頸城鉄道線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/27 18:35 UTC 版)
頸城鉄道線(くびきてつどうせん)は、かつて頸城鉄道自動車(現・頸城自動車)が運営していた、新潟県直江津市の新黒井駅と東頸城郡浦川原村(いずれも現・上越市)の浦川原駅を結んでいた軽便鉄道路線。地元の利用者や鉄道ファンの間では、「頸城」のイニシャルを表す「K」を丸で囲った社紋(Ⓚ)にちなんで「まるけい」と呼ばれていた[1]。1971年に全面廃止された。
- ^ 『軽便鉄道』p95
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 寺田 2008, p. 43.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 寺田 2008, p. 42.
- ^ 「彙報 輕便鐵道免許狀下付 上越輕便鐵道株式會社(鐵道院)」『官報』9号、1912年8月9日、149頁。doi:10.11501/2952102 。
- ^ 『時事新報』掲載の1912年8月10日付記事「軽鉄の指定と免許 - 草津興業と上越軽鉄」(神戸大学附属図書館新聞記事文庫)
- ^ 「株式会社設立登記 頸城鉄道株式会社」『官報』215号、1913年4月21日、523頁。doi:10.11501/2952313 。
- ^ 上越市 2002, p. 85.
- ^ 「彙報 輕便鐵道運輸開始、停留場位置變更、停車場廢止及改稱竝哩程異動 播州、頸城兩鐵道株式會社(鐵道院)」『官報』657号、1914年10月8日、172頁。doi:10.11501/2952763 。「停留場位置変更…」とは併載の播州鉄道の件
- ^ a b c d e f 今尾 (2008) p.44
- ^ a b 上越市 2002, p. 407.
- ^ 「彙報 輕便鐵道運輸開始 頸城鐵道株式會社下保倉、浦川原間(鐵道院)」『官報』1133号、1916年5月13日。doi:10.11501/2953243 。
- ^ 「彙報 地方鐵道停車場名改稱 頸城鐵道株式會社上森本停車場(鐵道院)」『官報』2134号、1919年9月13日。doi:10.11501/2954247 。
- ^ 『鉄道停車場一覧』 昭和12年10月1日現在 p.311
- ^ 上越市 2002, p. 86.
- ^ 上越市 2002, p. 408.
- ^ 「彙報 輕便鐵道免許狀下付 頸城鐵道株式會社(鐵道院)」『官報』434号、1914年1月12日、162頁。doi:10.11501/2952534 。
- ^ 「彙報 輕便鐵道免許失效 頸城鐵道株式會社(鐵道院)」『官報』906号、1915年8月9日、159頁。doi:10.11501/2953014 。工事施工認可申請を行わなかっため失効
- ^ 森口誠之著『鉄道未成線を歩く私鉄編』JTB、2001年、p.184
- ^ 小林 (1964) は資金面の理由で残り2両を5t機としたとする
- ^ a b 小林 (1964) によれば2号、3号ともコッペル製
- ^ 小林 (1964) によれば仙台鉄道時代からボイラーの調子が悪く、また重心が高いため脱線の際に180度向きを変え横転する癖があり乗務員に嫌われたという
- ^ 梅村『頸城鉄道』には、雪中で立ち往生した列車の救援に向かったDC123が逆にエンジン不調で立ち往生してしまったこともあったと記される。
- ^ 本項目は湯口 (2004)p129-131、湯口 (2005)p242-244、p260、p266に準拠。
- ^ 湯口 (2004)p130引用の1932年3月設計変更認可時の文面大意。
- ^ 仙台鉄道が1933年に自社のボギー客車ハ3を改造して気動車化する際、先行例の頸城ホジ3を参考とし、頸城側もこれに図面提供という形で協力した模様で、この時当局に提出された仙台鉄道キハ2の図面(特に駆動系の設計)は頸城ホジ3に酷似している。
- ^ “頚城鉄道”. 株式会社フルヴィアート. 2020年10月26日閲覧。
- ^ 「ディーゼル機関車など8両が33年ぶりに里帰り」(PDF)『広報じょうえつ』第773号、上越市、2005年11月1日、1-3頁。
- ^ “前原さんと「門デフ」C57を撮りにゆく。(下)”. 鉄道ホビダス 編集長敬白アーカイブ (2007年10月22日). 2013年7月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年1月31日閲覧。
- ^ “上越市内公共交通総合時刻表”. 上越市. 2021年7月28日閲覧。
頸城鉄道線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/19 05:08 UTC 版)
現在の南口側には、頸城鉄道線の起点駅である新黒井駅(しんくろいえき)が設けられていた。 頸城自動車の前身にあたる頸城鉄道は1913年(大正2年)4月6日に設立され、後の頸城村と浦川原村(現:上越市浦川原区)となる中頸城郡北部の村々を東西に横断する軽便鉄道の頸城鉄道線は1914年(大正3年)10月1日に開業した。駅舎はインターナショナル石油直江津製油所の外国人宿舎として使われていた通称「異人屋敷」のうち1棟を移築したもので、信越本線に面する北側に建てられた木造2階建ての擬洋風建築の駅舎南側に単式ホーム1面1線と側線などが設けられ、国鉄線ホームとの間は構内踏切で連絡していた。 1968年(昭和43年)10月1日に新黒井駅 - 百間町駅間が部分廃線された後、駅舎はタクシー待機場や同社の石材事業の工場などとしての運用を経て、老朽化等のため撤去された。頸城自動車では駅舎跡が同社の創業地にあたることなどから頸城鉄道線の史実を伝えるため、創業80周年事業の一環として1993年(平成5年)10月に新黒井駅跡を示す石碑を建立した。駅舎跡はその後、一部が道路や駐車場などに転用された以外は長らく未整備のままとなっていたが、後述の駅周辺整備事業に伴って上越市が用地を取得し、石碑は南口駅前広場のかつて駅舎が所在していた地点に移設された。 なお駅舎跡の敷地のうち、南口駅前広場となった市有地を除く大部分は現在も頸城自動車が所有し、同社グループのマルケー不動産が管理している。
※この「頸城鉄道線」の解説は、「黒井駅 (新潟県)」の解説の一部です。
「頸城鉄道線」を含む「黒井駅 (新潟県)」の記事については、「黒井駅 (新潟県)」の概要を参照ください。
- 頸城鉄道線のページへのリンク