凱旋門賞
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凱旋門賞(がいせんもんしょう、フランス語: Prix de l'Arc de Triomphe)は、フランスのパリロンシャン競馬場(改修工事の際は、シャンティイ競馬場)で毎年10月の第1日曜日に開催される競馬の重賞(G1)競走である。距離は芝2400m。ヨーロッパ最大の競走の一つで、国際的に著名なスポーツの催しである。
注釈
- ^ "The Arc is the race to win in France. Every trainer wants to win it" - BBCスポーツ
- ^ 「国際的にもこの競走の勝馬からは最高の繁殖馬が続出したので、サラブレッドの最高の競走として認知されるに至った」[1]
- ^ 年間レースレーティングは、個々のレースにおける上位4頭のレーティングを年度末のランキング会議で決定した数値に置き換え算出した平均値。なお、牝馬限定競走以外のレースで、対象馬が牝馬の場合はアローワンスが加算される(日本の場合+4ポンド)。
- ^ 一般に、競馬の競走は距離別にスプリント(1200メートル前後)、マイル(1600メートル前後)、中距離(2000メートル前後)、長距離(2400メートル前後)、超長距離(これ以上)の5種類に大別されている。
- ^ "Europe's final big championship race of the season" - BBCスポーツHP
- ^ "one of the biggest races in the European calendar" - レーシングポスト誌HP
- ^ "The decline of the Prix de l'Arc de Triomphe, Europe's greatest race" - CNNスポーツHP
- ^ この距離はヤード・ポンド法では1マイル半(12ハロン)に相当し、英国ダービーをはじめヨーロッパで重要な距離とされてきた。現代の基準では「長距離」に分類され、「クラシック・ディスタンス」や「選手権距離」などとも呼ばれている。
- ^ a b 例外として、1943〜1944年はドイツ軍占領下でロンシャン競馬場の開催が許可されなかったため、ル・トランブレー競馬場の2300メートルで行われた。
- ^ このため、1999年から始まったワールドシリーズ・レーシング・チャンピオンシップに当初は参加できなかったが、2001年、本競走の主催元のフランスギャロや当時のスポンサーであるルシアン・バリエールの訴えにより、加入が認められた。なお、当シリーズは2006年に中止されて以降再開されていない。
- ^ a b 現在のワールド・ベスト・レースホース・ランキングにあたるインターナショナル・クラシフィケーションは当時存在しなかったが、イギリスの専門誌タイムフォームのレイティングで145ポンドを獲得。2012年にフランケル(Frankel)が147ポンドを獲得し、シーバードの記録を更新した。
- ^ インターナショナル・クラシフィケーション(現在のワールド・ベスト・レースホース・ランキング)により、当時の最高評価である141ポンドを与えられた。なお、2013年1月の見直しにより138ポンドに引き下げられ、同時にフランケル(140ポンド)に1位を奪われた。
- ^ イギリス人といっても国籍だけの話で、彼は生まれも育ちもフランスである。名目上の父親はイギリス人だが、実父はフランス人だった。一度もフランスを出ることなく生涯を送った。
- ^ 陸軍の演習で踏み固められるため、晴天では硬すぎ、雨天では泥沼となって、人馬にとって危険であった[8]。
- ^ 1890年以前から春の敗者限定競走として「凱旋門賞」という名前の競走が行われていた。一方、秋のグラディアトゥール賞の開催日には「ナンテール賞」という敗者限定競走があったが、これが春に移動となって、従前の「凱旋門賞」のかわりとなった[9]。
- ^ カムラッドはイギリス産のサラブレッドで、馬主もイギリス人の調教師ピーター・ギルピンが兼ねていたが、2歳のときに所有権の半分をフランス人のエヴルモン・ド・サンタラリが購入している。したがって完全な意味での「外国からの遠征馬」とは言い難い。
- ^ この年のパリ大賞には、英国ダービーを制したスパイオンコップ(英語: Spion Kop)が出走して人気を集めたが、スパイオンコップが各馬のマークを受けている間に、スパイオンコップと同厩馬で人気薄のカムラッドが逃げ切ってしまった[10]。
- ^ イギリスダービー3着のレモノラ(英語: Lemonora)が優勝した。クサールは着外だった。このパリ大賞には欧州を訪問していた皇太子時代の昭和天皇が臨席している[11]。
- ^ マンチェスターノベンバーハンデキャップの優勝馬ポムドテール (Pomme de Terre)。
- ^ ロイヤルハントカップの優勝馬で、倍率は約7倍だった。
- ^ パースは英国ダービー3着馬。馬主はフランス在住のアメリカ人A・キングスリー・マコーマーだった。
- ^ ダービー卿は第1回にセントレジャー勝ち馬キーソー(英語: Keysoe)などを登録したが結局出走させず、6年目には英国ダービー馬サンソヴィーノ(英語: Sansovino)を登録したが凱旋門賞当日の4日前に取り消した。
- ^ 正確には、ブサックはもう1頭、ジョック(Jock)を出走させており、馬券は一人の馬主が複数の競走馬をエントリーした場合はこれをセットで発売(カップル)するため(馬主が八百長をやってわざと有力馬のほうを負けさせ、もう一方の馬券で不正に儲けるのを防ぐためである)、ジェベルとジョックのカップル馬券が1.8倍の1番人気となる。ジョックはジェベルほどではないものの、この年ロンシャンで開かれたドーヴィル大賞など5勝をあげていた。
- ^ ダービー卿の競馬業務責任者であるサンソヴール侯が名義を貸していた[13]。
- ^ 正確には、ルパシャと同厩舎のマシノールがセットで1.8倍、ジェベルと同厩舎のティフィナールがセットで2.8倍。
- ^ たとえば競馬日刊紙のパリ・スポールは、従来のコラムをドイツ語で見出しが書かれた予想欄に変えたのだが、これが原因で戦後に廃刊となった[15]。
- ^ この第1回キングジョージ6世ステークスはスヴレンが勝った。
- ^ 約20万フランの生産者賞を含む。
- ^ 登録料は文字通りレースに登録した馬が支払うもので、これを集めて賞金の一部とするものである。つまり、レースの直前になるまでその総額は確定しない。1949年の場合、最終的な1着賞金は2985万5000フランだった。
- ^ 故障やさまざな理由でこれらの多くは最終的には凱旋門賞には出走できなかった。1949年の凱旋門賞に出走した馬のうち、産地も調教地も外国というのは、結局アイルランドの二冠馬ボーサブルール(Beau Sabreur)とベルギーの二冠牝馬フリネット(Frinette)の2頭にとどまった。
- ^ この晩餐会はマルセル・ブサックによって企画された。イギリスのジムクラックステークスには、優勝馬の所有者が年末に開かれる「ジムクラックディナー」という晩餐会でスピーチをするという伝統があり、ジムクラックステークスを勝ったブサックはこの伝統に感銘を受け、これを模して凱旋門賞前夜に晩餐会を開くことを長年夢見ていたのである[20]。
- ^ オワーズはこの年のイタリアの競走馬のなかでトップクラスにはいたものの、トップではなかった。オワーズのこの年の成績は、デルビーイタリアーノ、イタリア共和国大統領賞、ミラノ大賞、イタリアセントレジャーの全てで2着というものだった。オワーズは現在では、後にヨーロッパを代表する大騎手となるレスター・ピゴットの凱旋門賞デビューの馬として知られている。
- ^ ズクロはレースの2日前にイギリスから飛行機でやってくることになっていたが、空港へ向かう馬運車が交通事故を起こすアクシデントがあった。幸いにしてズクロには大事なく、プリモニションとズクロを載せた飛行機が2時間出発が遅延するだけで済んだ。
- ^ ニーデルレンダーはドイツダービーのほか、ウニオンレンネン、ノルトライン・ヴェストファーレン大賞、バーデン大賞に勝ち、ワシントンDCインターナショナルでも4着に好走していた。
- ^ この年のフランスダービーに勝ったシャマン(英語: Chamant)は「戦後最も凡庸なフランスダービー馬の1頭」[23]とみなされていた。
- ^ ゴール前50メートルでミッドナイトサンがセントクレスピンに体当たりをして妨害していることが確認され、ミッドナイトサンは2着に降着となった。
- ^ この着差は1971年にミルリーフが6馬身差で勝つまで、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスにおける最大の着差だった。
- ^ 登録料を含めた1着賞金は約5000万フランとなった。
- ^ 「ヨーロッパとアメリカの主要な馬主が揃って最高の馬を出走させたのは、この競走の創設以来初めてのことだった」[29]
- ^ 36年後の2001年にサキー(Sakhee)がこれと同じ6馬身を記録した。
- ^ タイムフォーム社によるレイティングは1947年からである。
- ^ 凱旋門賞でニジンスキーに騎乗したのはレスター・ピゴット騎手だった。
- ^ 日本の種牡馬にもこの登録料を納めるものが数頭でた。
- ^ 2015年[40]、2017 - 2019年[41][42][43]、2021年[44]
- ^ "The decline of the Prix de l'Arc de Triomphe, Europe's greatest race" - CNNスポーツHP
- ^ 当時の日本では禁止薬物ではなかったが、後に日本でも禁止薬物になった。詳しくはディープインパクト禁止薬物検出事件参照。
- ^ その年の凱旋門賞出走馬からのジャパンカップ優勝馬としては1995年ランド、1997年ピルサドスキー、2002年ファルブラヴがいる。
- ^ セントクレスピンはインポテンツ、ダンシングブレーヴはマリー病だった。
出典
- ^ a b c フランス競馬百年史、p56
- ^ 凱旋門賞のフルゲートが20頭から24頭に拡大、昨年は3頭が除外スポーツニッポン、2023年5月10日配信・閲覧
- ^ Full Result 3.05 Chantilly (FR) | 2 October 2016 Racing Post 2017年10月4日閲覧
- ^ Full Result 3.05 Chantilly (FR) | 1 October 2017 Racing Post 2017年10月4日閲覧
- ^ 競馬の世界史、p66
- ^ 競馬の世界史、p103
- ^ 凱旋門賞の歴史 第一巻、p9
- ^ 華麗なるフランス競馬、p143
- ^ a b c 凱旋門賞の歴史 第一巻、p17
- ^ a b 凱旋門賞の歴史 第一巻、p21
- ^ “Le Figaro, 27 juin 1921, p. 5/6” (フランス語). retronews.fr. フランス国立図書館. 2023年11月5日閲覧。
- ^ 凱旋門賞の歴史 第一巻、p160
- ^ a b 凱旋門賞の歴史 第一巻、p174
- ^ 凱旋門賞の歴史 第一巻、p192
- ^ フランス競馬百年史、p118
- ^ 凱旋門賞の歴史 第一巻、p218
- ^ 凱旋門賞の歴史 第一巻、p230
- ^ 凱旋門賞の歴史 第一巻、p264
- ^ 凱旋門賞の歴史 第一巻、p262
- ^ 凱旋門賞の歴史 第一巻、p274
- ^ a b 凱旋門賞の歴史 第一巻、p300
- ^ フランス競馬百年史、pp150-151
- ^ 凱旋門賞の歴史 第二巻、p25
- ^ フランス競馬百年史、p158
- ^ 凱旋門賞の歴史 第二巻、p29
- ^ 凱旋門賞の歴史 第二巻、p30
- ^ 凱旋門賞の歴史 第二巻、p72
- ^ 凱旋門賞の歴史 第二巻、p81
- ^ フランス競馬百年史、p200
- ^ 凱旋門賞の歴史 第三巻、p122
- ^ 凱旋門賞の歴史 第三巻、p142
- ^ Oakley, Robin (2021年9月18日). “My Arc de Triomphe tips” (英語). The Spectator. 2023年2月17日閲覧。
- ^ 凱旋門賞の歴史 第三巻、p143
- ^ 凱旋門賞の歴史 第三巻、p205
- ^ a b “凱旋門賞、芝の最高賞金レースへ(フランス)[開催・運営]”. 公益財団法人 ジャパン・スタッドブック・インターナショナル. 2022年4月25日閲覧。
- ^ “凱旋門賞ウィークエンド強化のために賞金額を増加(フランス)[開催・運営]”. ジャパン・スタッドブック・インターナショナル (2012年1月19日). 2012年10月9日閲覧。
- ^ “英国ちゃんぴおんずでー、世界中の高額競馬イベントをライバル視(イギリス)【開催・運営】”. ジャパン・スタッドブック・インターナショナル (2011年11月18日). 2012年10月9日閲覧。
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- ^ “欧州の馬場は本当に重いのか? 先入観を捨てないと、凱旋門賞は見えてこない(平松さとし) - 個人”. Yahoo!ニュース. 2022年4月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月25日閲覧。
- ^ “凱旋門賞の日本馬の敗因は本当に『重い馬場』だったのか?(平松さとし) - 個人”. Yahoo!ニュース. 2022年4月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年4月25日閲覧。
- ^ 『重賞競走一覧 令和5年』日本中央競馬会、137頁。
凱旋門賞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 04:59 UTC 版)
こうしてダイアトムはこの年のフランスの3歳馬としては3番手の評価に甘んじることになったが、秋にはシーバード、ルリアンスともにいないプランスドランジュ賞を2馬身半差で楽勝し、フランスの最大のレースである第44回凱旋門賞に挑むことになった。この年の凱旋門賞には、シーバードとルリアンスの二強が揃って出てきたが、ほかにもアイルランドやソ連からダービー馬が遠征してきたし、アメリカからも最良の3歳馬トムロルフが遠征してきて、凱旋門賞史上、最も層の厚い顔ぶれになった。ダイアトムにはフリーライド(Free Ride)という僚馬がおり、同馬主の馬は一つの馬券とみなされて発売されるのだが、このダイアトムとフリーライドのカップル馬券は、シーバード、リライアンスに次ぐ3番人気で8.5倍だった。 この年のロンシャン競馬場では、前週から雨が降り続いた影響で、コースは重くなって非常にスタミナを要求される馬場になった。トムロルフ、シーバード、ルリアンスらが比較的先行したのに対し、ダイアトムは後ろに控えてレースを進めた。中盤を過ぎて坂を下り始めると、有力馬はこぞって前へ出て行き、ダイアトムも後方から差を詰めた。最後の直線では、大方の予想に反し、シーバードのワンサイドゲームとなった。余裕を持って手綱を緩めたシーバードは、それでも2着のルリアンスに6馬身の差をつけた。ルリアンスから更に5馬身離れた3着にダイアトムが入り、後方から追い込んだフリーライドが短頭差で4着になった。
※この「凱旋門賞」の解説は、「ダイアトム」の解説の一部です。
「凱旋門賞」を含む「ダイアトム」の記事については、「ダイアトム」の概要を参照ください。
凱旋門賞
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2019年10月6日 第98回凱旋門賞(G1)馬場状態:重着順馬名(調教国)性齢騎手斤量タイム着差人気(JRA)1ヴァルトガイスト 牡5 P.ブドー 59.5 2:31.9 9 2エネイブル 牝5 L.デットーリ 58 1馬身3/4 1 3ソットサス 牡3 C.デムーロ 56.5 1馬身3/4 3 7キセキ 牡5 C.スミヨン 59.5 7 12フィエールマン 牡4 C.ルメール 59.5 4 詳細は「第98回凱旋門賞」を参照 凱旋門賞は、イギリスのヴァルトガイストが制した。参戦した3頭の日本調教馬(キセキ、フィエールマン、ブラストワンピース)のうち最先着である7着はキセキ。騎乗したクリストフ・スミヨンは、「とても良いレースでした。ずっとヴァルトガイストの隣を走っていて、3コーナーから4コーナーまで順調でしたが、直線はスピードを上げることができませんでした。パリロンシャンの馬場は特殊で、この粘りの強い馬場はキセキには適していませんでした」と振り返り、管理する角居勝彦調教師は、「残念です。前目での競馬をする作戦だったので、思っていたポジションとは違いました。馬群に入りましたが、それほどは引っ掛かっていなかったように思いますし、この馬場も苦手ではなかったはずですが、やはり日本馬にこの馬場をこなすのは難しいですね。ヴィクトワールピサ以来でしたが、凱旋門賞は世界の名馬、名調教師が集うレースで、この挑戦は楽しかったです。」とコメントした。 12頭中11着に敗れたブラストワンピースから、さらに15馬身離された最下位の12着にフィエールマン。騎乗したクリストフ・ルメールは、「残念です。もっと良い結果を求めましたが、早目にバテてしまいました。馬場が重すぎて走りにくかったので、加速できませんでした。馬のコンディションは良かったのですが、パリロンシャンのコースも難しい。やはりもっと速い馬場が良いです。前に行ったのは作戦ではありませんでしたが、スタートが良かったのであのポジションになりました。それでちょっと引っ掛かってしまった。」と回顧し、管理している手塚貴久調教師は「正攻法の競馬で打ちのめされました。馬場を歩いて、後ろ目での作戦を立てていましたが、思った以上に良いスタートが切れて面食らいました。レース中はそれでも粘ってくれるかと期待しましたが、やはり難しかったです。ニューマーケットからの輸送でしたが、状態は良く落ち着いていたし、レースまでの流れは良かったと思います。馬場の悪さは分かっていたことなので敗因にはできません。凱旋門賞のような最高峰のレースに、しっかりと調整して本番に向かえたのは良い経験になりました。これをどこかで生かしたいし、またリベンジしたいと思います。」とした。 レース後、10月9日にフィエールマンが、翌10日にキセキが成田国際空港にそれぞれ帰国、競馬学校の国際厩舎に入厩し、輸入検疫が行われた。
※この「凱旋門賞」の解説は、「第64回有馬記念」の解説の一部です。
「凱旋門賞」を含む「第64回有馬記念」の記事については、「第64回有馬記念」の概要を参照ください。
凱旋門賞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:02 UTC 版)
「日本調教馬の日本国外への遠征」の記事における「凱旋門賞」の解説
この競走は世界最高峰のレースの一つとして名高く、日本からは1969年にスピードシンボリが挑戦して以来2014年の時点で17頭(19回)という数々の日本を代表する馬が挑戦しているが、未だ優勝した馬はいない。日本馬の最高着順は4度の2着であり(1999年エルコンドルパサー、2010年ナカヤマフェスタ、2012年および2013年オルフェーヴル)、これらは非欧州調教馬の最高着順である。この競走に日本馬が出走した場合、地上波放送でも中継が組まれてきた。 このレースに出走する日本馬は他のレースに比べて格段に実績のあるものが多い。また日本ダービーや宝塚記念、前年の有馬記念などの優勝馬が当レースに出走するという報道には枚挙にいとまがない。 回施行日参戦馬名英語表記性齢騎手名管理調教師着順出典第48回 1969年10月05日 スピードシンボリ Speed Symboli 牡6 野平祐二 野平省三 着外(11着以下) 第51回 1972年10月08日 メジロムサシ Mejiro Musashi 牡5 野平祐二 大久保末吉 18着 第65回 1986年10月05日 シリウスシンボリ Sirius Symboli 牡4 M.フィリッペロン 二本柳俊夫 14着 第78回 1999年10月03日 エルコンドルパサー El Condor Pasa 牡4 蛯名正義 二ノ宮敬宇 2着 第81回 2002年10月06日 マンハッタンカフェ Manhattan Cafe 牡4 蛯名正義 小島太 13着 第83回 2004年10月03日 タップダンスシチー Tap Dance City 牡7 佐藤哲三 佐々木晶三 17着 第85回 2006年10月01日 ディープインパクト Deep Impact 牡4 武豊 池江泰郎 失格(3位入線) 第87回 2008年10月05日 メイショウサムソン Meisho Samson 牡5 武豊 高橋成忠 10着 第89回 2010年10月03日 ナカヤマフェスタ Nakayama Festa 牡4 蛯名正義 二ノ宮敬宇 2着 ヴィクトワールピサ Victoire Pisa 牡3 武豊 角居勝彦 7着(8位入線) 第90回 2011年10月02日 ヒルノダムール Hiruno D'Amour 牡4 藤田伸二 昆貢 10着 ナカヤマフェスタ Nakayama Festa 牡5 蛯名正義 二ノ宮敬宇 11着 第91回 2012年10月07日 オルフェーヴル Orfevre 牡4 C.スミヨン 池江泰寿 2着 アヴェンティーノ Aventino 牡8 A.クラストゥス 池江泰寿 17着 第92回 2013年10月06日 オルフェーヴル Orfevre 牡5 C.スミヨン 池江泰寿 2着 キズナ Kizuna 牡3 武豊 佐々木晶三 4着 第93回 2014年10月05日 ハープスター Harp Star 牝3 川田将雅 松田博資 6着 ジャスタウェイ Just a Way 牡5 福永祐一 須貝尚介 8着 ゴールドシップ Gold Ship 牡5 横山典弘 須貝尚介 14着 第95回 2016年10月02日 マカヒキ Makahiki 牡3 C.ルメール 友道康夫 14着 第96回 2017年10月01日 サトノダイヤモンド Satono Diamond 牡4 C.ルメール 池江泰寿 15着 サトノノブレス Satono Noblesse 牡7 川田将雅 池江泰寿 16着 第97回 2018年10月07日 クリンチャー Clincher 牡4 武豊 宮本博 17着 第98回 2019年10月06日 キセキ Kiseki 牡5 C.スミヨン 角居勝彦 7着 ブラストワンピース Blast Onepiece 牡4 川田将雅 大竹正博 11着 フィエールマン Fierement 牡4 C.ルメール 手塚貴久 12着 第99回 2020年10月04日 ディアドラ Deirdre 牝6 J.スペンサー 橋田満 8着 第100回 2021年10月03日 クロノジェネシス Chrono Genesis 牝5 O.マーフィー 斉藤崇史 7着 ディープボンド Deep Bond 牡4 M.バルザローナ 大久保龍志 14着
※この「凱旋門賞」の解説は、「日本調教馬の日本国外への遠征」の解説の一部です。
「凱旋門賞」を含む「日本調教馬の日本国外への遠征」の記事については、「日本調教馬の日本国外への遠征」の概要を参照ください。
凱旋門賞
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 03:21 UTC 版)
「ニジンスキー (競走馬)」の記事における「凱旋門賞」の解説
10月4日、ニジンスキーはフランスのロンシャン競馬場で行われる凱旋門賞に出走し、単勝オッズ1.4倍の1番人気に支持された。ニジンスキーの状態に対して若干の不安を申し立てる者もいないわけではなかったが、アイルランドでの主戦であるウォード騎手が「もしニジンスキーが負けるようなことがあったら、裸でアイルランドまで歩いて帰ってやるよ」と豪語したように、大多数はニジンスキーが12戦全勝で凱旋門賞を制すると信じて疑わなかった。 オマー・シャリフ、ケヴィン・マクロリー両氏がニジンスキーにいくら賭けるか話し合っている姿も目撃された。その金額から察するに、ふたりはニジンスキーが負ける確率は、自分たちがアポロ計画に参加する確率と同じくらいだとみているようだった。 — 『凱旋門賞の歴史』第三巻p122 より 相手の筆頭は8.5倍のジルで、ニジンスキーとは対照的に、ダービーの後は7月末のサンクルー大賞典を勝って、ゆっくり休みをとって挑んできた。3番人気は9.75倍のイタリア馬オルティスで、イタリア大賞(en)でデシースを5馬身差で破り、更にいくつものレースを圧勝してイタリアでは「第二のリボー」と呼ばれていた。4番人気(20倍)のササフラはフランスだけで走っていた馬で、フランスダービーの優勝馬である。ササフラは仕上がり不足のロワイヤルオーク賞で本命になったが、不利を受けて2位になり、結果的に1位の馬が降着になって繰り上がり優勝したのだが、この印象が悪く、凱旋門賞では人気を落としていた。 レース前のパドックではカメラマンと大観衆に取り囲まれて、ジルが激しく入れ込んで発汗し、何度も後ろ脚を跳ねあげていた。ニジンスキーも同じように発汗して、ダービーやキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスを勝った時ほど状態は良くないように見えた。 スタートすると、有力馬のペースメイカーが飛び出し、ササフラ、オルティスらがこれに続いた。ジルは抑えられていたが、折り合いを欠いていた。ニジンスキーはいつものように後方10番手に控えていた。坂の頂上を過ぎたあたりでオルティスが先頭に立ったが、直線に向くと追走が苦しくなった。ニジンスキーは進出を始めたが、まだ先頭から10馬身後方だった。残り400メートルでササフラが先頭に立ったが、ニジンスキーはようやく外に行き場を見つけたところで、まだ8馬身遅れていた。残り200メートルのところでニジンスキーはようやくいつもの伸び脚を発揮し、他馬を抜いてササフラの後ろまで追い込んできた。ササフラに並んだのは残り100メートルで、あと90メートルの地点でやっと首ひとつだけササフラを抜いて先頭に出た。しかしその直後、ピゴットがニジンスキーに鞭を入れたところ、それまで鞭で叩かれた経験のなかったニジンスキーが驚いて左によれてしまった。残り20メートルでササフラが差し返したところでゴールとなった。写真判定となったが、ニジンスキーはアタマ差の2着に敗れた。馬場状態は理想的な状態ではなかったが、従来のレコードに1秒差に迫る早いタイムでの決着だった。
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