廃止後の状況(新十津川駅 - 石狩沼田間)
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「札沼線」の記事における「廃止後の状況(新十津川駅 - 石狩沼田間)」の解説
新十津川駅 - 石狩沼田駅間は廃線後、線路跡は農地整備等の区画整理によってほとんど痕跡を留めておらず、わずかに一部の駅の周辺に面影を偲ぶのみとなっている。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/02 04:15 UTC 版)
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/02 04:08 UTC 版)
当時のホームは撤去されたが、線路跡とホームの横にあった自転車駐輪場はそのまま残り、廃止後はバス利用者のための自転車駐輪場となっている。またかつての敷地の一部が熊本電気鉄道バス辻久保営業所として使用されている。(画像)
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/02 04:10 UTC 版)
高江駅駐輪場がかつての本線上に設置されている。 駅舎は同社のバス待合室として使われていたが、2002年(平成14年)9月、新築に伴い撤去された。(画像) 駅近くの合志川に旧・菊池線の鉄橋(歩行者橋)が架かっていたが、2012年(平成24年)7月の平成24年7月九州北部豪雨で河川増水し鉄橋が流失した。(画像)
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/12/22 04:25 UTC 版)
当信号所は狭山スキー場の南端に立地していたことから、廃止後間もなく施設の拡張用地として利用された。現在ではユネスコ村駅側の大半がスキー場の建物の下に位置しており、残りの部分もスキー場の管理用道路に転用されて舗装道路と化した。切り通しの地形と遊園地前駅寄りの線路端にあった数本の木がそのまま残されていることによって痕跡を確認できるに過ぎない。 周辺の廃線跡は現路線が北へ向きを変えて西武球場前駅に向かう部分から分岐して道路と並行して出現し、一部は簡易舗装された遊歩道として整備されている。遊歩道は西武ドーム駐車場入口で途切れ、その先の敷地は前述のように狭山スキー場の管理用道路に転用されている。このように比較的痕跡が残されてはいるものの、事前知識がないと廃線跡だとは判別し難い状況にある。一方で当信号所よりユネスコ村駅方の廃線跡については砂利敷の遊歩道として整備されており、痕跡を辿ることは容易な状況である。 なお、遊歩道部分の南側に並行する草むら部分に「工」マークのついた鉄道用地境界標が1本、旧線路側に向けて倒れており、当信号所周辺においては唯一の遺構となっている。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/10/13 03:28 UTC 版)
当時の遠刈田駅所在地は現在「ホテルさんさ亭」の駐車場となっており、既に遺構と言えるものは軌道跡とされる道路、空き地を敷地の周辺に見るほかはない。しかし同ホテルの大浴場入り口にはかつての写真などが飾られ、また街中とホテル敷地を繋ぐ道筋には僅かに駅前通りの構えが残り、それらによって若干ながら往時を偲ぶことが可能となっている。 当社の遠い後身にあたるミヤコーバスが、表蔵王案内所と呼ばれる営業所を遠刈田の集落西辺に設置し、こちらも付近の住民からは親しみを込めて遠刈田駅と呼ばれていた。現在では破却されて更地となっているが、当軌道の駅とは全く違う場所に立てられていた。 当路線が廃止されたのち、幾つかの駅はバスの停留所としてしばらく利用され、その後、円田駅、平沢駅、村田駅などの跡地は何れも農協関係の施設となった。後代に場所の移動があったことなども考慮しなければならないが、現在でも軌道跡を確認する際の目安とすることができる。 平沢地区の駐在所、斜め向かいのある民家敷地内には、当時の平沢駅のプラットホームが一部残存している。これは仙南温泉軌道に関する遺構の中で、現在唯一確認されているものである。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/03 23:36 UTC 版)
一部区間の築堤や東日本旅客鉄道(JR東日本)磐越東線を越える跨線橋(北緯37度03分24秒 東経140度52分26秒 / 北緯37.056678度 東経140.87381度 / 37.056678; 140.87381)の基礎が残る。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/07/14 15:32 UTC 版)
高富線はバスに転換され、高富駅跡は名鉄岐阜自動車営業所と高富バス停となり、バスターミナルとなった。しかし、名鉄岐阜自動車営業所が移転し、高富バス停も移転すると、バスターミナルとしては廃止され、高富大竜寺バス停どまりのバスの回転所となる。 2004年(平成16年)10月1日、名鉄バス高富線が岐阜バスに移管されると、回転所としても廃止されている。 現在は住宅が建っている。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/09 02:10 UTC 版)
前述のとおり、廃線後の跡地は1947年(昭和22年)に開業された芦屋線に転用されている。詳細は芦屋線の項を参照。 終点だった西芦屋駅は芦屋町役場前の新町スポーツ広場付近、隣駅の東芦屋駅は芦屋線の筑前芦屋駅から南側200mほど離れた場所にあったらしい。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/11/23 00:26 UTC 版)
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/12/23 14:01 UTC 版)
複線化工事の際に短期間設置された信号所であり、敷地は複線化用地に転用されたため、現在では痕跡は何も残っていない。
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廃止後の状況(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 05:32 UTC 版)
「札沼線」の記事における「廃止後の状況(北海道医療大学駅 - 新十津川駅間)」の解説
廃止日の2020年5月7日未明に、北海道医療大学駅 - 新十津川駅に設置されていた駅名標が撤去された。また、一部の駅では駅舎に掲げていた駅名板も撤去された。鉄道用地・設備は用地の測量、鉄道施設の調査、撤去に要する費用を確定する作業を行い、JR北海道が財産譲渡について国土交通省の許可を得たのち、土地の無償譲渡が行われる。土地の譲渡には数年間を要する。 新十津川町では無償譲渡が行われ、町が2020年度から3年間かけ、踏切撤去工事などを実施している。 浦臼町では、晩生内駅で大雪により駅舎の柱が折れるなどの事象が発生したため、倒壊の危険があるとして2021年5月末からJR北海道によって解体されることになった。 月形町ではJR北海道により踏切改良工事が行われるほか、無償譲渡後に町が線路などの撤去、用地の形状変更、鉄道用地の現状保存もしくは撤去を進める予定。 跡地については廃線跡の活用をめざす市民団体「レールネット北海道」が、旧美幸線のトロッコ王国美深をモデルとした廃線跡でのトロッコ運行を構想している。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/28 13:28 UTC 版)
駅の跡地は、河渡橋の開通にともなう岐阜県道92号岐阜巣南大野線の拡張工事のため、道路の中に吸収されている。位置の目安は、岐阜バス北方円鏡寺線、美江寺穂積線「南鏡島3丁目」バス停付近である(2007年9月30日までの名称は「鏡島(バイパス)」バス停)。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/02 16:35 UTC 版)
廃止後10年程度は軌道も維持され、ロシア・樺太方面へ輸出される鉄道車両などが留置されていたが、現在では軌道も剥がされている。2005年に歩道が建設された。また舞鶴港近くの用地は、国際コンテナターミナル舞鶴国際埠頭(みずなぎ埠頭)と舞鶴西港を結ぶ臨海道路に使用される予定である。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/02 03:59 UTC 版)
本線・北方線とも、路面上の乗降場については廃止後は完全に撤去され、残存していない。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/02 03:55 UTC 版)
路面上の降車場と乗車場については、廃止後は完全に撤去され、残存していない。 道路西側にあった留置線の跡は駐車場となっている。また、操車所・乗務員待機所の入っていた建物の跡には、西鉄バスの定期券販売・案内所が設けられている。 1985年(昭和60年)10月21日 当停留場廃止に伴い、「東本町二丁目」バス停留所を新設。同日に運行開始した電車代替バス(当時は90番、91番)の大半ならびに、めかり行き(当時は4番)が停車。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/02 03:03 UTC 版)
路面上の乗降場については、廃止後は完全に撤去され、残存していない。 北方車庫は廃止後、代替バスの運行拠点となり、西鉄バス北方自動車営業所が設置されたが、1985年の北九州高速鉄道小倉線開通後はバス運行体制の再編が行われ、北方営業所は廃止となり、跡地はスーパーマーケット「サンク」となった。道路反対側の留置線跡は駐車場となった。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/02 03:03 UTC 版)
路面上の乗降場については、廃止後は完全に撤去され、残存していない。 北方線の代替交通機関として建設された北九州高速鉄道(北九州都市モノレール)小倉線の北方駅は、当停留場跡から北西に約700mほど離れた位置にある。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/02 03:39 UTC 版)
路面上の乗降場については、廃止後は完全に撤去され、残存していない。 北側にあった砂津車庫の跡には複合商業施設チャチャタウン小倉が建設された。 南側にあった北九州営業局社屋などの跡には砂津バスセンターが設置された。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/24 07:45 UTC 版)
現在、駅跡地の半分は香宗川岸本放水路となっていて、駅舎やホームなどの設備は全て撤去されている。跡地には土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線の高架が立ち、東側に香我美駅が設置されている。最寄りバス停は高知東部交通「自衛隊通」。また、高知県道227号山北岸本停車場線にその名を残している。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/29 14:51 UTC 版)
国土地理院に保管されている旧版地図によれば、廃止後、昭和初期までは大蔵線と共に道路になっているが、富野側から小倉の市街地に飲み込まれてしまい、富野 - 足立 - 紫川・南篠崎の大半は消失した。 足立駅の跡地は広大であり、国道3号に沿って北九州市立足立中学校付近から三萩野交差点付近まであったとされている。一部は鉄道官舎、用品庫等が建設されて活用されたが、国鉄分割民営化に際し国鉄関係の施設は移転・撤去されて更地となり、国鉄清算事業団の保有資産となった。数年間は住宅展示場などに賃貸されていたが、その後鉄道・運輸機構から売却され、ポレスターマンションやニトリが建設されている。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/11 06:01 UTC 版)
駅の跡地は、河渡橋への高架区間の南付近であった。名鉄バス→岐阜バス「西鏡島」バス停、およびバスの回転所に利用されていたが、岐阜バスの路線再編成の影響により2008年頃に回転所は廃止され、区画整理により分譲住宅地・商業地になっている。従って、かつての西鏡島駅跡地は現状のバス停以外では名残が残っていない。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 14:57 UTC 版)
路線廃止後、バス路線となっているがバス路線となって以降は前駅河原町駅の後身である河原町停留所から直接丸子町駅(上田丸子電鉄丸子線廃止後はバスターミナル)へ行くルートに変更されたため西丸子停留所は設置されなかった。 駅跡地は現在、上田市丸子消防署の駐車場となり、駅の痕跡は全く見当たらない。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/26 15:44 UTC 版)
ほぼ全線にわたり道路化され、山陽電鉄との交差部付近から旧国鉄高砂線との合流部までは加古川市の遊歩道『松風こみち』として整備された。その際、遊歩道の脇には1970年に加古川市の市の木と決められたクロマツと、同じく1970年に加古川市の市の花と決められたツツジなどが植えられた。また、途中の駅跡は休憩所になっている。 一方、関西圏都市交通研究会は加古川・高砂LRTとして当路線の復活による野口 - 別府 - 土山のLRT敷設を提言している。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/03 23:02 UTC 版)
当駅は孔子公園の交差点の富バス停付近にあったとされているが、現在はホームも全て撤去されている。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/06 04:40 UTC 版)
廃止後、駅跡地及び路線跡は農地改良事業により整理され、田圃ならびに住宅地となって跡形もなくなっている。 路線の廃止後、東塩田と鈴子の2つのバス停留所が設置された。結果的には、当駅は2つの停留所として分割・継承されたことになる。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/06 04:49 UTC 版)
駅跡はホームが残り、待合室は近隣農家が倉庫として活用しているが朽ち果てている。なお、駅廃止後は同名のバス停留所が設置された。 路線が存在していた時代は無集落地帯であった依田駅との区間だが、廃止から20年後に開発が進み、現在は観光農園・工業団地が配置され無集落地帯ではなくなっている。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 10:00 UTC 版)
2021年10月現在 泗水駅舎(待合所)は、以前スーパーマーケット「黒潮市場泗水店」の入居していた建物の屋上駐車場スロープ下の空間に存在・駅名付の改札口は現存していた(画像)が、2021年10月現在施設を取り壊し準備に掛かっている。 泗水駅構内は、泗水町立(現・菊池市立)「孔子公園」となっている。(1998年8月、道の駅泗水内の施設になる。)(画像)孔子公園開設後(ホーム跡に)「モハ102」と「モハ203」は、売店と厨房として使用されていたが撤去され現在は同公園内のステージ広場になっている。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 09:00 UTC 版)
廃止後は道南バスが鉄道代替路線の運行を開始した。また、穂別 - 千歳空港(当時。後に新千歳空港に移行)を結ぶ路線も転換交付金の対象となり、代替路線として開業した。しかしながら、2002年10月に富内・安住 - 日高町間の路線が廃止され元の鉄道路線に沿うルートが分断された。また、2012年10月には穂別 - 富内・安住間も全便予約制(むかわ町運行)となった。振内・日高町方面への路線は国道237号を通り、平取または富川で他路線に接続する形で運行されている。 代替となる路線 鵡川駅前 - 穂別出張所2007年10月1日より、むかわ町営バスが一律200円になったのに合わせ、距離にかかわらず1乗車の最大運賃が200円となっている。 穂別出張所 - 富内・安住(予約制) 新千歳空港 - 穂別出張所(予約制) (苫小牧駅前 - )富川高校前 - 平取 - 振内案内所 - 日高ターミナル 富内駅は駅舎や駅構内のホーム、線路等の施設が保存されており、国の登録有形文化財となっている。また、振内駅跡地には振内鉄道記念館が設置され関係資料が展示されている他、ホームや線路が残っており、D51形蒸気機関車や客車が展示されている。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 17:42 UTC 版)
JR信越本線の春日新田踏切近辺(春日神社境内)に「春日新田駅跡」を示す看板が残る。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/19 06:42 UTC 版)
「北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線」の記事における「廃止後の状況」の解説
旧陸別駅周辺は、「ふるさと銀河線りくべつ鉄道」として約1kmにわたって整備されている。旧川上駅までの9.8kmを整備する予定だったが、維持費の捻出が難しいため当面の間は予定より短距離にとどめられた。ただし、今後延伸する可能性は残しており川上駅までの区間で保線車両を用いた試験運行を実施している。廃止からちょうど2年を迎えた2008年(平成20年)4月20日より営業が開始され、ふるさと銀河線で使用されていた気動車の乗車体験や運転体験をすることができる。 2017年の営業期間は、4月22日から10月29日(火曜日・水曜日は定休日)で、営業日によって来場者の体験できるメニューが異なり、体験メニューによっては予約が必要な場合がある。 代替バスは全線直通は設定されず、陸別を境に帯広 - 池田 - 足寄 - 陸別間が十勝バスに、陸別・置戸・訓子府 - 北見間が北海道北見バスに転換された。十勝バスが足寄 - 陸別間を新設、北海道北見バスが陸別 - 置戸間を新設するとともに、既存路線を増発して対応している。両社が期間限定運行していた特急バス「北見帯広線」(池田町は池田駅を経由せず利別に停車)は代替バス運行開始に伴い廃止されている。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/02 00:45 UTC 版)
農地などに転用されており、廃止から40年以上経過した現在では遺構を見付けるのは非常に難しい状況である。東藻琴 - 山園間のバス路線は2009年(平成21年)4月1日に廃止されている。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/02 14:27 UTC 版)
かつて駅舎は三方を車道に囲まれた三角地に所在していた。このため駅舎周辺の交差点の構造は非常に複雑で、駅舎を中心に計3箇所で信号処理が行われていた。 駅舎撤去後に道路配置が見直され、大規模な改修が行われた。この際、3箇所設けられていた交差点は「市役所前交差点」の1箇所に集約され、ホームに面する形で電車通りと一番堀通りを結んでいた道路は廃止され、国道116号と県道164号とが交差する十字路となり、道路交通の整流化が図られた。 駅舎と道路の跡地は新潟県と新潟市によってポケットパークとして整備され、前述の噴水、公衆トイレ、全長90m・幅2mの水路が設けられた他、かつて駅舎横に設けられていたバス停も移設された。 このポケットパークの公園名称は「一番堀広場」(通称名「白山前駅跡地ポケットパーク」)と命名され、1994年(平成6年)度の「緑のデザイン賞」で建設大臣賞を受賞している。なお管理業務は開園当初は新潟市が、政令市移行後は中央区が行っている。 新潟交通グループの「市役所前」バス停のうち、このポケットパーク横には4箇所の停留所が設けられ、2015年9月4日までは寺尾線、大堀線、流通センター線(現在の小新線)、8号方面線(現在の大野・白根線および味方線)、中央循環線(現在の県庁線および市民病院線)、石山線、牡丹山線、長潟線(東跨線橋経由)の各路線が発着していた。 なお、翌9月5日に実施された新潟交通グループのダイヤ改正に際し、このポケットパーク横の停留所は全て休止扱いとされ、新潟市役所分館横のバスロータリー周辺へ移設された。また寺尾線、大堀線、大野・白根線の一部を除く便と、小新線、味方線の全便は、同日から新潟駅前 - 青山間で運行が開始されたBRT路線「萬代橋ライン」に運行体制が統合されたほか、県庁線と市民病院線をはじめとする昭和大橋・千歳大橋方面の各路線は前掲のバスロータリー発着に、石山線、牡丹山線、長潟線の東跨線橋経由便は万代シテイ・新潟駅万代口発着に、それぞれ変更された。なお萬代橋ラインの新潟駅前 - 市役所前間は、実現に至らなかった軌道線の中心部延伸計画の区間と同一の経路を経由している。
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廃止後の状況
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「三菱石炭鉱業大夕張鉄道線」の記事における「廃止後の状況」の解説
1987年に廃止され、廃止後長期間を経ているため沿線の変化は激しい。国道452号の防災工事や夕張シューパロダムの建設に伴い鉄道の痕跡は消滅しつつある。清水沢駅構外の大夕張炭山駅方にあった転車台跡にはシューパロダム建設に伴い大夕張地区(鹿島)から移転した住民のために集合住宅が建設されている。清水沢・遠幌間にあった葡萄山トンネルも国道の防災工事により消滅した。 遠幌駅舎も既に無く、駅前には北炭遠幌炭鉱の事務所であった建物が残るだけである。遠幌・南大夕張間の遠幌加別川橋梁も橋台・橋脚とも綺麗に撤去されており、遠幌駅の構外側線扱いだった北菱岐線には、石炭積込のポケット(ホッパー)の基礎が残っている。 南大夕張駅跡には三菱大夕張鉄道保存会により客車や石炭貨車などの鉄道車両が保存されている。これらは2001年に「空知の炭鉱関連施設と生活文化」として北海道遺産として指定されたのに加え、2007年11月30日には経済産業省より近代化産業遺産として認定された。 2014年3月4日から夕張シューパロダムの試験湛水開始により南大夕張以北、大夕張(鹿島)地区の廃線跡の大半は水没した。南大夕張以北の廃線跡に並行する国道は2011年12月に新道に切替えられ、旧道はダム工事の専用道路として利用されていたがこれも水没している。以下は水没前の状況である。青葉トンネルはシューパロダム堤体建設に伴い、国道迂回路となり拡幅使用されたが、大夕張ダム管理事務所横には崩落覆いが当時のまま残っていた。シューパロ湖駅跡も階段と土台が残っていたが、明石町駅跡前後には比較的鉄道の痕跡が多く残っていた。清水沢駅方には明石沢(8号)橋梁、大夕張炭山駅方には旭沢 (5号) 橋梁が残り、明石町駅跡にもホームへの連絡地下道の跡が残っていた。 千年町駅以北の廃線跡は水没を免れている。住民が集団移転した大夕張地区(鹿島)にはダム工事のプラントが設けられたが、千年町駅跡の痕跡もない。大夕張駅跡もコンクリートの基礎が確認出来る。大夕張炭山駅跡も背後に残るずり山の存在が、かつてここに炭鉱があったことを伝える。 2020年9月6日には、ダムの水位の低下により地上に姿を現した旭沢橋梁、明石町駅ホーム等の線路跡や大夕張地区の街の跡などを見学するイベントが開催され、約1,600人が訪れた。
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廃止後の状況
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廃線跡はほとんどが生活道路と化している。 今池分岐点 - 飛田電停間 分岐点と堺筋との交差点の専用軌道跡には雑居ビルが建っている。 大阪市道津守阿倍野線 天下茶屋東1丁目交差点から阿倍野交差点までの道路南側に残る架線支柱。 平野線の廃止に伴い、架線を支える支柱としての役目は終えたが、廃止以後も、大阪市西成区玉出東1丁目にある現在の阪堺電気軌道玉出変電所からの電気を阪堺線を経由し、上町線に送る送電線の架線支柱としての役目を担うことになった。その際、支柱番号は、上町線の饋電線を意味する「上 キ」となっている。 阿倍野交差点北東側にある架線支柱 平野線の廃止に伴い、上町線と平野線とを連絡する渡り線の架線を支える支柱としての役目を終え、長らく上町線の東側送電線のみの架線支柱となっていたが、都市計画道路長柄堺線の拡幅工事に伴う上町線の線路移設に伴い上町線の架線を支える支柱として再び本来の役目に復帰した。 阿倍野区阪南町1丁目にある阿倍野苗代田郵便局。 1944年(昭和19年)6月1日に開局した当時、平野線の苗代田駅前にあったことから「苗代田」が局名となり、平野線の廃止後も、郵便局名の変更もなく今日に至っている。 文ノ里駅跡の記念碑 現在の阪神高速14号松原線の高架下、そして地下鉄谷町線文の里駅の7号出入口付近にあった平野線の文ノ里駅跡の前に平野線の歴史や駅の沿革を記した駅名版を模した記念碑が建っている。これは、廃止後地元の文ノ里商店連合会から南海電気鉄道に、長年親しんできた文ノ里駅の跡を偲ぶモニュメントをとの要望を受け、同社が1981年(昭和56年)3月に建立したものである。 東住吉区針中野3丁目に残る石の道標 刻まれている文字は「はりみち」と「でんしやのりば」。前者は江戸・元禄年間から今も続き、「針中野」の地名の由来ともなった「中野小児鍼」を指す。一方、後者の「でんしやのりば」は、道標の建立日が大正3年(1913年)4月とあることから、この月に開通した南海鉄道平野線中野駅であることは明らかである(なお、この近くを走る近鉄南大阪線針中野駅が開業したのは、大正12年のこと)。建立者名は「新吉」とあり、当時の中野小児鍼の院長である。 平野区背戸口5丁目にある「背戸口公園」 西平野駅跡に作られた公園で、公園内に設置されているレリーフには、阪堺線と上町線への直通運転区間を含めた当時の路線図とモ205型電車が描かれているほか、公園内の地面は線路をイメージした模様となっている。 西平野 - 平野間 この区間は背戸口公園(前述)とプロムナード平野(後述)に挟まれた形で廃線跡に住宅数件とカラオケBOX「ビッグエコー」が建っている。現在この区間の中間ぐらいの位置に国道479号線が交差しているが、その国道は平野線廃止後に整備された道路である。 平野区平野本町1丁目にある「プロムナード平野」 終着駅であった平野駅、および平野運輸区の建物跡と、その手前数百メートルの線路跡地を活用し、当時としてはモダンな八角形の屋根が特徴だった旧駅舎を模したベンチ、晩年、上町線と阪堺線とのワンマン化に伴い平野線専用として走っていたモ205形電車のレリーフ、信号機、レンガ敷きのレール、それに当時、平野駅で実際に使われていた車止めレールや駅ホームの骨組を利用した藤棚などがある。 元々の計画では、平野駅の駅舎やホームが保存される予定であったため、モ205型240号車もホームに留置されていたが、のちに駅舎とともに解体され、現在のように整地されるに至った。これがきっかけとなって平野のまちづくり運動が生まれた。 平野区平野本町1丁目にある「平野南海商店街」 終着駅であった平野駅に面していることからこの名が付けられ、廃止後も商店街名の変更もなく今日に至っている。
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廃止後の状況
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勝野駅は筑豊本線が電化された際に直方側に少し移動し、宮田線専用だったホームは取り崩されている。 勝野駅から分岐する地点までは用地が残っており、駐車場になっている部分があるものの、ほとんど荒れ地の状態である。しかし、河川にかかる橋梁(ガーター橋)はレール以外は残っている。 交差する道路をはさんで、レールはやはり撤去されているものの、路盤はずっと残っている。 霧ヶ浦踏切跡となる県道461号線との交差点から、再度県道461号線と交差し、三たび県道461号線と交差する地点までは道路化され、その一部は県道98号線となっている。この道路化により、磯光駅はその痕跡もなくなり、その位置を示すものもない。 その交差点から筑前宮田駅までの路盤のほとんどや鉄橋はそのまま残っている。筑前宮田駅跡は広大な空き地の片隅に長大なホームが残っており、付近にあるロータリーと「桐野駅通り」の看板も、この地に駅があったことを物語っている。 磯光駅から分岐した菅牟田駅までの貨物専用線も全線道路化され、菅牟田駅もその痕跡は残っていない。
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廃止後の状況
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旧熱塩駅は「日中線記念館」となっている。鉄道廃線後は会津乗合自動車(会津バス)が「千石沢(日中)線」として、喜多方駅前 - 日中線記念館前 - 千石沢で1日6往復運行していた。会津バスの既存並行路線を拡充する形で代替バスの運行を開始し、転換交付金を利用して新車の投入、増便、バス待合所の新築が行われた。同路線は利用客の減少により2008年(平成20年)12月1日からは全便が日曜・祝日運休となり、2012年(平成24年)9月29日の運行をもって全線廃止となった。代替バス廃止後は喜多方市が運営するデマンドタクシーが運行されている。 駅舎の荒廃ぶりが話題に上ることもあったが、廃止3年後の1987年から旧・熱塩駅が整備の上、記念館として保存されている。また廃線跡は、旧喜多方市内ではサイクリングロード「日中線記念自転車歩行者道」として整備されており、喜多方駅から会津村松駅間の約3kmは4月中旬から4月下旬に約1000本のしだれ桜が咲き誇る福島県内有数の桜の名所となっている。 元来の本路線の予定区間である米沢駅と喜多方駅を結ぶ区間は国道121号の大峠道路として整備されたが、路線バスの運行も振るわなかった。2010年代には広田タクシーが春から秋の週末・休日限定で予約制の「マスコットくん」を米沢駅から会津若松駅まで運行していたが、2014年限りで運行を廃止した。
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廃止後の状況
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常呂駅跡の北見共立駅跡寄り - 大曲仮乗降場跡間の線路跡の大半が、サイクリングロードとして活用されている(北海道道1087号網走常呂自転車道線)。その他の区間は、路盤跡や橋桁が面影を残す程度となっている。駅跡は当時の駅舎はほとんど残っておらず、一部でバスターミナルとして建て替えられている。中湧別駅、計呂地駅、佐呂間駅、卯原内駅には車両が静態保存されている。
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廃止後の状況
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廃止後、2016年(平成28年)6月7日から9日にかけて重機でホームが解体された。以降、解体整備完了後引き続き旧駅前整備が始まり、8月24日には駅舎が松浦牧場に譲渡された。 駅舎跡(2018年9月) ホーム跡(2018年9月)
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廃止後の状況
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富山駅 - 奥田駅間の線路の設備は廃止後に撤去され、船溜駅周辺の運河沿いの廃線跡は富岩運河環水公園として整備されるなどして旧状を留めていない。ただし、当駅西側において操業中の工場内においてはわずかに線路が残存しているという。 船溜駅跡(富岩運河環水公園) 富岩運河西岸の工業地帯(富山市木場町) 2007年(平成19年)4月29日撮影の当駅周辺航空写真
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廃止後の状況
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飯塚駅よりしばらくは筑豊本線沿いに上山田線の線路敷跡が草叢して残っている。 筑豊本線の分岐点付近から上山田駅を経て山田川の手前までの廃線跡はほぼ道路となっている。平恒駅跡は道路沿いにホーム跡が残る。臼井駅跡はホーム跡が残っていたが、現在は一部を残して埋められている。大隈駅跡は鉄道公園として腕木式信号などが保存され、往時を偲ばせている。嘉穂信号場跡は近年まで深い藪の中にその建物や廃線跡が残っていたが、並走する福岡県道443号下山田碓井線の拡張工事に伴い建物は取り壊された。建物跡付近から一部路盤が残るが前述の県道と交差する付近からは埋め立てられ、再び県道の一部となる。信号場と下山田駅との間にあった新原トンネルは撤去、開削されているがトンネル跡を示す案内板があり、道路向かいのバス停留所に現役時代の貴重な写真が掲示されている。下山田駅付近は近隣団地の緑地となり、駅跡を示すものはない。上山田駅跡には1999年3月まで西鉄バス(嘉穂交通)の山田支社(車体標記は○山)が置かれていたが、現在は山田生涯学習館・図書館となっており、庭の中に踏切遮断警報機と上山田駅跡を示す説明板が設置されている。 上山田駅以東は廃線跡がよく残っている。熊ヶ畑駅付近では橋梁やレールが残され、1996年から山田市(現在は嘉麻市)主催で線路の保守作業に使われていた軌道自転車で上山田線跡を走る「トロッコフェスタ」が毎年秋に開催されている。熊ヶ畑駅そのものは駅舎も解体され、駅跡を示すものはない。 熊ヶ畑駅から、嘉麻市と川崎町の境にある熊ヶ畑トンネルまでは道路を横断する部分を除いてレールが残っていたが、2004年にこのトンネル内のレールが約1.7kmに亘って盗まれていることが判明し、同年11月19日に被害届が出された。翌2005年2月に2人組の容疑者が捕まっている。この事件をはじめ、トンネルの壁への落書きやトンネル内へのゴミの不法投棄もあったため、現在このトンネル内の線路は撤去され、両方の入り口が柵で封鎖されている。 熊ヶ畑トンネルから真崎駅までは2007年夏に「雪舟ロード」と呼ばれる道路建設工事が完了し、遊歩道及び自転車道として使用されている。 真崎駅跡地は「あまぎふれあい広場・鉄道記念公園」として整備されている。真崎駅 - 東川崎駅 - 豊前川崎駅までは道路になっている。東川崎駅跡には、「国鉄上山田線東川崎駅跡」の石碑が建っている。
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廃止後の状況
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登川支線の軌道跡の内、紅葉山から楓-登川地区境界までの殆どが国道274号(三川国道)に利用されている。2代目楓駅のホーム紅葉山側端へ連絡していた通路は、拡張されて国道への道に置き換わっている。そして代替となる石勝線上の3代目楓駅(現:楓信号場)は登川方面へ1kmほど進んだ登川支線(現:三川国道)の南側に設置された。
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廃止後の状況
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下鴨生駅から鴨生駅、漆生駅、稲築駅を経て、才田駅の手前までは道路になっている。鴨生駅跡、漆生駅跡はそれぞれ公園として整備されている。鴨生駅跡公園には踏切や信号機などが保存され、また漆生駅跡公園には公園の壁面に当時の写真が数枚掲示されており、往時を偲ばせている。稲築駅跡は団地やスロープになっている。 才田駅跡は待合席とホームが残っている。そこから上山田線との分岐点となる嘉穂信号場までは深い藪の中となるが、橋梁やレールはほとんど残っている。 嘉穂信号場から下山田駅までは「上山田線」の項を参照。
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廃止後の状況
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藻別川やその支流、道路を跨ぐ橋台や橋桁が残っており、このうち五号坑橋は鉱山水送水施設として現在も活用されている。路盤の一部は道路やゴルフ場通路に転用されている。 宝橋橋桁 五号坑橋
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廃止後の状況
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廃止後の状況
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宇佐参宮線の全線廃止とともに鉄道駅としての役目を終えた後は、現在に至るまで大交北部バス(旧・大分交通)のバスターミナルとして使用されている。駅舎やホームの上屋は当駅当時のものが改修されて用いられており、旧駅舎は待合室、旧ホーム部分は乗客通路および乗り場、旧線路部分はバス通路となっている。また、バスターミナルから伸びる商店街には、現在も駅通り商店街の名が残っている。
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廃止後の状況
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社員配置のバスターミナル「松本電鉄バス浅間温泉営業所」として機能していた。普通乗車券は松本バスターミナルまでのみ発売、他は定期券、回数券を発売していた。自動券売機は新紙幣導入による機種更新ができないために撤去された。2009年、松本電鉄バス浅間温泉営業所は閉鎖され、浅間温泉バス停とバス回転場所のみとなる。2010年6月には営業所建物・回転場所などバスターミナル施設が撤去され、跡地は宅地として分譲された。その後は「浅間温泉」バス停のみとなっている。
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廃止後の状況
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当信号場廃止後、ポイントおよび旧上り線が撤去された。旧上り線跡には、御嶽駅 - 古里駅間の上り・下り双方の第1閉塞信号機が設置されている。
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廃止後の状況
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線路以外の施設はすべて撤去されている。残された線路も順次撤去されているという。
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廃止後の状況
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当駅廃止後も、現在に至るまで石垣造りのプラットホームが残存しており、駅跡を示す碑も建てられている。
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廃止後の状況
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今金駅跡地には、「オランダ通り」という公園が建設された。また付近にJR北海道直営の今金トラベルセンターが設置されたが、2000年頃に廃止された。 北檜山駅は、旧駅舎をそのまま生かして函館バス北檜山ターミナルとなった。 花石駅 - 北住吉駅間の線路跡には、国道230号のバイパスが建設された。 廃止後の鉄道代替バスは、函館バスが瀬棚線として、国・北海道・沿線3町(今金町・長万部町・せたな町)の補助金を受け、上三本杉 - 長万部バスターミナル間を運行している。通学路線としての色合いを強めており、土日祭日・学休日運休の区間便が設定されている。2011年4月現在、全線通しでは7往復が設定され、これとは別に鉄道時代から一部のルートを変更した快速「瀬棚号」1往復(北海道道263号八雲今金線経由)が函館バスセンターまで乗り入れている。この他、通学客向けの区間便として、今金(または今金小学校前) - 桧山北高校前、桧山北高校前 - 北桧山ターミナル発着が設定されている。 長万部町民センター内の鉄道村(長万部駅より徒歩10分程度)に、当線の史料が展示されている。
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廃止後の状況
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付近の廃線跡はそのまま舗装して道路に転換されており、駅跡は広場状になって地元の集会施設が建設されている。
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廃止後の状況
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附近の線路跡はサイクリングロードとして整備されているが、駅跡は残っていない。
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廃止後の状況
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廃止後の状況
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ほとんどが畑・道路になっている。ごくわずかに橋脚が残る。 なお、本鉄道で使用された協三工業製ディーゼル機関車の内1両は、本鉄道の廃止後1964年(昭和39年)4月に北見営林局津別営林署から長野営林局上松運輸営林署へ移管され、No.141として1975年(昭和50年)5月30日の王滝森林鉄道廃止まで在籍した。 その後は同年12月をもって車籍抹消されたが、群馬県沼田市の林野庁森林技術総合研修所林業機械化センターに収蔵・展示され、現在は修復作業中に判明した新造時の塗色と見られる濃紺一色の姿に復元の上、保存されている。
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廃止後の状況
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廃止後、停留場の跡地はバス発着所として待合室・バス乗務員待機所・バス駐車スペースなどが整備され、戸畑渡場バス発着所となっている。
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廃止後の状況
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廃止後の状況
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跡地には、「宮之城駅鉄道記念館」があり、館内を自由に見学することができる。また、鉄道記念館がある建物はバス待合所を併設しており、バス停名は鉄道が廃止された現在でも「宮之城駅」である。南国交通バスのほか、JR九州バス、鹿児島交通バスが乗り入れている。また、駅前交差点の名称も「宮之城駅前」で国鉄営業当時からの交差点名標識が使用されている。 鉄道記念館 駅があったことを今に伝える記念碑
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廃止後の状況
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路面上の乗降場については、廃止後は完全に撤去され、残存していない。 西鉄バス遊園前営業所最寄のバス停は電停と同様に「遊園前バス営業所」名称だったが、北九州線廃止後は「遊園前営業所」の名称に変更された。 到津車庫跡は1985年(昭和60年)10月以降西鉄バス遊園前営業所となっていたが、その後廃止され、跡地は西鉄ストアが運営するにしてつストア到津店→スピナ到津店となり、最寄バス停の名称は「上到津」となった。その後も敷地東端にはバス折返場が残され、1番などに「上到津」発着のバスも存在したが、2013年3月現在ではこの折返場も廃止となり、跡地はマンション建設用地となった。
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廃止後の状況
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「北海道炭礦汽船夕張鉄道線」の記事における「廃止後の状況」の解説
野幌 - 栗山 - 夕張間の延長53.2kmを結んでいた夕張鉄道の痕跡は沿線の随所に残っている。起点の野幌は札幌都市圏として発展が著しく駅舎も高架化され、夕張鉄道が乗り入れていた当時の面影は無くなった。夕張からの機関車が休息した野幌駐泊所跡にはマンションが建ち、札幌大通への連絡バスが発着した北海鋼機前駅跡にも娯楽遊技店が建設されている。しかし栗山までの廃線跡のかなりの部分は空知南部広域農道(きらら街道)として整備されており、それなりに痕跡を残している。北海綱機敷地に隣接した「きらら街道」の歩道には夕張鉄道の記念碑として江別市により腕木式信号機が設置され、南幌町の晩翠駅跡にも同鉄道を偲ぶ標柱が設置されている。 南幌駅跡には「南幌ビューロー」(ふるさと物産館)、「南幌町保健福祉センターあいくる」等が整備されているが街路に斜めに建てられた農業倉庫が往時を偲ばせ、駅跡を示す標柱が南幌町により設置されている。南幌駅を出て道道恵庭栗山線と交差する直前に水路を斜めに渡る長さ1mほどのコンクリート橋が、歩行者専用の歩道として残存していたが、水路の改修に伴い2001年に撤去された。北長沼駅跡にも長沼町により駅跡を示す標柱が設置されている。同鉄道最大の構造物であった「第二夕張川橋梁」は1990年代前半まで残存していたが、現在は栗山側の橋台部分に僅かにその痕跡を残すだけである。 室蘭本線の栗山駅も近代的な複合駅舎に建て替えられたが、夕張鉄道建設時に余ったレールが近くの小林酒造に売却され、酒蔵「大正蔵」と倉庫の4棟などの骨組みに、現在でも使用されている。由仁側には室蘭本線を跨いだ跨線橋の痕跡が残っている。この跨線橋は国鉄室蘭本線の複線化に伴い、1969年に建設したばかりだった。角田駅跡にも廃車となった貨車が残されている。継立駅舎は事務所として、新二岐駅舎は知的障害者通所授産施設としてそれぞれ転用され、道道札幌夕張線に面して駅舎が残っている。 夕張市冨野から高松まで、同鉄道に接続した北炭夕張炭鉱専用鉄道を含む廃線跡はサイクリング道路として整備されたが、老朽化や財政難により現在は冨野・平和間は廃止状態となっている。同鉄道沿線随一の行楽地であった錦沢駅周辺は立ち入る人も少なく、道道の改良で一部区間が道路に侵食されている。平和駅跡から先はサイクリング道路となっていて、他市町と異なり駅跡や鉄道跡を示す記念碑などは存在しないが、若菜駅跡にはホームの痕跡が残っている。鹿ノ谷の車両区の建物二棟も工芸品工場として再利用されていた。しかし一棟は雪害により屋根が損傷し、2011年11月に除却され、その部材は岩見沢市栗沢町のワイナリーに移築・再生される予定となっている。 夕張市役所横に位置する旧・夕張市民会館の1階に入居していた終点の夕張本町駅は、付近に夕張鉄道の社紋がついた電柱が残されている。そこから先へ進んだ専用鉄道跡には、高松跨線橋が炭砿遺産として残されている。跨線橋は北炭夕張炭鉱関連施設として登録有形文化財となっている。なお、沿線の夕張市、栗山町、長沼町には同鉄道で運用された車両が保存されている。
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廃止後の状況
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廃止後は鶴田鉄道記念館が建設され、自由に館内を見学することができる。また、駅跡地周辺は鶴田駅ニュータウンとして住宅地化されている。
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廃止後の状況
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廃線跡のうち、舞鶴共済病院前から国道27号との合流地点(舞鶴市役所前付近)までの間は、舞鶴市道北吸桃山線(自転車歩行者専用道路)として整備され、多くの市民に親しまれている。またこの区間内(東舞鶴 - 北吸間)にある北吸隧道(トンネル)は1904年(明治37年)に作られたもので、夜間はレトロな照明が当てられる。2002年(平成14年)には国の登録有形文化財に登録されている。 国道27号との合流地点(北吸駅跡付近)から終点の中舞鶴までの線路跡は国道27号の拡幅用地として転用されたため直接の痕跡はないが、中舞鶴駅跡の一部は記念公園として整備され、蒸気機関車C58形113号機が展示されている。 なお、舞鶴市役所に隣接する赤レンガ倉庫群内にある「まいづる知恵倉」では、入換用のディーゼル機関車や中舞鶴線(昭和40年頃)の模型などが展示されている。
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廃止後の状況
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鹿児島本線との分岐点から山内 - 北川内間で星野川に接近する付近までは全線道路化されたほか、駅跡地も大半が撤去されて道路の一部や建造物の敷地に姿を変えており、公園として整備された旧:筑後福島駅を除いてその面影を見ることができなくなっている。 花宗駅付近で国道209号がオーバークロスするが、その前後の道路は対面通行が可能であるものの、国道下のアンダーパスは拡幅されておらず当時の幅と同じで離合はできなかった。後に国道209号とは平面交差に改良され、2016年2月14日より野町北交差点として供用されている。 筑後福島駅跡地は当時の駅舎が移転し公園の倉庫として再利用され、公園内にはホームと線路の一部ならびに踏切跡が残され、公園入口にはかつての歴史が掲載された看板がある。また公園内の藤棚には廃レールが再利用されている。 鵜池駅跡は立体交差する九州自動車道の高架下付近である。上妻駅跡は八女市営上妻団地の敷地の一部、山内駅跡は八女市東公民館の敷地となっている。しかしいずれも矢部線の跡を示すものは何もない。またそれら以外の駅についても痕跡がなく場所の特定は難しい。 現在の上山内交差点から星野川の手前までは福岡県道52号八女香春線の一部となっている。県道はそのまま橋で星野川を渡るが、ここから矢部線は星野川沿いに進んでいたため、その護岸沿いに線路跡があるものの痕跡はなく車両通行止めとなっている。また一部農道化している部分があるが薮が激しい場所もあって全体を歩くことは困難である。なお途中のトンネルは2012年九州北部豪雨の復興工事のために壊されたとされている。 星野川を渡る橋梁は川の途中で途切れており、手前で道路を跨いでいた橋脚は片側のみ撤去されていた。その後、2016年に星野川の川幅を広げる工事に伴い残っていた橋脚も撤去された。 星野川を渡った地点からは再び道路となり、沿線にある八女市地域福祉センターに隣接する駐車場付近が北川内駅跡である。 その後道路は福岡県道70号田主丸黒木線と交差した地点で終わりとなるが、その先駐車場となった横に築堤が残り北川内トンネルが現存している。ただし封鎖されているため立ち入ることはできない。 北川内トンネルを越えた先は農道から三たび道路に姿を変えるが、その先で中原トンネルに到達する。このトンネルの内部は上陽町と黒木町(いずれも現:八女市)の境で仕切りがされ、それぞれ別の酒造会社が酒蔵として利用しているため立ち入りができない。ただし黒木町側のほうは酒蔵開きが行われることがあり、その際は一般人でも旧町境までトンネルの中に入ることができる。 中原トンネルから黒木駅跡までは道路化されており、黒木駅跡は八女市黒木体育センターとなっている。黒木駅跡を示す駅名標と国鉄C11形蒸気機関車が体育センターのすぐ横に設置されていたが、近年センター横の駐車場の整備に伴い移設され駅名標は新しいものになっている。
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廃止後の状況
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国鉄線を越えていた場所には大宮通り(国道369号)の高架橋(大宮跨線橋)が建設され、電車に代わり車が多数通行していた。地下切替と同時に道路拡幅が行われたが、主に道路南側に向けて行われたため、道路北側には当時の面影を多く残している。駅前商店街は接続駅を失ってしまった事から往時のにぎわいは見られず、静かな石畳の道が続いている。駅のあった場所付近に、奈良交通のバス停、油阪船橋商店街前があり、多数のバスが発着している。奈良県立大学が近い。 その後、JR奈良駅高架化工事に伴い、2005年から高架橋の撤去工事が行われ、2007年1月に車両通行は仮橋に移り、高架の完成に伴って2008年6月に撤去された。結果、時代の変化により、元々一部高架だった近鉄線は地下化、対してJR線は高架化と逆転状態になっている(周辺道路は高架橋の撤去により平面交差へ)。 2020年7月16日、奈良県の荒井正吾知事によると、奈良県・奈良市・近畿日本鉄道の3者は、世界遺産の平城宮跡を横切る近鉄奈良線移設に向けて協議に入ることで合意した。奈良県側は、移設区間に朱雀大路駅(仮称)、新大宮駅、油阪駅(仮称)の3駅の設置を近鉄に提案した。油阪駅の設置が実現すれば、事実上復活することになる。
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廃止後の状況
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1999年(平成11年)4月の全線廃線後も、駅舎には前述の旅行センターとコンビニが残り、敷地は路線バスの新潟西部営業所東関屋車庫として使われていたが、業績不振により旅行センターは廃止され閉鎖、その後バス車庫も廃止となった。最後まで残ったコンビニも閉店した後、跡地は市と民間に売却されて駅舎は撤去、現在は福祉施設とマンションが建っていて、周辺の線路跡には歩道が整備されている。
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廃止後の状況
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鉄道線廃止後は国道387号線の歩道部分と電鉄バスの熊本市内方面行きバス停になっている。(画像)
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廃止後の状況
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廃線から32年後の2015年(平成27年)に道東自動車道(北海道横断自動車道)の浦幌インターチェンジ - 白糠インターチェンジ間が開通し、縫別駅跡地近くに白糠インターチェンジが設置されて、足寄町の南側にある本別町から白糠線未成区間に近いルートで十勝と釧路の両地域間を結ぶ交通網が整備された。2016年(平成28年)には白糠インターチェンジから釧路市西部の阿寒インターチェンジまで延伸され、道央と道東を結ぶ道内幹線交通の一部となっている。 2021年(令和3年)4月、白糠町は国道392号を跨ぐ「第10茶路川橋りょう」(縫別 - 上茶路間、1962年完成)の約57メートルと「道道白糠本別線こ道橋」(下北進 - 北進間、1968年完成)の約35メートルを、崩落の危険があるとして撤去することを決め、関連経費約2億4千万円を年度予算に盛り込んだ。
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廃止後の状況
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駅事務室跡には十勝バス陸別案内所が入居し、帯広方面行の乗車券類取り扱っている。 2008年(平成20年)4月より旧駅構内は、陸別町商工会の主導で鉄道保存展示施設である「ふるさと銀河線りくべつ鉄道」として気動車の運転体験、乗車体験等ができるようになっている。期間は4月下旬 - 10月下旬の第二・四土日。 2016年、駅構内に存在した転車台が「旧網走線開業時の鉄道施設群」として土木遺産に選奨された。 廃止後もそのままの姿で駅名板が存在 十勝バス案内所となった窓口(2006年10月)
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/12 18:35 UTC 版)
線路跡地は新発田市へ売却され、サイクリングロード 兼 遊歩道として整備されている。線路や設備などは一部を除き全線で撤去された。 赤谷線サイクリングロード・起点(2021年9月) 赤谷線サイクリングロード・終点 中々山公園(2021年9月)
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 18:00 UTC 版)
前述のように北越急行ほくほく線が1997年に開業した。 このほか、2021年4月現在、頸城自動車によりうらがわら駅と直江津市街を結ぶ路線バスが運行されており、浦川原駅 - 下保倉駅 - 飯室駅間はほぼ廃線跡に沿って進むが、それ以西は経路が異なり、百間町は経由しない(百間町へは別の路線が運行されている)。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 14:50 UTC 版)
この項では未開業区間のみ扱う。漆生駅 - 嘉穂信号場間は「漆生線」の項、嘉穂信号場 - 豊前川崎駅間は「上山田線」の項を参照 日田彦山線との分岐点付近には一部道床が残っており、分岐した近くにコンクリート橋も残っている。県道95号線と交差する箇所からは道路となっている。福田駅までの間に福田トンネルが建設されたが、現在は川崎側の入口が道路工事の際に地中に埋まり、確認することはできない。大任側の入口は現存しているが封鎖されているため、立ち入ることはできない。 トンネルから福田駅を経て彦山川を渡る彦山川橋梁(通称・大行事橋)の直前までは築堤がすべて崩されて道路となり、福田駅の位置は確認することができない。 彦山川橋梁は現存しているがレールは撤去され両端に柵が施されているため、中に立ち入ることはできない。 彦山川橋梁を渡って、添田線跡道路との並行区間になるが、大任駅跡地の公園までは大任町の整備事業により駐車場、遊歩道となっている。大任駅より添田線跡道路と分かれ、大任町の自然の森までは道路となっている。途中にあった柿原トンネルや前後にあった橋梁は撤去、開削され、その跡は確認できない。その後は山林の中に用地が残るが、レールはすべて撤去されており、竹やぶと草で覆われている。橋梁(函渠)はそのまま手つかずで残っている。 山林の中で野原越、本村の2つのトンネルを超え、田川線(現・平成筑豊鉄道)の油須原駅へ合流する。 2003年、油須原線と田川線との合流予定地点付近に平成筑豊鉄道が赤駅を開設した。同年秋以降、毎年春から秋にかけて赤村民を中心としたボランティア「赤村トロッコの会」が月に一日程度、油須原線の跡地の上を通り赤駅と野原越トンネル内を往復するトロッコ列車を走らせている。トンネルの大任町側の出口までは行かず、トンネル内の大任町との町境付近に設置されたフェンスの手前で折り返し赤駅に戻る。なおトロッコが運行される区間は、導水管が建設されたためコンクリートによってかさ上げされ、その上にトロッコ用の軌道が敷かれている。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/29 03:03 UTC 版)
路線の廃止後はバスが運行されていたが、後にバス路線も廃止された。現在の駅跡地は道路となっており、駅の痕跡は全く見られない。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 04:52 UTC 版)
元々が交換用に設置された信号所であり、そのまま複線化用地に転用されたため、ほとんど何も残っていない。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 05:10 UTC 版)
初代・二代目・三代目ともにそのまま複線化用地に転用されたため、廃止後は痕跡が何も残っていない。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 15:56 UTC 版)
2019年(令和元年)現在、駅跡は公園になっており、記念碑と踏切警報機が保存されている。なお、駅前付近にある交差点の信号機の地名表記は羽月駅前となっている。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/24 15:54 UTC 版)
現在は、駅舎は解体され、「国鉄宮之城線薩摩山崎駅跡」の記念碑と車輪がある。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/02 04:23 UTC 版)
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 13:57 UTC 版)
以前は航空写真でも引込線跡が確認できたが、現在は跡形もない。現在は北海道赤十字血液センターが立つ。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 09:53 UTC 版)
廃止後、待合所については解体され、前述の「毛織の北紡」の看板等が名寄市に寄贈の上、北国博物館の収蔵品となった。
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廃止後の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/02 04:17 UTC 版)
鉄道廃止後国道拡張によって歩道(広瀬停留所)・駐輪所になっている(画像)。
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