鉄道線
鉄道線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 18:13 UTC 版)
開業時以降に投入された木造ボギー車 デハ1-4 1-3は1924年、4は1925年のいずれも雨宮製作所製。全長9449mm、全幅2134mm、自重10.35t、定員50人(座席26人)、30馬力電動機2台。車体は正面3枚窓で側面窓上の半月状のアーチが特徴で窓扉配置はD1 2×4 1Dで、車内幅は1778mmと軌道線の車両より大きいとはいえ広くはない。台車は軌道線のボギー電動車と同形態の板台枠のウイングバネ台車で主電動機出力も同じ22.4kW/500V。当初は手ブレーキのみだったが1928年に空気ブレーキを追加。デハ3・4は1931年の車庫火災で焼失、同年(認可上は翌1932年)に木造時と同様の形態の半鋼製車体(窓扉配置D10D)で復旧。全長10250mm、全幅2130mm、自重10.3t、定員50人(24人または28人)。デハ3は貴賓車としても使用されたことがある。木造のまま残ったデハ1・2は後年軌道線でも使用されたあと1960年と1962年に鋼体化されてデハ21・22となった。 サハ1-5 1-3は1924年、4・5は1926年雨宮製作所製でデハ1-4と同様の形態の付随車。1928年に空気ブレーキを追加。サハ5は1931年の車庫火災で焼失後、同年(認可上は1932年)に木造の時と同様の形態の半鋼製車体で復旧。サハ1-4は1959-60年に鋼体化されサハ201-204となった。 木造車の鋼体化改造車 デハ21・22 1960年と1962年にデハ1・2を台車、機器等を使用して張上屋根、ノーシル・ノーヘッダーの車体に載せ替え鋼体化した車両で全長10860mm、全幅2130mm、自重1.5t、定員60人(座席30人)。トロリーポール集電で軌道線で使用され、軌道線廃止の1969年に廃車。 サハ201-204 1959-60年にサハ1-5をデハ21・22と同様の形態の車体で鋼体化した車両で、主に軌道線で使用された。車体寸法、定員はデハ21・22と同一、自重8t。 戦後の新造車 デハ55 1950年日本車輌製の12m級電車で正面3枚窓。集電装置は当初ビューゲルであったが後にZパンタ化された。富山地方鉄道デ5010の類似車。全長12260mm、全幅2130mm、自重16t、定員80人(座席30人)、主電動機出力22.65kW/300V。 デハ56 1954年汽車会社東京支店製の12m級電車で正面3枚窓で寸法等はデハ55と同一、実際の車体は大栄車輛で下請け製作されたという。登場時は集電装置がパンタグラフだったが後にZパンタ化された。 デハ57 1958年日本車輌製造東京支店製の張上屋根、ノーシル・ノーヘッダー、窓も900mm幅と大きく軽快な形態の電車。集電装置はZパンタ。なお、中央運転台ながら正面2枚窓で運転士にとっては邪魔になる中央に窓枠があったり、乗降口がステップ付で扉が引戸ながら、戸袋が床上部分しかなく扉開時に扉下部が戸袋下にはみ出るなど、あちこちに変わった構造が見受けられる。全長12260mm、全幅2130mm、自重16t、定員80人(座席36人)、主電動機出力22.8kW/600V。 モハ28 1963年日本車輌製造東京支店製で花巻電鉄最後の新造電車。鉄道線の所属ではあるが実際には軌道線で使用された。ドアエンジン、蛍光灯付きの近代的仕様ながら、軌道線は電柱を架線柱に兼用していたため柱間隔が長く、架線のたるみが大きかった関係でトロリーポール装備で登場。台車はデハ55-57と同様の菱枠式の日車NA-14で、張上屋根、ノーシル・ノーヘッダーの当時の路面電車と同様の形態。軌道線廃止後は鉄道線に転じ集電装置がZパンタに換装された。全長11860mm、全幅2130mm、自重13.6t、定員60人(座席30人)、主電動機出力22.4kW/300V。 サハ101-104 1954年日本車輌東京支店(101・102)および1956年東洋電機の付随車で張上屋根、ノーシル・ノーヘッダー、窓扉配置は1D7D1。全長10660mm、全幅2130mm、自重8t、定員50人(座席24人)。 サハ105・106 1963年日本車輌製造東京支店製でモハ28と同様の形態の付随車。全長10860mm、全幅2130mm、自重9.5t、定員70人(座席30人)。 気動車 キハ801 1964年に廃線となった遠州鉄道奥山線のキハ1804を1966年に購入したもので、変電所の負荷を低減する目的で投入された車両だが、あまり(ほとんど)使用されなかったという(にも関わらず、車体外部側面には清涼飲料の広告看板が取り付けられていた)。正面はHゴム支持の2枚窓、側面は幅850mmのバス窓の近代的な気動車で、塗装も他の車両と異なりオレンジに白帯でステップを2段式に改造して使用した。1956年日本車輛製造製の機械式気動車で、エンジンは日野DS40型水冷6気筒7.98lディーゼルエンジン、定格出力95PS/1400rpm、最大出力150ps/2400rpmでチェーン式2軸駆動、全長10809mm、定員60人(座席28人)、自重11.8t。軌道線廃止の1969年に廃車。 電気機関車 EB61 1924年の鉄道線開業時に用意された日本車輌製造製の6t機。当初の番号は1だったが1941年にEB61に改番された。 EB62 下野電気鉄道(現・東武鬼怒川線)で使用されていた6.5t機。戦後の購入。
※この「鉄道線」の解説は、「花巻電鉄」の解説の一部です。
「鉄道線」を含む「花巻電鉄」の記事については、「花巻電鉄」の概要を参照ください。
鉄道線(名鉄岐阜駅)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 04:56 UTC 版)
築堤高架上の名古屋本線乗り場と、地平に設置された各務原線乗り場の2つの部分からなる。かつての美濃町線系統には各務原線構内に専用の乗り場があった。名古屋本線と各務原線の各構内は改札内・改札外ともに連絡通路で結ばれている。 名古屋本線1-4番線は櫛形2面4線のホームで8両編成対応、各務原線5-6番線は櫛形1面2線のホームで6両編成対応。各務原線にはかつて美濃町線直通列車用の1面1線の低床ホームがあり7番線(2両編成対応)となっていたが、7番線は2005年4月1日の美濃町線・田神線廃止に伴い廃止された。現在7番線は6両編成対応の留置線となっているが、日中の車両留置はなく、夜間停泊でしか使われていない。 2004年12月には2番線に油圧緩衝式車止めが設置された。これは前年に発生した過走衝突事故への対策で、現在では名古屋本線の各ホームについて設置が完了し車止め周辺には安全柵も設置されている。到着列車は分岐器の制限速度35km/h(3番線のみ25km/h)で進入後、ホーム途中から15km/h以下多段階のATSのチェックを受けながら停止する。 部分的な改良工事を重ねてきた関係で延伸時に嵩上げされた3・4番ホームよりも1・2番ホームの方が僅かに低い位置にあるほか、1番線のみ線路の終端(改札口に近い側)が更に下がってホームの左右で高低差があったが、2012年3月に中心が電車1両分に亘って柵で仕切られ1番線側が平坦に均された。各務原線ホームも延伸された先端部分は幅が非常に狭い。なお駅構内の枕木は全て木製のままである。1・2番ホーム全体および3・4番ホーム改札寄りの上屋支柱の一部には1897年カーネギー製の古レールが再利用されている。 のりば番線路線行先1 - 4NH 名古屋本線 名鉄一宮・名鉄名古屋・中部国際空港方面 竹鼻・新羽島方面 5・6KG 各務原線 犬山方面 名古屋本線ホームの先にあるJR東海道本線・JR高山本線と立体交差している箇所(名鉄加納陸橋)は単線になっている。単線区間には第2出発信号機が設置されている。1996年までは加納陸橋の下をJR線が通っていたが、岐阜駅付近のJR線の高架化に伴い現在はJR線高架の下を潜る構造となっている。この陸橋はかつて東側を走っていた国道(現国道157号)と一体化した構造になっており、現在も陸橋東側には旧東陸橋の跡である橋台が隣接して残存する。 もともと1914年(大正3年)12月に開通した時点ではこの部分も複線であった(茶所 - 新岐阜間のみ複線化されていた)。しかし第一次世界大戦中に資材不足により、岐阜市内線の補修用レールを入手できなかったため、当時の運行状況では単線化しても問題なかったことから、茶所 - 新岐阜間を単線化してレールを転用した。第二次世界大戦前に笠松 - 広江間、第二次世界大戦後に、広江 - 新岐阜間が順次複線化されたが、加納陸橋上のこの区間のみ単線のまま残され、現在に至っている(現在の電車とは車両限界が異なるため、美濃電時代の規格のままでは複線化できない)。 名古屋本線と各務原線の両駅舎は改札内の連絡通路で結ばれている。名古屋本線側と各務原線側の双方の駅舎に駅ビルがあり、2000年10月に開業した各務原線側の「名鉄長住町ビル」には、LOFT岐阜店と立体駐車場が入っている。名古屋本線側の駅ビルは老朽化が進んでいたため1990年代初期のバブル期に建て替え工事が検討されていたが、その後の不況により中止。そして2005年12月28日に新岐阜百貨店が閉店したため、これを機に解体・駅舎建て替えを2006年6月24日よりまずは建物北側から始まった。2007年7月14日より新駅舎の一般利用が開始された。なお、2009年9月6日、新岐阜百貨店跡地に商業施設(ECT (イクト))がオープンし、1階には食品スーパーの「パレマルシェ」、2階には飲食店やファッション関係の店舗など18テナントが入った。 名古屋本線へは西側に面した道路(国道157号:長良橋通り)から大階段で昇れるようになっており、上下エスカレータが各1基とエレベータ2基が設置されている。現在、1階はカフェバー「プロント」が営業をしている。また、2017年9月6日からサンクスの跡地にファミリーマートが営業を開始している。 名鉄岐阜駅は長住町ビル建設の際にバリアフリー化され、各務原線ホームへはスロープの設置により段差無しでホームに入れるようになった。また名古屋本線ホームへはビルの店舗外スペースにエレベータと上下エスカレータが設置され、改札外連絡通路を通じてホームに入れる様になっている。2007年7月の新駅舎供用開始後は、改札内にも名古屋本線と各務原線を結ぶエレベータが設置された。 新羽島方面への時刻表には笠松駅で竹鼻線列車に連絡する列車の時刻も書かれている(直通列車は早朝(平日急行新羽島行き2本と普通新羽島行き1本、土休日急行新羽島行き2本)と深夜(平日、土休日とも最終の普通羽島市役所前行き)のごく数本しかなく、直通列車のない時間帯は笠松で快速特急、特急などから接続)。 2004年にトランパスが導入された。比較的早くから自動改札機が導入されている。 名鉄岐阜駅 − 岐南駅間では岐阜県、岐阜市、名鉄を事業主体とする高架化の計画があり、2021年度内に国から事業認可が下りる見通しとなった。近隣では開かずの踏切が慢性的な渋滞の原因になっていた。境川橋梁(岐南 - 茶所間)から当駅までの区間を連続立体交差化する計画は、1999年に立案されたが、岐阜県と岐阜市の財政難により事実上凍結されていた。2012年には岐阜県都市建築部が構想の概要を発表し、全区間2.9kmのうち約半分に当たる当駅から1.5kmの区間を先行して整備される見通しを立てた。しかし、2014年7月になって再び全区間を一括して整備する方針に転換した。2016年3月に「岐阜駅周辺連続立体交差事業」が発表された。なお各務原線についても高架化の案があったが立ち消えになっている。
※この「鉄道線(名鉄岐阜駅)」の解説は、「名鉄岐阜駅」の解説の一部です。
「鉄道線(名鉄岐阜駅)」を含む「名鉄岐阜駅」の記事については、「名鉄岐阜駅」の概要を参照ください。
鉄道線(箱根登山電車)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 02:22 UTC 版)
「箱根登山鉄道」の記事における「鉄道線(箱根登山電車)」の解説
1919年6月1日に湯本から強羅までの区間で開業。1935年10月1日より小田原と強羅の間における直通運転を開始。
※この「鉄道線(箱根登山電車)」の解説は、「箱根登山鉄道」の解説の一部です。
「鉄道線(箱根登山電車)」を含む「箱根登山鉄道」の記事については、「箱根登山鉄道」の概要を参照ください。
鉄道線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 14:21 UTC 版)
宮島線のことで、西日本旅客鉄道(JR西日本)山陽本線とほぼ並行する。全線が専用軌道。軌道線と広電西広島駅でつながっており、直通運転を行っている。詳しくは「広島電鉄宮島線」の項目を参照。宮島線で運行される2号線は原爆ドーム前停留場の目の前にある原爆ドームと、広電宮島口駅を最寄り駅とする厳島神社との2つの世界遺産を結んでいる。
※この「鉄道線」の解説は、「広島電鉄」の解説の一部です。
「鉄道線」を含む「広島電鉄」の記事については、「広島電鉄」の概要を参照ください。
鉄道線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 10:35 UTC 版)
鉄道線は以下の路線からなる。詳細は各項目を参照。 本線 (電鉄富山駅 - 宇奈月温泉駅 53.3 km) 立山線 (寺田駅 - 立山駅 24.2 km) 不二越線 (稲荷町駅 - 南富山駅 3.3 km) 上滝線 (南富山駅 - 岩峅寺駅 12.4 km) 富山港線 (奥田中学校前駅 - 岩瀬浜駅 6.5 km) このうち富山港線は後述する軌道線との直通運転を行っており、路面電車型の車両によって運用されている(軌道線区間を含む総距離は7.6 km)。その他の鉄道線の運転系統は、おおむね以下の4系統となっている。 本線電鉄富山駅 - 宇奈月温泉駅 53.3 km 立山線電鉄富山駅 - 寺田駅 - 岩峅寺駅 20.0 km 電鉄富山駅 - 寺田駅 - 立山駅 34.0 km 不二越・上滝線電鉄富山駅 - 南富山駅 - 岩峅寺駅 17.3 km 2010年度の各路線の輸送密度は以下のとおり。 本線 2,217人 立山線 729人 不二越・上滝線 968人 本線と不二越・上滝線によって形成される環状線区間では、迂回乗車をした場合は乗車駅と降車駅の最短距離で運賃を計算する。
※この「鉄道線」の解説は、「富山地方鉄道」の解説の一部です。
「鉄道線」を含む「富山地方鉄道」の記事については、「富山地方鉄道」の概要を参照ください。
鉄道線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 10:35 UTC 版)
※この「鉄道線」の解説は、「富山地方鉄道」の解説の一部です。
「鉄道線」を含む「富山地方鉄道」の記事については、「富山地方鉄道」の概要を参照ください。
鉄道線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 10:35 UTC 版)
20020形(元西武10000系) 17480形(元東急8590系) 16010形(元西武5000系) - 一部は「アルプスエキスプレス」。 10030形(元京阪3000系) - 一部は「ダブルデッカーエキスプレス」。 14760形 クハ175形 デキ12020形 - 入替・工事用電気機関車。 DL形 - 除雪用ディーゼル機関車。国鉄のラッセル式除雪モーターカーTMC100BSと同形機。 DL10形 - 除雪用ディーゼル機関車。小型でロータリー/ラッセル兼用タイプの機関車。 DL13形 - 除雪用ディーゼル機関車。国鉄のロータリー/ラッセル式除雪モーターカーMCR-4Aと同形機。 ホキ80形 - 保線用貨車(ホッパ車)。 17480形 16010形 10030形 14760形 クハ175形 デキ12020形
※この「鉄道線」の解説は、「富山地方鉄道」の解説の一部です。
「鉄道線」を含む「富山地方鉄道」の記事については、「富山地方鉄道」の概要を参照ください。
鉄道線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 10:35 UTC 版)
14710形 14750形 14790形(登場当時は14770形) 14780形 10020形 14720形 デキ6500形・デキ8100形 デキ8000形 デキ14730形 デキ19040形 モハ7540形・モハ10040形(元富山電気鉄道モハ500形)1936年(昭和11年)日本車輌製、18m級2扉の大型車。両運転台車で前面は緩くカーブした半流線形だった。モハ501・502は1949年(昭和24年)の一斉改番でモハ7540形モハ7541・7542となり、モハ503は1939年(昭和14年)にモーターを75kW×4に交換し出力を増強、1949年(昭和24年)の一斉改番でモハ10040形モハ10043となった。モハ7540形は1980年(昭和55年)に、モハ10040形は1981年(昭和56年)に廃車された。 クハ1010形→モハ7510形1948年(昭和23年)、日本鉄道自動車製で1形式1両。1949年(昭和24年)に電装されてモハ7510形となり、1969年(昭和44年)に廃車された。 モハ7520形(元富山電気鉄道モハ200形)1931年(昭和6年)、日本車輌製の15m級中型車でモハ201 - モハ203・モハ205・モハ206の5両(モハ204は欠番)があった。1969年(昭和44年)〜1971年(昭和46年)に廃車された。 クハ120形(元富山電気鉄道モハ100形・モハニ110形・クハ1000形)富山電気鉄道開業時からのグループで、モハ100形は12m級小型車。モハニ110形は荷物室合造車で1938年(昭和13年)に荷物室を撤去し電装解除、クハ109に改番した。富山電鉄系の車両でも小型の部類に入るが、これは区間列車向けを企図していたため。1957年(昭和32年)に車体を17m級に延長している。 モハ7530形(元富山電気鉄道モハ210形・モハ220形)1941年(昭和16年)、日本車輌製の16m級中型車。モハ210形とモハ220形で搭載する電動機が異なっていた。両運転台で片側の前面は貫通式、非貫通側の前面はごく緩い後退角を持つ3枚窓の平面だった。 モニ6570形(元富山電気鉄道モハ300形・モニ310形)元は光明電気鉄道が1928年の開業時に製造した16m級木造車で、同社の経営破綻で1935〜36年に富山電気鉄道に売却されたものがそのまま合併後の富山地方鉄道に引き継がれた。モハ2両、モニ1両があったが、1949年(昭和24年)に富山市の日本海ドックで簡易鋼体化改造されて全車に荷物室が設置され、以降はモニ6570形と総称された。機関車代用や荷物電車として使用され、1969年(昭和44年)に廃車された。なお、この荷物室と客室の仕切りは着脱自在で、荷物室部分には折り畳み収納の可能なロングシートの座席と網棚が設けられており、客室としても使えるようになっていた。 モハ10050形(元富山県営鉄道デニハ5形・デハ6形)富山県営鉄道が発注し、1937年(昭和12年)に運用を開始したクロスシート車、汽車会社製のデニハ5形、日本車輛製のデハ6形 で、1949年(昭和24年)の一斉改番で10050形モハ10055・10056となった。共に17m級車でモハ10055が3扉、モハ10056が2扉だった。後にロングシート化されており、1980年(昭和55年)に廃車された。 モハ8060形(元富山県営鉄道デニハ4形)1927年(昭和2年)、日立製作所製。一段下降窓で窓位置が高く、合併に参加した鉄道からの引き継ぎ車で最も古典的なスタイルだった。 モハ8020形・クハ110形(元富山県営鉄道デハ1形)1927年(昭和2年)、日本車輌製。 モハ8040形・モハ13140形(元黒部鉄道デ31形)1916年(大正5年)製の木造車を1951年(昭和26年)に鋼体化改造した車両。重厚なスタイルで、立山線で使用された。 モハ12510形(元黒部鉄道デ51形)1937年(昭和12年)川崎車輌製の両運転台車で2両あった。運転台の車掌台側のスペースを車掌が扱う荷物置き場にしており、このため車掌台側の乗務員扉は幅800mmと大きく取られていた。1980年(昭和55年)に廃車された。 クハ90形1962年(昭和37年)富士重工業製の制御車で2両あった。国鉄72系電車の近代化改造車に似たノーシルノーヘッダーで切妻前面3枚窓のスタイル、戸袋窓なしの両開き3扉構造が特徴。台車は近鉄名古屋線の1435mm改軌(1959年)で発生した中古品の日本車輛D16。戦前製手動加速制御電動車と組んでのラッシュ時増結用に用いられたが、元名鉄の14710形の大量導入で在来型電動車の廃車が進んだため運用しにくくなり、車齢9年で1971年(昭和46年)に廃車された。 クハ100形(元越中鉄道デハ100形)1930年(昭和5年)、日本車輌製。射水線の前身・越中鉄道からの引き継ぎ車で2両あった。射水線の低床化で本線に転属、1951年(昭和26年)に電装解除、1963年(昭和38年)に片運化され、1968年(昭和43年)に廃車された。 クハ130形(元越中鉄道デハ1形)越中鉄道からの引き継ぎ車で2両あった(軌道線の項目も参照)。1923年(大正12年)日本車輌製の木造ボギー電車で、後に鋼体化された。 クハ140形(登場当時はハフ11形)1944年(昭和19年)、新潟鉄工所製で2両あった。元は工場の工員輸送用の客車で1946年(昭和21年)に購入、制御車化した。国鉄モハ63系に似た切妻前面3枚窓で前面幕板部にヘッドライトをつけており、ノーシルノーヘッダーのスタイルが特徴。台車はクハ145がTR23系、クハ146がTR10系と2両で異なっていた。 クハ150形(2代目・元富岩鉄道セミボ30形)元は富岩鉄道開業時に用意された木造の2軸車2両(モハ10形10・11、元名古屋鉄道)。富岩線の戦時買収の際も富山地方鉄道に残留した。この2両を接合して富岩線用半鋼製ボギー車へ改造する工事が日本鉄道自動車で行われセミボ30形となり、1944年の合併で富山地方鉄道モハ30形モハ30へ改称、その後電装解除・制御車化されクハ150形クハ151となった。 クハ160形1948年(昭和23年)に射水線用モハ1201・クハ1301として登場、射水線の低床化で本線に転属。1949年(昭和24年)の一斉改番でモハ1201→デハ12053、クハ1301→クハ151(初代)に改番、さらにデハ12053は1951年(昭和26年)に電装解除されてクハ151ともどもクハ161・162(2代目・初代は14750形の制御車)に改番した。1956年(昭和31年)に片運化や制御装置などの換装を行って14750形専属の増結用車両となり、1980年(昭和55年)に廃車された。 14720形
※この「鉄道線」の解説は、「富山地方鉄道」の解説の一部です。
「鉄道線」を含む「富山地方鉄道」の記事については、「富山地方鉄道」の概要を参照ください。
「鉄道線」の例文・使い方・用例・文例
- 鉄道線路と道路は平行している。
- 鉄道線路はダイナマイトで爆破された.
- 鉄道線路は四方八方に分岐している.
- 鉄道線路.
- 鉄道線路
- 鉄道線路へ飛び込む
- 曲がった部分(道路、川または鉄道線路などの)
- 標準的な56.5インチより広い鉄道線路(か幅)
- 彼は鉄道線路に沿って歩いた
- 鉄道線路が通っているトンネル
- 鉄道線路上に置かれ、列車がその上を走ると発火する小型の爆発物
- 鉄道線路の敷設や修理を行う労働者
- 鉄道院が管理する鉄道線路
- 鉄道院が管理する鉄道線路を走る電車
- 海に沿った鉄道線路
- 車止めという,鉄道線路の末端に付ける装置
- 溝橋という,鉄道線路下の排水路に架ける橋
- 特定の目的だけのために敷設した鉄道線路
- 網の目のように通じている鉄道線路
- 鉄道線のページへのリンク