った。 南アフリカでの競馬シーズンが終わると、2014年の外国遠征に向けて出発した。まずモーリシャスで検疫を受け、それからイギリスへ向かった。 感染症のアフリカ馬疫の恐れがあったため、検疫期間は長期間に及んだ。
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4歳時(2016年)
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4歳初戦のリステッドレースは3着に敗れたが、次走のムーアズブリッジステークス(G3)を勝利した。これ以降のファウンドは、タタソールズゴールドカップ(G1)ではファシネイティングロック(Fascinating Rock)から3馬身3/4差、コロネーションカップ(G1)ではポストポンドから4馬身半差、プリンスオブウェールズステークス(G1)ではマイドリームボート(My Dream Boat)からクビ差、ヨークシャーオークス(G1)ではセヴンスヘヴン(Seventh Heaven)から2馬身3/4差、アイリッシュチャンピオンステークス(G1)ではアルマンゾルから3/4馬身差でそれぞれ2着に敗れている。 5戦連続で2着が続いたファウンドの次走は凱旋門賞(G1)であった。レースでは中団の内側を追走し、直線に入ると同じエイダン・オブライエン厩舎の2頭である2着ハイランドリールと3着オーダーオブセントジョージ(Order of St George)の追撃を退けて勝利した。A.オブライエン調教師はレース後、「私たちはずっとこのレースを目標にしてきた。ライアンは彼女が2歳の時から凱旋門賞を勝てると言っていたが、彼は正しかった」とコメントした。 2週間後、チャンピオンステークス(G1)に出走するも、直線はアルマンゾルとの差が詰まらず2着に敗れた。ラストランはブリーダーズカップ・クラシック(G1)を予定していたが、数日前にブリーダーズカップ・ターフ(G1)への出走へと変更した。2番人気で出走したが、逃げたハイランドリールと先に抜け出したフリントシャー(Flintshire)を交わせず、勝ったハイランドリールから4馬身差の3着で競走生活を終えた。 この年の活躍を受けて、カルティエ賞最優秀古馬に選出されている。
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4歳時(1990年)
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「メジロマックイーン」の記事における「4歳時(1990年)」の解説
1990年2月、阪神の新馬戦(ダート1700m)でデビュー。当日は2番人気に支持され、道中2番手でレースを進めて直線入り口で先頭に立つと、2着のハギノレジェンドに1馬身強の差をつけて初勝利を挙げた。なお、3着以下には10馬身以上の大差を付けた。池江が東京優駿(日本ダービー)を視野に入れたというほどの楽勝だったが、その後は骨膜炎が完治しなかったこともあり、この後ゆきやなぎ賞、あやめ賞を2戦続けて惜敗を喫する。これを受け陣営は秋の菊花賞に目標を切り替え、マックイーンは休養に出された。 9月に復帰して緒戦の渡島特別を2着としたあと、2週間後の木古内特別(500万下条件戦)で2勝目を挙げると、翌週も連闘で大沼ステークスに出走し、連勝する。目標としていた菊花賞出走には、京都新聞杯5着以内となればたやすく実現するが、池江は、兄のメジロデュレンが菊花賞優勝前に出走した嵐山ステークスをあえて選択、このレースは勝利する計算で送り込んだ。直前の調教では、東京優駿(日本ダービー)では2着で、京都新聞杯に出走予定のメジロライアンとともに、2頭で併せ馬を行った。併せ馬を軽々とこなした姿に、池江は菊花賞制覇の自信を持つようになっていた。 しかし騎乗していた内田浩一は油断し、先行したにもかかわらず、直線でしばらく進路を見つけることができずにいた。残り100メートルでようやく外に持ち出したものの、2着に敗れた。このミスに内田は、池江ら陣営に顔向けすることができないと思い、レース後引き揚げてくる際に、誤って落馬して救急車で搬送されたいと考えていた。出走賞金の加算に失敗し、賞金不足で菊花賞への出走が危ぶまれたが、賞金上位の馬が調教後に回避したため、出走が可能になった。前走の敗戦は内田のミスにより乗り替わりも検討されたが、池江がオーナーの北野ミヤに内田の続投をお願いするなどもあり、北野の取り計らいで、引き続き内田での臨戦となった。 重賞初出走の条件馬であったが、長距離向きと見られる血統的な特長と、前走の追い切りで当日1番人気のメジロライアンに先着するなど調子の良さが考慮され、4番人気に支持された。スタートから先行すると、仮柵が取り払われて馬場の良い内側を通り、最終コーナーで先頭に並びかけた。単枠指定の人気馬メジロライアン、ホワイトストーンを寄せ付けずゴールまで押し切り、2着ホワイトストーンに1馬身4分の1差をつけ優勝した。1番人気のライアンは3着。重馬場での競走ながら、優勝タイム3分6秒2は菊花賞史上3位(当時)の走破タイムだった。 この後は食欲不振に陥って調整の遅れが乱れたこと、「有馬記念はライアンに獲らせたい」という馬主の意向もあり、年末の有馬記念を回避、休養に入った。
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4歳時(1985年)
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「ミホシンザン」の記事における「4歳時(1985年)」の解説
初戦は中山開催の新馬戦で、鞍上には堤と親交の深い柴田政人を迎えた。デビュー戦は2着に9馬身差を付けて勝利した。次走の条件戦では一転、後方待機から最終コーナーで一気に位置を上げ、直線で先行馬を一気に差し切り2連勝を挙げた。重賞初出走となったスプリングステークスでは、前年に柴田が騎乗して朝日杯3歳ステークスを制したスクラムダイナとかち合ったが、同馬を管理する矢野進の配慮により、柴田は引き続きミホシンザンに騎乗した。レースでは最終コーナー入り口で先頭のサザンフィーバーが故障を発生、人馬共に転倒するアクシデントがあった。しかしミホシンザンはこの影響を被ることなく、スクラムダイナに2馬身弱の差を付けて勝利した。 迎える皐月賞で不動の本命と目されたが、当日までに右前脚に再度骨膜炎の症状が表れ、状態は芳しくなかった。競走4日前の調教においては、柴田は状態を考慮して直線コース以外は流す程度の動きに留めた。しかしこの日は霧が深かかったため記者席からは直線しか見えず、翌日の新聞には「豪快な動き」と書き立てられた。当日は圧倒的な1番人気に支持されるも、パドックでは転倒を防ぐために意図的に大きく周回させるなど、陣営は状態の悪さを隠すことに苦心していた。しかしレースでは第3コーナー手前で先頭に並び掛けると、そのままゴールまで押し切り、2着スクラムダイナに5馬身差を付け優勝、父シンザンとの父子制覇を達成した。 しかし右脚を庇いながら走った結果、競走翌日に左前脚の骨折が判明、続く東京優駿(日本ダービー)の断念を余儀なくされた。前々年はトウショウボーイの仔ミスターシービーが、前年には『皇帝』シンボリルドルフが三冠を達成していたため、「3年連続で三冠馬の誕生か」と期待されたが夢に終わった。なお、当年のダービーはミホシンザンが苦手とする重馬場で行われ、また勝ったシリウスシンボリが重馬場得意の馬であったため、「出ていても勝てなかった」とする見方が根強くある。 骨折は極めて軽度のものであり、休養中も軽い調教は続けられた。9月に美浦に帰厩、29日のセントライト記念で復帰した。当日は単枠指定を受けたが、苦手の不良馬場に手間取って5着に敗れ、初の敗北を喫した。次走は菊花賞に備えて関西に移動、トライアル競走の京都新聞杯に出走すると、2着に2馬身差を付けて勝利した。 迎えたクラシック最終戦の菊花賞では、日本ダービー優勝馬シリウスシンボリがヨーロッパ遠征のため不在で、圧倒的な1番人気に支持された。当日は昼まで降雨があったが、発走時刻までに強風と日射しで馬場の水分が飛び、馬場状態は稍重まで回復していた。レースでは中団に控えると、周回2周目の最終コーナーからスパートを掛け、直線半ばで先頭に立ってそのままゴール、クラシック二冠と、皐月賞に続くシンザンとの父子制覇を達成した。前走の京都新聞杯も含め、父の地元であった京都競馬場での勝利に、ミホシンザンは関東所属馬でありながら大きな拍手で迎えられた。競走後の記念撮影にはシンザンを管理した武田文吾も収まっている。 年末の有馬記念では、1歳上のシンボリルドルフと対戦。両馬とも単枠指定となった。最終コーナーで一旦は並び掛けたが直線で突き放され、同馬から4馬身差の2着に敗れた。 翌年1月、クラシック二冠が評価され、当年の最優秀4歳牡馬と最優秀父内国産馬に選出された。
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4歳時(2014年)
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「ウィルテイクチャージ」の記事における「4歳時(2014年)」の解説
ウィルテイクチャージの2014年の始動はガルフストリームパーク競馬場のドンハンデキャップ(2月9日・ダート9ハロン・G1)から始まり、その先はサンタアニタハンデキャップ(3月8日・サンタアニタパーク・ダート10ハロン・G1)が予定として組まれていた。ドバイワールドカップ(3月29日・メイダン・オールウェザー2,000メートル・G1)という選択肢もあったものの、ホートンの意向によりサンタアニタに向かうことにしたという。ウィルテイクチャージは出走馬11頭中のトップハンデ123ポンドを課され、当日の単勝オッズは1番人気2.50倍と絶大な支持を受けていた。レースはスタートからアンキャプチャード(Uncaptured)とリー(Lea)の2頭が先頭を争う展開で、ウィルテイクチャージは先行集団の後ろ6番手でコースの内側を走っていた。バックストレッチからコーナーにかけて、ウィルテイクチャージは馬体を外に持ち出して先行集団を追い抜きにかかったが、この先行集団の壁が広く、このため大きく外を回らされることになる。それでも直線の入口では2番手まで押し上げたものの、前に残っていたリーを捕らえることはできず、リーがトラックレコード優勝を決めたその1馬身半あとに2着で入線した。 3月8日に迎えたサンタアニタハンデキャップには、サンシャインミリオンズクラシックを圧勝してきたムーチョマッチョマンと、2011年・2013年に続く3度目のサンタアニタ制覇が懸かったゲームオンデュードも登録されており、さながら三強対決の様相を呈していた。ハンデキャップはムーチョマッチョマンが124ポンド、ウィルテイクチャージが123ポンド、ゲームオンデュードが122ポンドで、馬券人気もまたその順に並んでいた。発走とともに先手を切ったのはヒアザゴースト(Hear the Ghost)だったが、ゲームオンデュードはすぐさま先頭を奪い取り、2番手に1馬身近くの差をあけて進む一方、ムーチョマッチョマンは3番手、ウィルテイクチャージはその後ろ4番手に位置してレース中盤まで進めていった。バックストレッチの後半、2番手だったヒアザゴーストが沈み始めると、ムーチョマッチョマンとウィルテイクチャージはゲームオンデュードとの差を埋めるように前へと持ち出し、最終コーナーでウィルテイクチャージはムーチョマッチョマンを抜いて2番手に立った。そして最後の直線で先頭をゆくゲームオンデュードを追い上げたが、その差は縮まらず、結果ゲームオンデュードの優勝から1馬身3/4差離されての2着に敗れた。ムーチョマッチョマンはウィルテイクチャージからさらに9馬身近く離された4着に入っている。 その後ウィルテイクチャージはルーカスの地元であるオークローンパーク競馬場に戻り、4月12日のオークローンハンデキャップ(ダート9ハロン・G2)に出走、トップハンデ123ポンドを積みながらも、単勝1.40倍の圧倒的人気に支持された。6頭立てで行われたこの競走で、ウィルテイクチャージは最後方6番手からの競馬となり、レースの中盤過ぎに第3コーナーを大きく回りながら進出していった。このとき、直線入口で前に向き直ったところでウィルテイクチャージは内側に大きくよれて、隣にいたゴールデンラッド(Golden Lad)にもたれかかってしまう。体勢を整えながら前に進むも、再び内側によれ続けて、他馬の進路を防ぎながらゴールに1位入線した。しかし、ぶつかったゴールデンラッド(5着・ゲイリー・スティーヴンス)、および進路を塞がれたレヴォリューショナリー(Revolutionary・2着・マイク・スミス)の騎手両名はウィルテイクチャージに妨害を受けたと抗議し、このため審議が行われる。そして長時間の審議の結果、最終的に着順通りの裁定が下され、ウィルテイクチャージの同年初勝利が確定した。 5月2日、ウィルテイクチャージはチャーチルダウンズ競馬場のアリシーバステークス(ダート8.5ハロン・G2)に出走した。この競走では乗り替わりでゲイリー・スティーヴンスを鞍上に載せ、8頭立てのなか単勝オッズ1.60倍という断然人気に推されていた。スタートから内側6番手の好位置につけたが、後にスティーヴンスが「最初は内側でよかったんだけど、帰りのコーナーのときには自分も馬もうれしい状況になかった」と語るよう、前と外側に壁を作られてどちらにも持ち出せないまま終始展開が続いてしまい、結果最後の直線でも伸びずに6着と大敗した。 続くスティーブンフォスターハンデキャップ(6月14日・チャーチルダウンズ・ダート9ハロン・G1)でもスティーヴンスが引き続き鞍上を務めたが、この競走では前走とは逆にスタートでもたついて、先頭から10馬身近く離された後方8番手からの競馬となった。一方で道中は「バックストレッチでは気楽に進められた、コーナーを大きく回って戻ってくるとき、彼は楽しそうだった」と後に語る様子で、最終コーナーを回って4番手にまで上昇、そこから追い上げを図った。しかし、先頭に立っていたムーンシャインマーリン(Moonshine Mullin)を捕らえるには至らず、1馬身3/4差の2着に敗れた。 8月2日のホイットニー招待ハンデキャップ(サラトガ・ダート9ハロン・G1)ではパレスマリスとの久々の対戦で、ハンデキャップの上ではウィルテイクチャージは同等(124ポンド)であったが、馬券人気では目下4連勝中だったパレスマリスが圧倒的な人気を占めていた。久々にサエスを鞍上に迎えて出走したウィルテイクチャージは、スタートから最初のコーナーにかけて外目に持ち出していつもの後方待機を維持、モレノが先頭に立って馬群を引っ張るなか、少し離れた7番手でレースを進めていった。第3コーナーからいつものように大きく外をまくり上げていったが、内側に5頭ほどいたなかで持ち出したロスは大きく、モレノが逃げ切り勝ちを収める中で4馬身1/4離れた3着に敗れている。モレノの調教師であるギロットは、因縁の相手だったウィルテイクチャージを降したことに喜び、「トラヴァーズのときに感じていた自信をまた感じることができた。私の言いたいことがわかりますね?」と皮肉混じりのコメントを残している。 その後、9月27日のジョッキークラブゴールドカップ(ベルモントパーク・ダート10ハロン・G1)を目指して調整が行われていたが、9月21日に繋靭帯を痛めたことを理由に引退が宣言された。
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4(5)歳時(2002年)
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「ビリーヴ (競走馬)」の記事における「4(5)歳時(2002年)」の解説
4歳となったビリーヴは初戦の山城ステークスを2着、続く武庫川ステークスと船橋ステークスをともに3着とし、淀屋橋ステークスに出走する。このレースでは当時園田競馬に所属していた岩田康誠が鞍上を務めて勝利を収める。その後は福永が鞍上に戻り重賞初挑戦となった京王杯スプリングカップが3着、テレビ愛知オープンが7着と連敗を喫したものの、佐世保ステークスと岩田が鞍上を務めた北九州特別を連勝、セントウルステークスにおいて、1番人気に支持されると好位から直線で抜け出し、2着のパイアンに4馬身差をつけて重賞初制覇、従来のレコードタイムを0秒5縮める1分7秒1を記録して優勝した。 9月29日、東京競馬場の改修に伴いひと開催分新潟競馬場での開催に振り返られて行われたスプリンターズステークスに出走。新潟遠征の予定がなかった岩田の代役として武豊が鞍上を務め、当日の新潟競馬場には武の登場も相まって入場者数は3万4000人を超え、売り上げは新潟競馬場の新記録となる228億円余りの売り上げを記録した。当日1番人気に支持されると、レースでは好スタートを切って道中3番手につけて最後の直線に入る。しかし、直線の半ばで前を行くショウナンカンプとアドマイヤコジーンの2頭がビリーヴの前に立ちふさがり、さらにアドマイヤコジーン鞍上の後藤浩輝が右鞭を連打したことでアドマイヤコジーンが内側によれてビリーヴが抜け出そうとした隙間がなくなる。しかし、武がコースの最内にビリーヴを誘導し、残り100メートル地点でショウナンカンプがわずかに遅れ、伸びを欠くアドマイヤコジーンを捉えて抜け出し、同馬を1/2馬身凌いで優勝した。 牝馬による牡牝混合GI優勝は1997年の天皇賞(秋)を優勝したエアグルーヴ以来となり、また8月に亡くなっていたサンデーサイレンスにとっても産駒初の短距離GI優勝となった。レース後のウイニングランでは「ユタカ・コール」が起き、レース後に武は「狭いところでしたが、怯まず馬込みに入ってくれました。本当に大した馬です。今日は馬を褒めてやってください。僕は普通に乗ってきただけですから」と語った。松元はこれが平地GI初勝利であり、レース後にはともに馬を見出した前田幸治の前で涙を流した。 スプリンターズステークス後は香港国際競走の香港スプリントに挑戦したが、体調維持が上手くいかず、スプリンターズステークス時に478kgあった馬体重が458kgに細化した状態で出走し、14頭立ての12着に敗れて当年を終えた。
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4歳時(2001年)
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「レジェンドハンター」の記事における「4歳時(2001年)」の解説
2月の東海クラウンより始動し勝利。続く黒船賞では2番人気に支持され結果は3着であったが、東海桜花賞で1番人気に応える1着となる。かきつばた記念にも1番人気で出走するが、ブロードアピールら中央勢に届かず3着。ここで昨年のスワンステークスぶりに中央の芝レースへの参戦が決まり、テレビ愛知オープンに1番人気で出走。中央所属の重賞勝ち馬も多数出走する中、2着に1馬身差で勝利した。その後の名港盃も勝利、小倉日経オープンでは2着と健闘し、9月の東京盃へ挑んだが7着に沈む。この後、1年間の休養となる。
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4歳時(2005年)
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「ハリーズコメット」の記事における「4歳時(2005年)」の解説
年明け後は、昨年末最後のレースより1ヶ月も経たない2005年1月15日の羅生門ステークス(1600万下条件)に出走し3着。さらに4戦2勝し、6月16日に藤田伸二を鞍上に北海道スプリントカップへ出走。同レースでは1番人気で出走し、2001年のフェブラリーステークス勝ち馬である3番人気のノボトゥルーに2馬身差をつけて快勝した。続く8月15日のクラスターカップも1番人気で出走するが、エンゲルグレーセ、ディバインシルバーの3着となる。だが、ノボトゥルーや全日本2歳優駿勝ち馬のアドマイヤホープらに先着している。このレースを最後に、1年4ヶ月近くの長期休養となる。
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4歳時(2014年)
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「ラキシス (競走馬)」の記事における「4歳時(2014年)」の解説
古馬になったラキシスは、2月の京都記念(G2・2200m)に53キロの斤量で出走し、勝ち馬から0.3秒差の4着になった。3月には中日新聞杯(G3・2000m)で54キロを背負い、マーティンボロとハナ差の2着になった。そのあと、福島県にあるノーザンファーム天栄で休養をしたあと、5月のヴィクトリアマイル(G1・1600m)に出走した。しかし、ラキシスは終始後方のまま、18頭中15着に大敗した。このときラキシスは体重が448キロと、デビュー以来最も減っており、これが敗因の一つと指摘されている。レース後、ラキシスは3ヶ月の休養に入った。 ラキシスの復帰戦は9月末のオールカマー(G2・2200m)になった。通常オールカマーは中山競馬場で行われるが、この年は新潟競馬場で行われたため、苦手な長距離輸送となった。ラキシスは7番人気とあまり注目されていなかったが、放牧明けのため馬体重は前年エリザベス女王杯2着の時と同じ456キロまで回復していた。ラキシスは序盤から3番手で先行し、最終コーナー手前で後続が外から一気に押し寄せたために直線入り口での順位はやや下げたが、直線に入ると勝ち馬と共に進出した。勝ち馬には半馬身離されたが、僅差で6頭が並んだ争いを制して2着を確保した。
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4歳時(2015年)
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4歳初戦はジュリアン・ルパルー騎手と初のコンビを組んで2歳時以来の勝利をあげた。次走のG2も制すと、2度目のG1挑戦となるジャストアゲームステークスでG1初制覇を果たした。続く2戦はともに2着だったが、ファーストレディステークス(G1)を7馬身差で圧勝すると、次走のブリーダーズカップ・マイルも制した。
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4歳時(2014年)
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「ビホルダー (競走馬)」の記事における「4歳時(2014年)」の解説
シーズン初戦となったサンタルチアステークスを5馬身1/4差で圧勝ののち、6月のオグデンフィップスステークスでは4着に敗れる。 ゼニヤッタステークスで連覇を果たした後、ブリーダーズカップ・ディスタフに向けて調整されていたが、熱発により回避し、シーズンを終えている。
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4歳時(1974年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 00:45 UTC 版)
「アレフランス」の記事における「4歳時(1974年)」の解説
1974年、それまで調教を担当していたA・クリムシャ調教師の引退に伴いA・ペンナの厩舎に転厩したアレフランスは競走馬として絶頂期を迎えた。4月に復帰戦のG2アルクール賞を勝つと5月にG1のガネー賞も優勝、6月のG1イスパーン賞では遠く離れた位置から追い込みを決めて優勝した。その後G1キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスに出走する計画が持ち上がったが輸送の不安を理由に断念され、休養に入った。 陣営は秋の目標を凱旋門賞に据えた。9月に前哨戦のG3フォア賞を優勝。1番人気に支持された凱旋門賞では普段より早めに前方へ進出する競馬を見せ、ゴール前400mの地点で先頭に立つとコンテスドロワールの追い上げをアタマ差凌いで優勝した。この時アレフランスに騎乗していたイヴ・サンマルタン騎手は腰の小骨を骨折し、満足に歩くことさえできない状態であったといわれている。この勝利によりアレフランスは「20世紀最強の牝馬の一頭」という評価を得ることになった。ヴィルデンシュタインはこの後前年に引き続きチャンピオンステークスに遠征する計画を立てたが厩舎サイドの反対に遭って断念した。アレフランスは5戦5勝の成績でこの年のシーズンを終え、フランスの年度代表馬に選ばれた。フランスの古馬フリーハンデでは最も高い評価(69キロ)を獲得した。 なお、この年の夏には実現はしなかったものの同世代の牝馬ダリアとのマッチレースが計画された。両馬が直接対決したレースではいずれもアレフランスが勝利を収めていたが、ダリアもキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを連覇しアメリカへ遠征してワシントンDCインターナショナルを優勝するなど複数のG1レースを勝ち、収得賞金の面ではアレフランスを上回る活躍をしていたためである。両馬は1975年にも2度対戦しているが、いずれもアレフランスが先着している。
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4歳時 (2022年)
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「サトノレイナス」の記事における「4歳時 (2022年)」の解説
陣営は、右トモの骨折の療養を続けたものの、回復が見込めないため、同年2月9日付で競走馬登録を抹消した。引退後は生まれ故郷のノーザンファームで繁殖牝馬となる。
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4歳時(1986年)
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「スリップアンカー」の記事における「4歳時(1986年)」の解説
現役を続行していたが、気性が難しくなり、他馬と離して調整を行うなどの対策が取られた。しかし、ジョッキークラブステークス2着のみで引退することとなった。
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4歳時(1970年)
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1970年(4歳)は阪神4歳牝馬特別4着、桜花賞5着と掲示板は確保するも、タマミには歯が立たなかった。 桜花賞からぶっつけでの挑戦となった優勝牝馬は前年にシャダイターキンで制していた森安重勝の手綱となったが、タマミが頭一つ抜けた1番人気に支持され、ジュピックは12番人気の低評価であった。当日は大雨に見舞われ田圃のような馬場で行われ、タマミは大幅な距離延長と不良馬場に逃げを殺され14着に敗退。代わって馬場の悪い直線の内を突いたジュピックが、ケイサンタに5馬身差を付けて優勝。勝ち時計2分40秒6は現在の条件で施行されるようになってからのワースト2であるが、ラップは決してスローペースではなく、上がり3Fが42秒近くかかった壮絶な消耗戦であった。12番人気と10番人気の組み合わせで、枠番連勝は8210円を記録。この時の優勝馬体重390kgは史上最軽量でのクラシック競走勝利ともなったが、翌1971年にカネヒムロが384kgで更新されている。森安は優駿牝馬を連覇し、レース後のコメントで「最内は案外馬場が良かった」と振り返っている。 その後は同年秋の神戸杯2着が最高で、京都牝馬特別はクニノハナの5着でビクトリアカップには出走しなかった。1971年(5歳)は条件戦で凡走を繰り返すなど全く振るわず、結局1勝もすることなく、当時新人の南井克巳が騎乗した10月23日の比叡ステークス(800万下)9着を最後に引退。 ジュピック以来、優駿牝馬の優勝馬はその後1勝も出来ないということが続いていたが、1973年に勝ったナスノチグサが1974年に新潟記念を勝ってそのジンクスを打ち破っている。
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4歳時(1985年)
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3ヶ月の休養後、報知杯4歳牝馬特別(桜花賞トライアル)で復帰。当日は3番人気であったが、逃げ切りで重賞3勝目。勝つには勝ったが、4コーナーで借柵の色に驚いて手前を急に変え外側に斜行、他馬の走行を妨害してしまった。結果騎乗停止処分にはならなかったが、「木藤では桜花賞を勝てない」と桜花賞に騎乗予定のない騎手たちから多数の営業があったが、馬主の小畑に確認をとったところ「木藤でいってくれ」とコンビ継続が決定。次走、4月7日に桜花賞を迎える。木藤はこれがクラシック初騎乗であった。当日は降雨で重馬場となったが、レースではハイペースで逃げると、最後は追い込んだロイヤルコスマーを半馬身退けてクラシック制覇を果たした。エルプスと木藤に加え、管理する久恒久夫にとっても競馬界に入って36年目で初のクラシック勝利であり、久恒はインタビューで「やっと夢が叶いました」と涙を見せた。木藤、久恒ともに、これが騎手・調教師生活を通じて唯一のGI優勝となった。なお、木藤以降、関東所属騎手の桜花賞制覇は2010年の蛯名正義まで現れなかった。 続いて牝馬二冠を目指した優駿牝馬(オークス)では2番人気に支持されたがフケが来ており状態面で万全でなかった上、22番枠という外枠で逃げを打つことができず、また2400mという距離も不適で15着と大敗。競走後には福島県いわき市の競走馬総合研究所で温泉療養に入った。 秋はエリザベス女王杯を目標に、古馬相手となる京王杯オータムハンデキャップから始動。当時の1600mの日本レコードに0.1秒差と迫る、1分33秒0というタイムで勝利する。次走のローズステークスでは前年12月以来の1番人気に支持されたが、ゴール前でタケノハナミに差され2着。初めて逃げながらの敗戦を喫した。3番人気で迎えたエリザベス女王杯では距離不適から直線で失速し、リワードウイングの11着に終わった。その後、ジャパンカップ出走を目指して調教されていたが、出走馬に選出されず、その後の調教で脚部不安を生じる。以後温泉療養を続けたが復帰態勢が整わず、そのまま競走生活から退いた。休養中、優駿賞最優秀4歳牝馬を受賞している。
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4歳時(1993年)
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「ノースフライト」の記事における「4歳時(1993年)」の解説
5月1日、西園正都を鞍上に新潟開催の未出走戦でデビュー。当日は1番人気に推されると、2着に9馬身差を付けて初戦勝利を挙げた。約3カ月後の足立山特別(500万下条件戦)では武豊が手綱を執り、ここも8馬身差で圧勝。2戦の内容に「(春の牝馬二冠を制した)ベガの三冠を阻む馬」との声も上がり、同馬の主戦騎手を務める武も「キャリア1戦の上に休養明けでこれだけのレースができるんだから、能力が違う」「秋にはベガのライバルになるかも」と評した。 しかし牝馬三冠最終戦のエリザベス女王杯を見据えて出走した秋分特別(900万下条件戦)では、調整過程で発熱や蕁麻疹を生じ順調でなかったことや、競走当日に発情を起こしたこともあり、生涯最低の5着と敗れた。エリザベス女王杯出走に向けて獲得賞金加算の必要があったことから、10月16日には2クラスの格上挑戦となる重賞の府中牝馬ステークスに出走。角田晃一を背に当日4番人気の支持を受けると、好位追走から直線で余裕をもって抜けだし、キャリア4戦目での重賞初勝利を挙げた。これでエリザベス女王杯の有力馬となったが、勝った3戦はいずれも1600メートル近辺の距離で、唯一の敗戦は2000メートルでのものだったことから、エリザベス女王杯の2400メートルという距離を不安視する見方もあった。 11月14日のエリザベス女王杯では、距離不安もあり5番人気の評価だった。レースでは中団追走から最後の直線で一時先頭に立ったが、直後に9番人気のホクトベガに内側からかわされ、同馬に1馬身半差の2着と敗れた。騎乗した角田は「抜け出したときは勝てると思ったんですが、ホクトベガはノーマークでした」と語った。年末には武豊騎乗で阪神牝馬特別を制し、重賞2勝目を挙げてシーズンを終えた。
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4歳時(1946年)
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「シャモセール」の記事における「4歳時(1946年)」の解説
古馬になってゴールドカップを目指したが、結局出走しないまま引退することになった。
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4歳時(1854年)
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「レキシントン (競走馬)」の記事における「4歳時(1854年)」の解説
4月1日、レキシントンはルイジアナ州ニューオーリンズ(当時アメリカ競馬の中心地であった)における最大のレースとされるグレートステートポストステークス(4マイルのヒート競走)に勝った(1回目と2回目のヒートを連勝)。この後、シンジケート内部でレキシントンの今後の出走計画について意見の相違があり、テン・ブルークは5000ドルでシンジケートから所有権を買い取ることになった。1週間後にジョッキークラブパース(4マイルのヒート競走)に出走したが、グレートステートポストステークスで破ったルコント (Le Comte、またはLecomte) の前に1回目と2回目のヒートでともに2着に敗れた。その後ブルークはルコントの馬主ウェルズに再戦を申し込んだが断られ、さらに新聞でマッチレースの相手を募集したが相手が見つからなかった。レキシントンは対戦相手を求めてニューヨークへ移動したが、対戦予定の相手馬主が急死してレースが実現しなかったりしているうちに、調教中に手綱が壊れて逸走し、怪我をしてしまった。結局、2戦1勝でこの年のシーズンを終えた。
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4歳時(1998年)
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「コナゴールド」の記事における「4歳時(1998年)」の解説
コナゴールドのデビューは非常に遅く、4歳になった1998年5月31日が初出走となった。未勝利戦(ハリウッドパーク・6.5ハロン)でデビューして2着であった。続くデルマー競馬場での未勝利戦(7月26日・6.5ハロン)で2着馬に15馬身差をつけての初勝利を手にすると、その次の一般戦(8月15日・デルマー・6ハロン)では7馬身差での連勝、9月5日のオプショナルクレーミング競走(デルマー・6ハロン)でも6馬身半差と圧倒的パフォーマンスで3連勝を遂げた。 10月17日に初のグレード競走としてアンシェントタイトルブリーダーズカップハンデキャップ(G3・サンタアニタパーク・6ハロン)に出走したが5着に敗れたが、続く11月7日のブリーダーズカップ・スプリント(G1・チャーチルダウンズ・6ハロン)では勝ち馬リレイズから2馬身差の3着と健闘した。
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4歳時(1955年)
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「ヘイスティロード」の記事における「4歳時(1955年)」の解説
この年もフロリダから始動したヘイスティロードは、1月にハイアリアパーク競馬場の6ハロン一般戦で123ポンドを積みながらも勝利、続いて同競馬場のエイブラハムリンカーンパース(9ハロン)でも優勝した。2月19日に出走したワイドナーハンデキャップではヘイスティロードは気持ちよく逃げる競馬ができ、鞍上のアダムスも鞭を一切使わずにクビ差で楽勝、3連勝を飾った。しかし、3月16日にハイアリアパークでの調教中に左前肢に異常が見つかり、このため夏まで休養に至った。その後、夏の復帰戦では3着になったのを最後に引退に至った。
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4歳時(2002年)
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「エクストラヒート」の記事における「4歳時(2002年)」の解説
4歳シーズンは年明け1月1日のインターボローハンデキャップ(L・6ハロン)に出走して勝利、続く2月のバーバラフリッチーハンデキャップ(G2・7ハロン)でも勝利を収めた。その後3月に行われたドバイゴールデンシャヒーン(G1・1200メートル)にエクストラヒートは出走、当日は1番人気であったが、コーラーワンに3馬身半差離された3着に敗れた。ゴールデンシャヒーンの後、サルズマンは『the Baltimore Sun』紙のインタビューに「彼女に疲れがあったとは思えない。単純に彼女は牡馬を負かせられないのだ」と語っている。 ドバイからの帰国後は再び牝馬短距離路線に集中し、ジェニュインリスクハンデキャップ(G2・6ハロン)、ヴェイグランシーハンデキャップ(G2・6.5ハロン)と連勝。続くプリンセスルーニーハンデキャップ(G2・6ハロン)こそ半馬身差の2着に取りこぼしたが、その後のストレイトディールブリーダーズカップハンデキャップ(L・6ハロン)、エンダインステークス(G3・6ハロン)、フェニックスブリーダーズカップステークス(L・6ハロン)と3連勝を挙げた。この年もブリーダーズカップ・スプリント(G1・6ハロン)に出走したが、6着に敗れている。 ブリーダーズカップの後、エクストラヒートはファシグ・ティプトンの混合セールに170万ドルの値をつけて上場されたが、この時は買い手はつかなかった。しかし、それから間もなくしてデイヴィッド・プラマーが代表を努めるクラシックスターステーブルとの取引が成立し、エクストラヒートは150万ドルで譲渡された。調教師は引き続きサルズマンが引き受けている。 このあと、12月に行われたガーランドオブローズハンデキャップ(L・6ハロン)で2着に敗れてこの年を終えている。
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4歳時(1965年)
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「ボールドリック」の記事における「4歳時(1965年)」の解説
ボールドリックは4歳になって調子を崩した。2歳の頃の気難しさが再び激しくなり、調教師のいうことを聞かず、まともに調教もできない状態になった。春に2戦したが、エドモンブラン賞(Prix Edmond Blanc)で3着に入るのが精一杯で、現役を退くことになった。
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4歳時(1878年)
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4歳になってもキンチェムの快進撃は止まらなかった。この年はまずウィーンのエレフヌンクスレネンとプラーター公園賞に勝利し、続けてブラチスラヴァのアラームディーユ、ブダペストのアラームディーユ、キシュベル賞、アラームディーユ、再びウィーンに行ってシュタット賞、トライアルステークス、シュタット賞と、オーストリア・ハンガリー帝国で4月から5月にかけての約1ヶ月の間に9連勝をした。そしてキンチェムはこの後、西ヨーロッパ遠征を敢行する。 西ヨーロッパ遠征の初戦はイギリスのグッドウッドカップだった。イギリスでもキンチェムは有名で、ヨハネス・ブラームスのハンガリー舞曲にちなんで「ハンガリーの奇跡」と呼ばれていた。なお、キンチェムにはダービー馬シルヴィオ (Silvio) やオークス馬プラシダ (Placida) とのマッチレースも企画されそうになったが実現はしていない。グッドウッドカップは、ハンプトン (Hampton) やアスコットゴールドカップを勝ったヴェルヌイユ (Verneuil) を初めイギリスの有力馬たちはハンガリー馬に負けるのを恐れ回避してしまっていたため、わずか3頭でレースが行なわれた。キンチェムの他にはこの後ドンカスターカップを勝つことになるページェント (Pageant) などが出走していた。そしてレースはそのページェントが逃げ、キンチェムは控える展開になったが、最後はキンチェムが2馬身差で勝利する。 続いてキンチェムはフランスのドーヴィル大賞典に出走した。1番人気こそプールデッセデプーラン(フランス2000ギニー)を勝っていた地元フランスのフォンテヌブロー (Fontainebleau) だったものの、結局キンチェムが勝利している。 ドーヴィル大賞典に勝利した後、バーデン大賞に出走するためドイツのバーデンバーデンに遠征した。キンチェムは自分が馴染んだものしか口にしなかったことから、キンチェムの遠征時にはいつもタピオセントマルトン牧場の水も持って行かれたが、バーデンバーデンでキンチェムは突然その水を飲まなくなってしまった。その後、キンチェムは3日間も水を飲まないでいたが、ある井戸を見つけると、その井戸に止まって水を飲んだ。この出来事をきっかけとして、その井戸が「キンチェムの井戸」と呼ばれるようになった。 バーデン大賞では、騎手のマイクル・マデンが極端に後ろからの位置取りをしてしまい、プリンスジルス (Prince Giles) という馬と同着だった。マデンはこの時酒に酔ったまま騎乗したといわれている。この後プリンスジルスとの決勝戦が行われたが、突然馬場に野良犬が出てきて終始キンチェムに絡み、その隙に相手のプリンスジルスがキンチェムを突き放していった。しかしキンチェムは犬を蹴飛ばして追い払い、プリンスジルスとの差を縮めて追いつくとあっという間に交わして6馬身差で楽勝した。 遠征を終えたキンチェムはオーストリア・ハンガリー帝国に戻り、ショプロンのアラームディーユとブダペストのリターディーユに勝利、さらに同じくブダペストのカンツァディーユを連覇して1878年を終えた。4歳時は15戦15勝だった。
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4歳時(2014年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/18 15:41 UTC 版)
「フリントシャー (競走馬)」の記事における「4歳時(2014年)」の解説
4歳初戦はコロネーションカップ(G1)であったが、シリュスデゼーグルの2着に敗れた。続くサンクルー大賞(G1)で4着、フォア賞(G2)で2着に敗れると、凱旋門賞(G1)に出走。人気薄ながらも直線では勝ち馬トレヴに2馬身差まで迫り、2着でゴールとなった。 凱旋門賞後はブリーダーズカップ・ターフ(G1)に出走し、メインシークエンス(Main Sequence)に半馬身差及ばず2着に敗れたが、続く香港ヴァーズ(G1)では直線外から追い込んで勝利した。
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4歳時(2018年)
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「レディオーレリア」の記事における「4歳時(2018年)」の解説
4歳初戦は前年同様ジャイアンツコーズウェイステークスに出走し、2着に敗れた。その後、連覇をかけてキングズスタンドステークス(G1)に出走したが見せ場なく7着に終わり、このレースを最後に現役を引退した。
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4歳時(1909年)
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古馬なると当時の大レースの一つであるグレートジュビリーハンデ(1マイル1/4=約2011メートル)を2分2秒3/5でレコード勝ちした。これは従来の記録を3秒短縮するもので、当時の新聞は「尋常ではない」記録だと報じている。この時の3着は半兄のサッコールだった。
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4歳時(1989年)
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「カドージェネルー」の記事における「4歳時(1989年)」の解説
この年、ドゥイエブ調教師がマクトゥームの馬を預かるのを辞めたため、カドージェネルーを含むマクトゥームの競走馬は開業初年度のアレックス・スコットの厩舎に送り込まれた。 4歳シーズンの初戦は3月29日のサンダウンパーク競馬場でのテンプルステークス(G2・5ハロン)で、ここでは断然の1番人気に推されながらも3着に敗れている。また、その次のキングズスタンドステークス(G2・アスコット・5ハロン)ではインディアンリッジが優勝するなか8着と大敗している。 7月13日のニューマーケット競馬場で行われたジュライカップ(G1・6ハロン)の頃には、カドージェネルーの単勝オッズは11倍台とかなり人気を落としていた。レースではポール・エデリー騎乗のもと、再び最後に抜け出す競馬で先頭に立つと、追い上げてきたコロネーションステークス勝ち馬のゴールデンオピニオンをアタマ差退けて優勝、2馬身以上離れて3着に1番人気のデインヒル、さらにハンサムセーラーらを着外に破った。 8月24日、カドージェネルーは去年敗れたウィリアム・ヒルスプリントチャンピオンシップに再挑戦した。パット・エデリー鞍上で単勝オッズ2.1倍の1番人気に支持されたカドージェネルーは、最後の直線で抜け出す競馬でシルバーフィリングに3/4馬身差をつけて優勝、G1競走での連勝を飾った。 その後9月に距離延長となるマイル戦のムーラン・ド・ロンシャン賞(G1・ロンシャン・1600メートル)に挑戦、ポリッシュプレジデントから約2馬身離された3着に敗れてこの年を終えた。
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4歳時(2007年)
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「ディラントーマス」の記事における「4歳時(2007年)」の解説
体勢を立て直した2007年は初戦のリステッド競走・アレッジドステークスで圧倒的な1番人気に応え3馬身差の快勝。続くガネー賞 (G1) でも勝利した。その後はタタソールズゴールドカップ、プリンスオブウェールズステークスで共に2着に敗れたが、イギリスの最高峰の競走であるキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスでは4馬身差の快勝。改めて実力を示した。次走のインターナショナルステークスでは当年のエプソムダービー勝ち馬のオーソライズドに1馬身差届かず2着に敗戦したが、アイリッシュチャンピオンステークスでは史上初の連覇を達成した。 続いて第86回凱旋門賞に出走する。当レースは3歳馬が有利とあって、レース前にはオーソライズド圧倒的に有利と言われていた。そのレースでは、最後の直線で馬群中団から力強く抜け出すが、最後に失速してユームザインに頭差まで詰め寄られるが何とか押し切ってゴール板を駆け抜けた。しかし、斜行したことによりソルジャーオブフォーチュンの進路を妨害し30分近く審議が行われたが、最後は着順通り決まり晴れて優勝が決まった。エイダン・オブライエン調教師に初の凱旋門賞勝利をもたらした。キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスと凱旋門賞の同一年制覇は1995年のラムタラ以来、古馬としては1958年のバリーモス以来のことであった。しかし、同馬が降着にならなかったことに対しては、問題になり、国によって異なる制裁に対して、見直しを求める声も多かった。 次走はブリーダーズカップ・ターフに出走。しかし、イングリッシュチャンネルの5着と敗れた。これを最後に引退を予定されていたが、第27回ジャパンカップの招待を受諾し、11月15日に来日した。来日後は競馬学校で調整が続けられていたが、11月20日に馬ウイルス性動脈炎 (EVA) の陰性が確認できなかったため、日本とアイルランド両国間の衛生条件上の規定により、日本への入国が許可されず、同競走に出走できなくなった。そのため代わりとして香港ヴァーズに急遽出走することとなり、11月26日に香港へ向けて出発した。12月9日に行われた香港ヴァーズでは1番人気に推されたが、レースではやや出遅れて道中後方に待機するも直線での不利もあって全く伸びず、ドクターディーノの7着と大敗した。
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4歳時(1997年)
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「シーキングザパール」の記事における「4歳時(1997年)」の解説
翌1997年、初戦のシンザン記念を3馬身差で勝利。しかし、2月5日に佐々木からシーキングザパールが森秀行厩舎へ転厩することが発表され、シーキングザパールは同日中に森厩舎へ移された。転厩の理由については、植中と佐々木との間で以後のローテーションを巡る対立が起こったことが原因とされている。 当時、外国産馬にはクラシック競走への出走が認められていなかったため、外国産馬にも門戸を開いた前年新設のGI競走・NHKマイルカップ(5月11日)を春の目標に据えた。以後フラワーカップ、ニュージーランドトロフィー4歳ステークスと重賞を連勝。本命馬としてマイルカップに臨んだ。もう1頭の有力候補であった外国産馬スピードワールドが捻挫のため出走を回避し、当日は前年の3歳王者・マイネルマックス等を抑え1番人気の支持を受けた。レースは前半600mを35秒0というスローペースの中、6-7番手を進むと、最後の直線半ばで先頭に立ち、2着ブレーブテンダーに1馬身3/4差を付けて優勝、GI制覇を果たした。競走後、森から秋の目標を牝馬三冠最終戦の秋華賞とし、最終的に香港で行われる香港国際カップを視野に入れていくことが発表された。なお、「左回りの方がいいのではないか」と感じていた武は、陣営に対して9月にアメリカで行われるビヴァリーD・ステークスへの遠征を提案していたが、これは日程的な問題から見送られた。 夏の休養後、8月末に帰厩。秋華賞へ向け、シーキングザパールは桜花賞優勝馬キョウエイマーチ、優駿牝馬(オークス)優勝馬メジロドーベルと共に、4歳牝馬の「三強」に数えられた。秋緒戦はローズステークス(秋華賞トライアル)から始動。キョウエイマーチとの初対戦となり、当日はシーキングザパールが1.4倍で1番人気、キョウエイマーチが3.9倍の2番人気となった。しかしレースではキョウエイマーチが逃げ切りを見せた後方で、シーキングザパールは直線で伸びきれず、3着に終わった。その後も秋華賞に向けて調整されていたが、コンディション検査の際、気管の入口が皺によって塞がれる喉頭蓋エントラップメントの症状が発見されたため、秋華賞を断念。喉の手術が行われたのち休養に入った。植中昌子によれば、当初は原因不明とされていたもののローズステークスの時点ですでに症状が出ており、同競走の残り400メートルは呼吸ができない状態で走っていたのだという。
※この「4歳時(1997年)」の解説は、「シーキングザパール」の解説の一部です。
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4歳時(1938年)
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「ウォーアドミラル」の記事における「4歳時(1938年)」の解説
ウォーアドミラルは4歳シーズンの初戦を2月19日のハイアリアパークでの一般戦(7ハロン)で迎えてこれを勝ち、続いて同競馬場3月5日のワイドナーハンデキャップ(10ハロン)を130ポンド(約59キログラム)の斤量を積まれながらも、2着馬ゼヴスンに2馬身差をつけて快勝した。ゲート難は相変わらずで、ついにはゲートの外から発走させるようになっていた。ウォーアドミラルのハンデキャップがどんどん重くなっていくなか、リドルは負担斤量の上限を130ポンドまでと制限し、ちょうど130ポンドを積ませたハイアリアパークには苦情をつけ、またそれ以上を提示してきた競馬場には出走を断っていた。 前年の何度ものすれ違いのあとも、ウォーアドミラルとシービスケットとの対決の企画は方々で練られており、また両陣営、マスコミやファンも相手を破らないと最強馬を名乗れないと考えていた。同年春頃、ベルモントパーク競馬場はハワードの口利きのもと、賞金総額10万ドルのマッチレースを企画しており、またアーリントンパークも対抗するようにマッチレースをリドルに打診している。結局両陣営はベルモントパークの案に承諾し、5月30日に行われる手筈となった。しかし、直前になってシービスケットが脚部不安を見せたため中止となった。大企画が空転した穴埋めに、ベルモントパーク競馬場はリドルに5月28日のサバーバンハンデキャップ(10ハロン)に出走してほしいと打診すると、リドルは一度承諾したものの、直前になって馬場状態を理由に回避、ファンから批判を浴びた。その批判に反発するかのように、6月6日のクィーンズカウンティハンデキャップ(8ハロン)ではサバーバンで予定されていたものと同じ132ポンドを積んで出走、20ポンド差のスナークを下して連勝を11に伸ばした。 6月29日のマサチューセッツハンデキャップ(サフォークダウンズ 9ハロン)にも両馬は登録していたが、当日はシービスケットが苦手とする雨天で、また競走直前になって脚部不安が再発したため、再び出走を取り消した。ウォーアドミラルもこの日の重馬場に苦戦し、くぼみに躓いて転倒しかけたうえに流血、先行することもできないまま23ポンド軽いメノウに大きく離された4着に敗れ、連勝記録をストップさせた。 久々の敗戦ののち、ウォーアドミラルは夏のサラトガ競馬場に向かった。いずれの競走でも対戦を回避する馬が続出し、競走によっては3頭立てで行われている。ウィルソンステークス(8ハロン)、サラトガハンデキャップ(10ハロン)、ホイットニーハンデキャップ(9ハロン)、サラトガカップ(14ハロン・約2816メートル)と少頭数になった競走を連勝していった。10月1日にはベルモントパークの大一番であるジョッキークラブゴールドカップ(16ハロン・約3218メートル)に出走、2着馬に3馬身差をつけて楽勝した。
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「4歳時(1938年)」を含む「ウォーアドミラル」の記事については、「ウォーアドミラル」の概要を参照ください。
4歳時 (2011年)
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「ワークフォース」の記事における「4歳時 (2011年)」の解説
4歳初戦となったブリガディアジェラードステークスに単勝2.0倍の1番人気で出走、ポエットに1馬身差で勝利した。エクリプスステークスではソーユーシンクの2着、続くキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスではナサニエルの2着に敗れる。その後ぶっつけで連覇のかかった凱旋門賞に出走、後方からレースを進めたが直線で伸びることなく12着という結果に終わった。このレースを最後に引退した。
※この「4歳時 (2011年)」の解説は、「ワークフォース」の解説の一部です。
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4歳時(2019年)
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「モノモイガール」の記事における「4歳時(2019年)」の解説
2019年は1年を通して疝痛や脚の故障に悩まされ、一度もレースに出走することができなかった。
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4歳時(2015年)
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「ストップチャージングマリア」の記事における「4歳時(2015年)」の解説
4歳シーズンの始動は遅く、4月4日にキーンランド競馬場で行われたマディソンステークス(G1・7ハロン)での2着から始まった。5月15日のアレールデュポンディスタフステークス(G3・ピムリコ・9ハロン)で同年の初勝利を挙げると、8月2日のシュヴィーハンデキャップ(G3・サラトガ・9ハロン)では前年の最優秀3歳牝馬のアンタッパブル(英語版)を1馬身差で下して連勝を手にした。この2頭は8月29日のパーソナルエンスンステークス(G1・サラトガ・9ハロン)でも対決したが、勝ったのは3番人気だったデラウェアハンデキャップ勝ち馬のシアードラマで、1番人気だったストップチャージングマリアは4着に敗れている。 10月30日、この年のブリーダーズカップ・ディスタフ(G1・キーンランド・9ハロン)には15頭が揃い、1番人気には3連勝中のウェディングトーストが据えられ、ストップチャージングマリアは4番人気であった。スタートから先行集団につけて進んだストップチャージングマリアは最終コーナーから進出、そして最後の直線で先頭に立つと、追い上げてきたステラーウィンドをクビ差抑えてゴールした。最後の直線でストップチャージングマリアが斜行したため審議となったが、結果到達順位通りと確定され、ストップチャージングマリアが3度目のG1勝利を挙げた。
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4歳時(2018年)
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「サンダースノー」の記事における「4歳時(2018年)」の解説
4歳シーズンは1月のマクトゥームチャレンジラウンド1から始動、UAEダービー以来となるドバイのダート戦でヘヴィメタルの2着に好走し復調をアピールした。2月のマクトゥームチャレンジラウンド2では残り100mでノースアメリカを捉え重賞制覇。しかし3月に行われたマクトゥームチャレンジラウンド3では主戦のスミヨン騎手からオイシン・マーフィー騎手へ乗り替わり挑んだが前走のラウンド2で負かしたノースアメリカを捉えきれず5馬身差の2着に屈した。迎えた本番のドバイワールドカップには前年のトラヴァーズS、ペンシルベニアダービーの覇者で2018年初戦のペガサスワールドカップでガンランナーの2着からの転戦となるウエストコースト、前年の米最優秀ダート古馬牝馬でBCディスタフ含め2017年はG1競走2勝を含む3戦全勝、ここが始動戦となるフォーエバーアンブライドルド、同じゴドルフィンでこちらはアンドレ・ファーブル厩舎所属、前年のBCターフ覇者のタリスマニック、日本からも武豊を背にアウォーディーが参戦して10頭立てながら錚々たるメンバーとなった。レースはスタート直後からウエストコーストと外からサンダースノーが主張し譲らずハナを切る展開に、4コーナーでウエストコーストが競ってくるも先頭を譲らず、直線に入るとあっという間に後続を突き放し、最後は2着のウエストコーストに5馬身つけ圧勝した。この勝利でサイード・ビン・スルール調教師はドバイワールドカップ通算8勝目を挙げ、鞍上のスミヨン騎手にとってもこれがドバイワールドカップ初制覇となった。その後は休養に入り夏のインターナショナルステークスから始動、プリンスオブウェールズSでクラックスマンを破りキングジョージも制したポエッツワード、エクリプスSを勝って挑むロアリングライオンなど出走馬8頭のうち7頭がその年にG1を勝っている近年稀に見るハイレベルな一戦となった。レースはドバイワールドカップの時と同じく先手を主張したが最後の直線で力尽きロアリングライオンに大きく離される最下位に終わった。秋はかねてより計画されていた米国遠征を決行、初戦となったジョッキークラブゴールドカップ2着を挟んで挑んだBCクラシックは直線抜け出したアクセラレートと並ぶところまではいったものの差し切れず、後方から追い込んできたガンナヴェラに僅かに交わされ3着に敗れた。
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4歳時(2020年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:32 UTC 版)
「アンソニーヴァンダイク」の記事における「4歳時(2020年)」の解説
シーズン後半にはオーストラリア遠征を敢行、10月17日にG1コーフィールドカップに出走して2着となった。続いて11月3日、フレミントン競馬場で行われたメルボルンカップに出走。レースでは中段あたりを追走し、最後の直線に入ってから前を捉えにいこうとしたところで故障を発生。左前脚の球節を骨折しており予後不良となった。
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4歳時(2016年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 15:16 UTC 版)
「オーダーオブセントジョージ」の記事における「4歳時(2016年)」の解説
4歳初戦のリステッドレースを勝利した後、ゴールドカップ(G1)に出走。1番人気の支持に応え、直線外から差し切って勝利した。続くアイリッシュセントレジャートライアルステークス(G3)を連覇し、アイリッシュセントレジャー(G1)の連覇も目指して出走したが、ウィックローブレイヴ(Wicklow Brave)を交わせず2着に敗れた。次走の凱旋門賞(G1)は、14ハロン戦を中心に活躍していたことや前走の敗戦が影響して低評価であったが、スタート直後に馬群から一旦離れて先頭集団に加わるという積極策により3着となった。その後、ブリティッシュ・チャンピオンズ・ロングディスタンスカップ(G2)に出走するも4着に敗れた。 また、この年の活躍によりカルティエ賞最優秀ステイヤーに選出されている。
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4歳時(2018年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 22:39 UTC 版)
翌4歳シーズンは当初5月か6月の復帰を目指していたが、5月の調教中にひざを負傷。復帰は9月のセプテンバーステークス(G3、AW11F219Y)にずれこんだ。このレースではこの年のキングジョージ2着馬クリスタルオーシャンに3馬身半の差を付けて圧勝。 そして連覇を目指し出走した凱旋門賞では道中4番手から直線で抜け出し、道中最後方から追い詰めた愛オークス馬シーオブクラスを僅か短首差に抑えて連覇を達成した。凱旋門賞連覇は史上7頭目、牝馬としては3頭目。 その後、アメリカに遠征しブリーダーズカップ・ターフに出走した。レースでは道中6番手から直線先頭に立ち、2着マジカルを3/4馬身差抑え優勝。凱旋門賞からBCターフの同一年連覇は史上初。
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4歳時(1972年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:22 UTC 版)
1972年4月、パリに滞在中だったメロンの要望により、ミルリーフはフランスに遠征しガネー賞に出走し、2着馬に10馬身の着差をつけ優勝した。その後イギリスへ戻り6月にコロネーションカップに出走したがミルリーフの調子は思わしくなく、ホメリックの追い上げをクビ差凌いで優勝した。レース後馬インフルエンザにかかっていたことが判明した。陣営はコロネーションカップの後、エクリプスステークスでブリガディアジェラードと対戦させる予定であったが、一旦引いた熱が再発したため出走を回避した。陣営は目標を凱旋門賞に置いて体勢を立て直すことにしたが8月30日、調教中に左前脚の管骨を骨折。本来であれば予後不良になってもおかしくないほどの重傷であったが、小柄で脚にかかる負担が小さかったことも幸いし、アメリカから獣医師を招いて6時間に及ぶ手術を行った結果一命を取り止めた。その後6週間絶対安静とされながらもこれを乗り切って生還を果たし、普通に歩けるまでには回復したものの、競走馬引退を余儀なくされた。
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4歳時(1972年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 14:20 UTC 版)
「ブリガディアジェラード」の記事における「4歳時(1972年)」の解説
1972年、ブリガディアジェラード陣営は目標をエクリプスステークスに置いた。このレースには前年のヨーロッパ年度代表馬に選出されたミルリーフも出走を表明しており、2000ギニー以来の再戦に注目が集まった。ブリガディアジェラードは5月20日にロッキンジステークス、同月29日にウエストベリーステークス、6月20日にプリンスオブウェールズステークスを勝利し、エクリプスステークスに臨んだ。ミルリーフが馬インフルエンザによる発熱が原因で出走を回避したため注目の対決が実現しなかったこのレースをブリガディアジェラードは追い込みを決めて勝利した。7月22日に出走したキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスはブリガディアジェラードにとって生涯初となる12ハロンのレースであったが1番人気に支持された。レースでは残り2ハロンの地点で先頭に立ってそのままゴールして優勝、デビュー以来の連勝を15に更新した。 8月15日、ブリガディアジェラードはデビュー16連勝のヨーロッパ記録(リボー・オーモンドなどが保持)をかけてベンソン&ヘッジズゴールドカップに出走。1番人気に支持されたが逃げたロベルトを交わすことができず、3馬身差の2着に敗れ、デビュー以来の連勝は15でストップした。 その後ブリガディアジェラードは前年に引き続きクイーンエリザベス2世ステークスに出走し、アスコット競馬場芝1マイルのコースレコードを更新して優勝した。凱旋門賞出走も噂されたが実現はせず、10月14日にチャンピオンステークス連覇を達成したのを最後に競走馬を引退した。この年のブリガディアジェラードの成績は8戦7勝で、イギリスの年度代表馬に選出された。
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4歳時(1992年)
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「ニシノフラワー」の記事における「4歳時(1992年)」の解説
翌1992年、4歳クラシック戦線へ向けてチューリップ賞(桜花賞トライアル)から始動。当日は単勝オッズ1.2倍という圧倒的1番人気に支持された。しかし佐藤が第3コーナーで仕掛けを遅らせた結果、最終コーナーから馬群に包まれて抜け出せない状態となった。アドラーブルが先頭に立ったころに外へ抜け出して追い込んだが、同馬から3馬身半差の2着となり、初の敗戦を喫した。他馬と一緒に進出しなかった理由は「今から脚を使って、ゴール前で差されたらみっともない」というものだった。また後に佐藤は「桜花賞を勝つために一度馬群を経験させようと思ったら、出られなくなってしまった」とも語っている。 競走2日後、自信を喪失した佐藤から松田へ、桜花賞の騎乗を辞退したい旨が要請され、佐藤自身の薦めでニシノフラワーの騎手は河内洋に変更となった。のちに佐藤は「(チューリップ賞は)私のミスです。これは桜花賞に乗るのは荷が重いなと思って、交代を申し出たんです」と内実を語っている。また馬主である西山正行の息子・茂行はインタビューに対し「どうしても心情的には佐藤騎手を乗せてやりたいんだけど、チューリップ賞を見た限り、ちょっと荷が重いということになったんです。(中略)本当は佐藤正雄騎手で勝ちたかったです。佐藤騎手で桜花賞を勝って、一緒に喜びたいというのが大きなテーマでした」と語った。 ただ一方で、茂行が後に語ったところでは、正行は佐藤に対して怒り心頭で、チューリップ賞のレース直後には検量室で正行が「このへたくそ!」と叫びながら佐藤の頭を丸めた競馬新聞で叩いていたという。このためレース直後には既に騎手の乗り替わりの検討が進められていたといい(従って佐藤が騎乗を辞退したのは、正行の本音を察した結果ともいえる)、正行は3歳時に騎乗経験のある田原を推していたが、最終的に調教師の判断を尊重することになった。 4月12日の桜花賞では前走より人気を落としながらも、オッズ2.3倍の1番人気に推された。レースは打って変わった先行策から直線入り口で先頭に並ぶと、アドラーブルに対して、前走から逆転となる3馬身半差を付けて優勝した。乗り替わりの責務を果たし、史上最多記録となる4度目の桜花賞制覇となった河内はのちに「(牝馬三冠を獲得した)メジロラモーヌ以上のプレッシャー」だったと回顧している。 次走には牝馬クラシック二冠を目指して優駿牝馬(オークス)に臨んだ。しかし桜花賞後から急激に食が細り、馬体の維持に時間を割かれ、強い調教ができないままの出走となった。レースでは抑えようとする河内との折り合いも欠き、最後の直線入り口では先頭に立つも、直線半ばで失速して7着と敗れた。 夏の休養を経て体調を戻したが、秋緒戦ローズステークスは4着、11月15日の牝馬三冠最終戦・エリザベス女王杯(当時は3歳牝馬限定戦)も3着と、勝利には至らなかった。桜花賞まで1600メートル以下の距離であったのに対し、オークス以降はいずれも2000メートル以上の距離で連敗した。河内は「距離に限界があった」とし、松田は「典型的なマイラー(1600メートル前後を得意とする馬)だった」としている(各競走距離については成績表を参照)。 12月20日、シーズン最終戦として初の古牡馬混合戦となるスプリンターズステークスに出走。1200メートルという短距離で、マイルチャンピオンシップを連覇していたダイタクヘリオスに次ぐ2番人気に推された。レースでは「古馬と真っ向勝負では分が悪い」という河内の判断から、長所の瞬発力を活かすため後方に控える作戦を採った。最後の直線では大外から先行勢を次々と交わし、ゴール前でヤマニンゼファーを差し切り優勝。GI競走3勝目を挙げた。河内は前年騎乗したダイイチルビーに続く連覇ともなった。 翌年1月に発表されたJRA賞表彰では、最優秀4歳牝馬と最優秀スプリンターの2部門を受賞した。
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4歳時(1967年)
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「フォルリ (競走馬)」の記事における「4歳時(1967年)」の解説
当初、馬主のアゼヴェードはこの英雄を国外には放出しないと言明していたが、カルロスペルグリニ大賞の後にアメリカのクレイボーンファーム総帥であるアーサー・ボイド・ハンコック2世から96万ドルのオファーがあると一転し、フォルリをアメリカに渡らせた。 チャーリー・ウィッティンガム調教師に預けられたフォルリは、アメリカでの初戦として5月16日のハリウッドパーク競馬場で行われたコロナドステークス(芝8.5ハロン)に登録された。鞍上を務めたウィリー・シューメーカー騎手はフォルリに初めて抑える競馬を経験させたが、直線ではしっかり伸びて2着馬アークスロニに3馬身差をつけて勝利、さらに1分41秒20のコースレコードまで樹立した。 その後大競走に向けての調整として、ハリウッドパーク競馬場でのエキシビジョン・パース(ダート8.5ハロン)でもう一走して勝利、続いてアーリントンパーク競馬場でのサイテーションハンデキャップ(芝8.5ハロン)に出走した。レースではフォルリはクワイトアナカウントという馬の後ろ2番手につけて道中を進めていったが、バックストレッチからコーナーに向けて追い上げる際にキャナルとアネッテズアークという馬2頭に強引に外を回られて前に出る機を逸してしまう。最終コーナーでドミナーという馬が抜け出した隙間からようやく抜け出して追い上げたが、そのドミナーを1馬身捕らえきれずに2着、初の敗戦を喫した。 また競走後に跛行を呈しており、検査の結果左前肢の管骨が折れていることが判明、そのまま引退に至った。
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4歳時(1867年)
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「ロードリヨン」の記事における「4歳時(1867年)」の解説
3月にノーサンプトンで開催されたトライアルステークスでは、「これ以上ない簡単さで」モールジーを破って勝利し、120ポンドを獲得した。4月にはニューマーケット競馬場でクレイヴンステークスを勝利し、100ポンドのプレートレースを2勝した。アスコット競馬場で出走した賞金590ポンドのバイエニアルステークスでは140ポンドの斤量ながらワイルドムーアを12馬身差で破って勝利した。ストックブリッジ競馬場のストックブリッジカップでも勝利した。 最後の出走はリンカーン競馬場のクイーンズプレートで、ラマにアタマ差で敗れた。ロードリヨンは1868年に引退して種牡馬入りし、サットンとの共同所有契約は満了し、ピアソンの単独所有に戻った。
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4歳時(1910年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/22 01:11 UTC 版)
「マスケット (1906年生まれの競走馬)」の記事における「4歳時(1910年)」の解説
マスケットは4歳になっても競馬を続けたが、その成績は前年までに比べると劣る内容であった。この年は5月5日のハンデキャップ一般戦(アケダクト・6.5ハロン)で初戦を勝利で飾ったが、その翌戦のメトロポリタンハンデキャップ(ベルモントパーク・8ハロン)では最後の直線で失速して6着、初めて着外に終わった。6月になって出走した牝馬限定のハンデキャップ一般戦(ハバディグレイス・8.5ハロン)では128ポンドを積まれながらも勝利したが、それがマスケットにとって最後の勝利となり、続くシープスヘッドベイハンデキャップ(シープスヘッドベイ・8ハロン)ではキングジェームズを半馬身差捕らえきれずに2着、ラストランとなった8月6日のデラウェアハンデキャップでは終始先頭に絡めずに5着と敗れた。
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4歳時(1895年)
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「ドミノ (競走馬)」の記事における「4歳時(1895年)」の解説
屈腱炎は依然あるものの、陣営は様子を見ながらドミノを今シーズンも現役続行させた。年内初戦はシープスヘッドベイ競馬場の6ハロン一般戦で快勝、サバーバンハンデキャップ(10ハロン・約2011メートル)では4着に敗れた。その3日後には一般ハンデ戦(5.5ハロン・約1105メートル)で1着、さらにコニーアイランドハンデキャップ(6ハロン)、シープスヘッドベイハンデキャップ(6ハロン)と連勝し、この距離帯では未だ無敗を保っていた。しかし、133ポンド(約60.3キログラム)を積まれたフォールハンデキャップ(6ハロン)では、24ポンド(約10.9キログラム)差の3歳牝馬ザバタフライズにアタマ差で敗れ、この距離で唯一の敗北を喫している。 その後、ヘンリーオブナヴァル・レイエルサンタアニタの2頭とで組まれた特別戦(コニーアイランド 8.5ハロン・約1709メートル)では、ヘンリーオブナヴァルにクビ差敗れて2着、シープスヘッドベイでの特別戦(シープスヘッドベイ 10ハロン)では歴々のライバルに先着されて5着に終わった。この競走を最後に、ドミノは競走生活を引退した。生涯獲得賞金は193,650ドルで、これは1920年にマンノウォーに破られるまで賞金レコードとなっていた。 後の1955年、アメリカ競馬名誉の殿堂博物館はその競走成績を称え、殿堂馬として選定した。
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4歳時(1993年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 03:01 UTC 版)
「ナリタタイシン」の記事における「4歳時(1993年)」の解説
4歳を迎え、初戦のシンザン記念ではアンバーライオンの2着に終わった。次戦は東上しての弥生賞。このレースで武豊が初めて騎乗したがウイニングチケットの2着に甘んじた。 迎えたクラシック第1戦の皐月賞ではウイニングチケット、若葉ステークスを勝ったビワハヤヒデに続く3番人気に推された。レースではスローペースの中、1コーナーで最後方、4コーナーでも12番手と後方を位置取りながら、最後の直線で馬群をぬって伸び、ビワハヤヒデをクビ差差し切って優勝した。東京優駿(日本ダービー)でもウイニングチケット、ビワハヤヒデに続く3番人気となったが、レースでは直線で追い込んだものの最内枠がアダとなり、ウイニングチケット、ビワハヤヒデに次ぐ3着に終わった。ダービー後、7月の高松宮杯に出走したが、逃げるロンシャンボーイを捕まえ切れず2着に終わった。 秋初戦は京都新聞杯を予定していたが、1週前の追い切り中に運動誘発性肺出血(EIPH)を発症して出走できず、菊花賞にぶっつけで挑んだが、終始後方のまま17着に終わった。
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4歳時(1976年)
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「テンポイント」の記事における「4歳時(1976年)」の解説
年が明けた1976年、調教師の小川は東京優駿(日本ダービー)に備え早めに東京競馬場のコースを経験させるためにテンポイントを東京競馬場で行われる東京4歳ステークスに出走させ、その後中山競馬場に滞在して皐月賞に臨む計画を立てた。テンポイントの管理や調教は主戦騎手の鹿戸明と厩務員の山田に任されることになった。また、高田は東京4歳ステークスの直前に、5歳になったら海外遠征を行うことを決定し、これについて競馬関係者からもテンポイントの海外遠征を薦める声が多く出た。 1976年の初戦となった東京4歳ステークスでは直線の坂を登った地点で先頭に立ち優勝したが、それまでと異なり2着のクライムカイザーとは半馬身差の接戦となった。続く皐月賞トライアルのスプリングステークスでも優勝したが2着馬とはクビ差の接戦であった。これでテンポイントはクラシックの本命馬と目されるようになったが、この結果を受けて関東の競馬関係者からは「テンポイントは怪物ではない」という声が上がるようになり、スプリングステークスの1週間前に行われたれんげ賞ではトウショウボーイが2着に5馬身差をつけてデビューから3連勝を記録していたため、「これならトウショウボーイのほうが強い」という声も多くなっていった。鹿戸によるとスプリングステークスでのテンポイントは体重を十分に絞り切れておらず、鹿戸と山田は調教の様子を見に来た小川から「背肉がつきすぎでちょっと太いな」と叱責を受けた。 関東では苦戦が続いたものの、5戦5勝という成績でクラシック初戦の皐月賞に臨むことになり、テンポイントとトウショウボーイが初めて顔を合わせるということで「TT決戦」として注目を集めた。しかし、厩務員の労働組合による春闘の影響でテンポイントの調整に狂いが生じた。この年の春闘はベースアップを巡り労働組合側と日本調教師会が激しく対立し、厩務員側のストライキによって皐月賞施行予定日の4月18日の競馬開催が中止となる可能性が出た。テンポイント陣営はストライキは行われないと予想しレース施行予定日の3日前に強い負荷をかける調教を行ったが、予想に反してストライキが行われ、皐月賞の施行は1週間後25日に順延された。その後組合と調教師会の団体交渉は長期化し、25日の開催も危ぶまれるようになった。陣営は今度は再度順延になると予想した上で24日に強い負荷をかける調教を行ったが、調教を行った数時間後にクラシックだけは開催することで合意が形成され、再び予想が裏目に出る結果となった。これらの調整の狂いによってテンポイントには疲労が蓄積し、苛立ちを見せるようになった。その結果レースでは1番人気に支持されたものの、トウショウボーイに5馬身差をつけられ2着に敗れた。 次走は年初から目標としていた東京優駿となった。テンポイントは2番人気に支持されたものの、レースでは第3コーナーから思うように加速することができず、さらにレース中に落鉄していたことも響いて7着に敗れた。レース後に左前脚の剥離骨折が判明し、治療のため休養に入った。厩務員の山田によると、この時のテンポイントは競走生活においてもっとも体調が悪かったといい、レース前の追い切りでも精彩を欠いていたため、勝つこと自体を「すっかり諦めて、かえって気楽でした」と回顧している。なお、5月9日に主戦騎手の鹿戸明が京都競馬場でのレース中に落馬して骨盤を骨折、全治2か月と診断されて騎乗が不可能となったため、東京優駿では武邦彦が騎乗した。鹿戸がテンポイントに騎乗しなかったのはこのレースだけである。 骨折は程度は軽く7月頃には治り、陣営はクラシック最終戦・菊花賞へ向けて調整を続けたが、復帰初戦には菊花賞トライアルの神戸新聞杯と京都新聞杯ではなく、その前週に開催の古馬との対決となる京都大賞典が選ばれた。テンポイントの調整は小川がレース前に「やっと出走にこぎつけた」とコメントしたように万全ではなく、人気は6番人気と低かったが優勝馬と0.1秒差の3着に健闘した。菊花賞では単枠指定されたトウショウボーイとクライムカイザーに次ぐ3番人気に支持された。このレースで鹿戸はトウショウボーイをマークする形でレースを進め、最後の直線でトウショウボーイを交わして先頭に立った。トウショウボーイは競走前夜の雨により濡れた馬場に苦しんでいたことでそのまま先着したが、テンポイントは外にふくらむ悪癖が出てしまい、そこに内ラチ沿いを伸びてきた12番人気のグリーングラスに交わされ、2馬身半差の2着に終わった。当時グリーングラスの勝利はフロック視されており、グリーングラスが勝利した瞬間の京都競馬場は「大レースが終わると必ず同時に湧き上がる喚声もなく、奇妙な静けさすら漂っていた」が、のちに同馬はTTGの一角を形成する実力馬とみなされるようになった。 菊花賞の後、陣営は有馬記念への出走を決めた。レースでテンポイントは5、6番手を進んだが第3コーナーから第4コーナーにかけて馬群の中で前方へ進出するための進路を失い、一度加速を緩め外へ進路をとった後に再度加速したものの直線で先頭に立ったトウショウボーイとの差は詰まらず、1馬身半差の2着に敗れた。 この年は年度代表馬にトウショウボーイが選出されたが、テンポイントは一つのタイトルも取れないまま当年を終えた。
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4歳時(1964年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:15 UTC 版)
1月にオープンを勝ち、4連勝を達成した。しかし、ここまでのローテーションは一流馬との対戦を避けたものであったため、皐月賞の前にシンザンの実力を測るべく東京競馬場で行われるスプリングステークスに出走した。レース前の調教の動きが良くなかったシンザンは14頭中6番人気、武田も東京競馬場に出向かなかった。レースではかつて武田が対戦を避けたウメノチカラや、弥生賞を勝ったトキノパレードなどを退けて優勝した。 スプリングステークス後、橋元はシンザンを上田清次郎に売却しようと武田に相談したところ「売るんなら俺を殺してからにしろ」と却下した。
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4歳時(2015年)
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「サトノアラジン」の記事における「4歳時(2015年)」の解説
3か月ぶりとなった4歳初戦、武庫川ステークスは2馬身差の2着、春興ステークスを上がり最速で勝利し、昇級戦のモンゴル大統領賞を1馬身3/4差で1着、連勝を飾る。次走エプソムカップは逃げるエイシンヒカリをクビ差捉えられず2着に惜敗。5か月ぶりのレースとなった富士ステークスはダノンプラチナとともに追い込むが再びクビ差の2着となる。次走、マイルチャンピオンシップは0.2秒差の4着。初の海外遠征となった香港カップは11着に敗れる。
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4歳時(2022年)
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「フライトライン」の記事における「4歳時(2022年)」の解説
4歳初戦にはサンカルロスステークス(G2)が予定されていたが、2月の調教後に後肢の飛節を痛めたため回避。当初の予定通り6月のメトロポリタンH(G1)に直行することになった。前年のBCスプリント勝ち馬アロハウエストや国際レート123の強豪スピーカーズコーナーなどが出走したものの本命に推される。レースでは出遅れてしまい逃げられず、逃げるスピーカーズコーナーをマークすることになったが3コーナーから進出すると2着のハッピーセイバーに6馬身差をつけて圧勝した。
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4歳時(2001年)
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「アグネスデジタル」の記事における「4歳時(2001年)」の解説
翌2001年1月、年初の重賞・京都金杯では直線で追い込むもダイタクリーヴァに雪辱を許し3着となる。その後は翌月のダートGI競走・フェブラリーステークスへ向かう予定だったが、右前脚に球節炎を発症し休養を余儀なくされる。5月の京王杯スプリングカップでは2月に的場が現役を引退していたため四位洋文を新たな鞍上に迎えて復帰したものの9着、GI・安田記念では11着と敗れ、競走後に再び休養に入った。 9月、復帰戦のダート交流重賞・日本テレビ盃で勝利を挙げると、10月には盛岡で行われる交流GI・マイルチャンピオンシップ南部杯に臨んだ。前年の最優秀ダートホースであるウイングアロー、当年のフェブラリーステークスを制したノボトゥルーを抑えて1番人気の支持を受けると、最後の直線では地元馬トーホウエンペラーとの競り合いを制して優勝。1984年にグレード制が導入されて以来初となる芝・ダート双方でのGI制覇を果たした。 当初陣営は南部杯のあと連覇の可能性があったマイルチャンピオンシップへ出走させる予定を立てていたが、アグネスデジタルの収得賞金額が天皇賞(秋)への出走要件を満たしていたことから、白井は急遽同競走への出走を決定した。天皇賞は日本中央競馬会の国際化計画に基づき、前年より外国産馬にも2頭の出走枠が設けられたばかりだった。競走1カ月前に天皇賞出走と目されていた外国産馬は、宝塚記念優勝の5歳馬メイショウドトウとNHKマイルカップ優勝の3歳馬クロフネであった。2頭のうちクロフネは特に注目を集め、前年春以来、芝の中・長距離戦線ではテイエムオペラオーとメイショウドトウが6度にわたって1、2着を占めており、ファンの間にも倦怠感が漂いつつあるなかで、そうした状況を打破する新勢力として期待されていたのである。しかし、獲得賞金で上回るアグネスデジタルの出走によりクロフネは天皇賞から除外され、一部ファンからはアグネスデジタル陣営に対して「どうせ勝てないくせに、クロフネの邪魔をするな」という旨の非難の声も上がった。クロフネの管理調教師の松田国英はこの時の心境について「『まさか』が正直な気持ちだった」と振り返っていたが、この時点でクロフネの翌年の予定にダートGI競走・フェブラリーステークスが入っていたことから、これを機会に一度ダートを走らせようと天皇賞前日に行われるGIII・武蔵野ステークスに出走することになった。 当日、アグネスデジタルは4番人気に支持されたが、オッズは上位で一桁台のテイエムオペラオー、メイショウドトウ、ステイゴールドからは大きく離れた20倍であった。午前中の降雨により馬場状態は重馬場となり、前座の各競走では馬場の内側を通った馬が伸びあぐねる様子が続いていた。白井は四位に対して「馬場の良いところを走らせるように」、「4コーナーを回ったら、観客席に向かって走れ」という指示を与えた。スタートが切られると、逃げ馬のサイレントハンターが出遅れ、レースを引っ張る馬がいなくなったことで前半1000メートル通過は62秒2と、重馬場を考慮しても遅いペースとなった。多くの馬がこのペースに焦れて騎手との呼吸を欠いていくなか、10番手前後を進んだアグネスデジタルは落ち着いた状態でレースを運んだ。最後の直線ではメイショウドトウをかわしたテイエムオペラオーが抜け出したが、大外を追い込んだアグネスデジタルがゴール前で一気に差し切り、同馬に1馬身差を付けて優勝を果たした。 外国産馬による天皇賞制覇は、出走可能であった1956年秋に優勝したミツドフアーム以来、45年ぶりの出来事であった。馬主の渡辺はインタビューにおいて「周りから心ないことをいろいろ言われましたが、言った人たちは恥をかいたんじゃないでしょうか」と述べた。他方、このときは未だ「馬場状態や展開の利があった」と、その勝利をフロック視する見方もあった。 この後、陣営は連覇が懸かるマイルチャンピオンシップを飛ばし、12月に香港で行われる香港国際競走のメインレース・香港カップへの出走を選択。当年の香港国際競走には4つのG1競走へ6頭の日本馬が参戦し、香港ヴァーズをステイゴールドが、香港マイルをエイシンプレストンが制した。そして迎えた香港カップにおいてアグネスデジタルはG1競走2勝のトブーグ(UAE)に次ぐ2番人気に支持される。アグネスデジタルは14頭立て12番枠からの発走であったが、シャティン競馬場の2000メートルコースはスタート直後に第1コーナーがあり、四位は内の馬の圧力を受けて外へ振られることを嫌い、発走後すぐにアグネスデジタルを先頭に立たせた。そしてコーナーをスムーズに回ると、道中はトブーグがスローペースで馬群を先導する後方で5番手を進んだ。第3コーナーからペースが上がるのに任せてアグネスデジタルは最終コーナーで再び先頭に立ち、最後の直線では追いすがるトブーグをアタマ差しのいで勝利した。 四位は「最初のコーナーをスムーズに回ったところで、これはいけそうだと思った。勝利を確信したのは、直線で先頭に立ったとき。内から(トブーグ騎乗の)デットーリが差し返してきたことも、外から1頭きてたのもわかったけど、負ける気はしなかった。思ったようなレースができてうれしかった」と感想を述べた。日本馬が勝利を重ねるたびに重圧で顔を強張らせていた白井は「そりゃもうプレッシャーがかかったでぇ」と破顔し、「本当に勝てて良かった。世界のホースマンが見ている前で。世界の基準になる2000メートルのレースを勝ったんだから、これは価値があるでしょう」と述べた。 当年これが最後の出走となったアグネスデジタルは、年度表彰JRA賞において最優秀4歳以上牡馬に選出された。年度代表馬には東京優駿(日本ダービー)とジャパンカップを制した3歳馬ジャングルポケットが選出され、アグネスデジタルは24%の得票率で次点となっている。また、最優秀ダートホースには天皇賞除外によりダート路線を進みジャパンカップダートを制したクロフネが受賞したが、同馬は屈腱炎発症によりこの年限りで引退した。
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4歳時(1958年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 05:28 UTC 版)
「ラウンドテーブル」の記事における「4歳時(1958年)」の解説
1958年、ラウンドテーブルは年明けから5月にかけて7連勝、うち5勝がレコード勝ちという目覚ましい成績を挙げた。その後もアメリカ各地を転戦しダート・芝両方のレースに出走、年間20戦14勝という成績を収め、1958年度の年度代表馬、最優秀ハンデキャップ古馬、最優秀芝コース馬のタイトルを獲得した。さらにこの年の最終戦となったホーソーン金杯を優勝した時点でラウンドテーブルの獲得賞金額は133万6364ドルとなり、ナシュアが記録した128万8565ドルの記録を更新した。
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4歳時(2021年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 04:22 UTC 版)
「トルカータータッソ」の記事における「4歳時(2021年)」の解説
4歳シーズンは6月6日のバーデン経済大賞(G2・ミュールハイム・芝2200メートル)から始動したが、ここでは6着と大敗している。7月3日のハンザ大賞(G2・ハンブルク・芝2400メートル)ではサニークイーンを4馬身半差で破って勝利すると、この競走よりしばらくレネ・ピーチェレク騎手が鞍上を務めた。ヴァイス調教師はこの勝利の後、国内戦をこなしたのちに凱旋門賞に向かうことをコメントした。 8月8日のベルリン大賞では連覇の懸かるなか1番人気に支持されていたが、イギリスからの遠征馬アルピニスタを2馬身半差捕らえきれず2着に敗れている。続く9月5日のバーデン大賞では1番人気に支持され、それに応えるように同年のドイチェスダービー勝ち馬シスファハンを1馬身差で破って優勝した。 10月3日に迎えた凱旋門賞にはアダイヤーやスノーフォール、タルナワなどといった目を引く強豪が揃い、トルカータータッソは現地フランスのトート・オッズでは単勝70倍、イギリスのブックメーカーからは81倍、日本のJRA発売の最終オッズで110.5倍と完全に大穴扱いを受けていた。この競走でまず先頭を取ったのはブルームで、その先頭を上り坂でアダイヤーが奪い、大外から寄せてきたクロノジェネシスがその側面につけて先団を形成した。トルカータータッソは序盤は先団にいたが、先団争いを避けて馬群中団に下がって道中を進めた。最後の直線に入って、中団に構えていたタルナワやハリケーンレーン、同様に外からトルカータータッソも残り200メートルのところで追い上げて先行集団を抜き去り、最後の50メートルで抜けたトルカータータッソが残り2頭に3/4馬身差をつけてゴールした。ドイツ馬の凱旋門賞勝利は3度目で、2011年のデインドリーム以来のものであった。ヴァイス調教師はレース後に「言葉が出ない。本当に信じられなくて言葉に詰まっています。凱旋門賞挑戦のプランは前年冬から考えていたもので、状態も良かったし、G1も勝ってるし、あとは3着なり6着なりに入ってくれれば幸いと思っていました。馬場は我々好みになってくれたし、レース展開もばっちり思い通りでした」と語った。
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4歳時(1992年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 05:13 UTC 版)
これまでマイル戦が主戦場であったクーヨンガは、この年から距離10ハロンの中距離戦まで戦場を広げていった。クーヨンガの4歳シーズンの始動は6月からで、初戦のレパーズタウン競馬場でのグレンシャイアンステークス(L)において1番人気に支持されていたが5着に敗れている。次いで出走したプリンスオブウェールズステークス(G2)では1位入線したが、終盤に右によれてヤングバスター(3位入線)にぶつかったため3着に降着、2位入線のパーペンディキュラーが優勝馬となった。カウンツェはクーヨンガがヤングバスターを妨害したことを認めたが、「彼女は少し不運だった。彼女は明らかにこの日最高の馬だった」と付け加えた。 7月4日、クーヨンガはサンダウン競馬場のエクリプスステークス(G1)に出走した。この競走ではオペラハウス、アルカング、ゾーマン、テリモンなどの強豪が集まるなか、クーヨンガは単勝4.5倍の1番人気に支持されていた。不良馬場のなかスタートしたこの競走で、クーヨンガは道中を抑えて進めていったが、最後の1ハロンでオコナー曰く「彼女の好きなようにさせて」先頭を奪取、1馬身半差で優勝した。オコナーはアスコットでの騎乗が批判され、このため木馬で技術を鍛錬しており、「前2頭を追いかけてはいたが、ゴール前ではまだ少し余裕があった」と語っている。牝馬のエクリプスステークス優勝は1985年のペブルス以来のものであった。 クーヨンガは次にドイツへと遠征、8月のミュンヘン競馬場のバイエルンツフトレネン(G1)に出走、パーペンディキュラーと再戦となった。クーヨンガは先頭につけて1馬身ほどのリードを保って進めると、その差が縮まる前に「快適に」ゴール、2着ザーヒに3/4馬身差をつけて勝利した。3着にはパーペンディキュラーが入っている。その後ヨーク競馬場のインターナショナルステークス(G1)でも人気をとなったが、その走りは非常に悪く、最初からペースが全く上がらず、直線でオコナーによって停止され、最下位に終わった。その後、クーヨンガはレース中にフケ(発情)を迎えていたことが明らかになった。 本来はジャパンカップに出走する予定があったものの、インターナショナルの後のアイリッシュチャンピオンステークス(G1・レパーズタウン)でドクターデヴィアスとセントジョヴァイトに敗れ4着、また10月のレパーズタウンでの一般戦で2着と調子が戻らなかったため予定は白紙となった。
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4歳時(1958年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 05:00 UTC 版)
「ボールドルーラー」の記事における「4歳時(1958年)」の解説
ボールドルーラーの4歳シーズンは足首に異常があったことから遅くなり、5月17日のトボガンハンデキャップ(ベルモントパーク・6ハロン)からであった。133ポンドのトップハンデを課せられたボールドルーラーであったが、それでも16ポンド軽いクレム相手に1分09秒00のタイムで優勝している。以降のボールドルーラーには常に133ポンド以上が課せられる過酷な競馬が続いていったが、フィッツシモンズ調教師は「うちはニューヨークの厩舎だから、どんなに斤量を積まれてもニューヨークで競走したい」と重ハンデにも自信をのぞかせていた。 続くカーターハンデキャップ(ベルモントパーク・7ハロン)では休養明けのギャラントマンとの久々の対戦となり、ギャラントマンが128ポンドの一方、ボールドルーラーには135ポンドが積まれた。それでもボールドルーラーは1分22秒60のタイムで勝ち、2着に22ポンド軽いティックトックという馬、3着にギャラントマンが入った。翌戦のメトロポリタンハンデキャップ(ベルモントパーク・8ハロン)はギャラントマンとの最後の対戦となり、135ポンドを積んだボールドルーラーは、130ポンドのギャラントマンに2馬身離されて2着に敗れた。次走にはローズベンハンデキャップ(7ハロン)が登録されていたが、さらに重い138ポンドが課せられたためこれを回避、その後登録したスタイミーハンデキャップ(9ハロン)に133ポンドを積みながら出走し、21ポンドのハンデ差をつけたアドミラルヴィーという馬を5馬身ちぎって優勝した。続いてのサバーバンハンデキャップ(10ハロン)では同競走歴代3位の斤量134ポンドが課せられ、最後の直線で109ポンドのクレムに猛烈に追い上げられたが、これをハナ差で抑え込んで勝利をもぎ取った。さらにモンマスパーク競馬場で行われたモンマスハンデキャップ(10ハロン)では再び134ポンドが積まれたが、113ポンドのシャープスバーグという馬を3/4馬身差で破って優勝している。 7月26日に行われたブルックリンハンデキャップ(ジャマイカ・9.5ハロン)では、ついに136ポンドが課せられたながらもボールドルーラーは出走した。しかしこの競走ではハンデと距離に苦しみ、直線では力なく走って8頭立ての7着に敗れる惨敗を喫した。さらに、競走後に左前肢の球節を腫らして跛行を呈したため、続行不能とみて競走を引退することになった。 この年の年末、デイリー・レーシング・フォームとモーニング・テレグラフ紙の選ぶ年度代表馬選考において、ボールドルーラーは1958年の最優秀短距離馬に選出された。
※この「4歳時(1958年)」の解説は、「ボールドルーラー」の解説の一部です。
「4歳時(1958年)」を含む「ボールドルーラー」の記事については、「ボールドルーラー」の概要を参照ください。
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