マニエリスム【(フランス)maniérisme】
マニエリスム
【英】:MANIERISME
盛期ルネサンスに完成された古典主義芸術のあとを受けて、ほぼ1520年頃から17世紀初頭にかけて、主として絵画を中心に、ヨーロッパ全体を風靡した芸術様式。20世紀初頭になってから独立した様式として認められ、16世紀中葉から後半を支配した芸術様式として重要視されている。その表現は、極度に洗練された技巧、曲線を多用した複雑な構成、歪んだ遠近法を用いた構図、明暗のコントラストや入り組んだ奥行表現による効果、異常なプロポーションや色づかいなどを特色としている。これらは、ラファエロやミケランジェロの完成された力強い表現に対する傾倒、デューラーなどによる北方ゴシックの影響、混乱時代の社会不安、芸術愛好家君主の積極的な保護などを背景として生まれたといえる。その本質については、ルネサンスからバロックへの過渡期の様式、反古典主義様式、16世紀のヨーロッパ全体の精神的危機を反映した様式、ルネサンス文化の継続的発展、人間の持つ非合理なものへの衝動など様々な見方がある。
マニエリスム
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マニエリスム (伊: Manierismo ; 仏: Maniérisme ; 英: Mannerism) とはルネサンス後期の美術で、イタリアを中心にして見られる傾向を指す言葉である。マンネリズムの語源[1]。美術史の区分としては、盛期ルネサンスとバロックの合間にあたる。イタリア語の「マニエラ(maniera:手法・様式)」に由来する言葉である[2][3]。ヴァザーリはこれに「自然を凌駕する行動の芸術的手法」という意味を与えた[2]。
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- ^ マンネリズムとは - コトバンク
- ^ a b 美術出版社; 美術出版社編集部; 藤原えりみ; 高階秀爾 『西洋美術史: カラー版』(7版) 美術出版社、2008年2月10日、93頁。ISBN 4568400643。 NCID BA60025262。
- ^ ヤマザキマリ『ヤマザキマリの偏愛ルネサンス美術論』集英社、2015年、101頁。ISBN 978-4-08-720815-3。
- ^ a b c d Brill, Paul; Goya, Francisco; Greco; 愛知県美術館, 東武美術館, 横浜美術館, 横浜美術館学芸部 『バロック・ロココの絵画 : ヴェネツィア派からゴヤまで リール市美術館所蔵』 朝日新聞社、1993年、31頁。 NCID BN09889898。
- ^ ハウザー 1990b , pp. 274-275.
- ^ a b ハウザー 1990b , p 275.
- ^ 八代 1965, p. 308.
- ^ 美術検定実行委員会 『美術検定過去問題集:四択マークシート』 美術出版社、2008年7月、186頁。ISBN 978-4-568-24024-5。 NCID BA88611716。
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- ^ ハウザー 1990a , p 35.
- ^ ハウザー 1990a , p 36.
- ^ “美術用語詳細情報 マニエリスム”. 徳島県立近代美術館 (2006年). 2016年7月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年7月18日閲覧。
- ^ 三宅雅明「詩におけるマニエリスムとT・S・エリオットの詩 : その二」『大阪府立大学紀要(人文・社会科学)』第20巻、大阪府立大学、大阪、1972年3月30日、 106頁、 ISSN 04734645、 NAID 40000306450、2016年7月31日閲覧。
- 1 マニエリスムとは
- 2 マニエリスムの概要
- 3 マニエリスム期の作品
マニエリスム
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詳細は「マニエリスム」を参照 絵画と同様にイタリアの初期マニエリスム彫刻は、ルネサンス隆盛期の成果(彫刻においては本質的にミケランジェロを意味する)を上回る独自様式を見つけようとする試みで、これを達成するため多くの奮闘がフィレンツェのシニョーリア広場にある他の空間(ミケランジェロ作ダビデ像の隣)を埋めるための依頼で行われた。バッチョ・バンディネッリはヘラクレスとカークス像の事業を師匠から受け継ぎ、それは今ほど人気がなくてベンヴェヌート・チェッリーニからは悪意を込めて「メロンの袋」と比較されたが、彫像の台座に浮彫りのパネルを初めて導入したことで長期的な影響を及ぼした。彼や他のマニエリスム芸術家の作品と同じく、それはミケランジェロがやったよりも遥かに元々のブロックを多く削り取っている(要は彫像の体形が細身になった)。ベンヴェヌート・チェッリーニの『メドゥーサの頭を持つペルセウス』という傑作のブロンズ像は、8方向から設計されたもので、もう一つのマニエリスムの特徴としてミケランジェロやドナテッロ作のダビデ像と比較すると実際のところマンネリである。もともと金細工師だった彼の有名な金と琺瑯でできた『サリエラ(塩入れ)』 (1543)が彼の最初の彫刻で、その才能を最も発揮している。これらの例が示すように、この時代は肖像画を超えた大型作品の世俗的な主題範囲が広がり、神話上の人物が特に好まれた。これらは以前だと大部分が小型の作品で発見されていた。 収集棚向けの小型ブロンズ像は、しばしば(裸体を含む)神話的な主題であり、ルネサンス様式で人気を博した。ジャンボローニャがこの世紀の後半に才能を現し、等身大の彫刻も製作しており、うち2つはシニョーリア広場のコレクションに加わった。彼とその弟子は、多くの場合2人が蛇のように絡み合う細長い「フィグーラ・セルペンティナータ」の作品を考案した。 フォンテーヌブロー宮殿の扉上にあるスタッコ。恐らくフランチェスコ・プリマティッチオ(楕円内を描いた)の設計、1530-1540年代 ベンヴェヌート・チェッリーニ作『メドゥーサの頭を持つペルセウス』1545-1554年 ジャンボローニャ作『サムソンとペリシテ人』1562年頃 ジャンボローニャ作『サビニの女たちの略奪』1583年。高さ4.1mの大理石像(イタリア、フィレンツェ)
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マニエリスム
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美術の領域ではルネサンス時代、ラファエロなどが活躍し、「巨匠」と位置づけられ、さかんに模倣されていた。 ところが、16世紀後半、後期ルネサンスの芸術家たちの考え方に変化が生じ、独創性にこだわりはじめた。「単なる模倣ではダメだ」と、考えるようになり、芸術の領域で、作家ひとりひとりが(積極的に)「新しい何か」を加えてゆく、ということを行うようになった。彼らは、もともと単に「方法」「手法」「様式」などという意味であった「マニエラ」という言葉を「高度な芸術的手法」意味を込めて使うようになった。彼らは、自分たちの手法を「マニエリスム」という表現で呼んでいたが、これは当時「優美で洗練された」といったような意味を持っていた。いわゆる「古典主義」の時代の芸術は、「均整」や「調和(ハルモニア、ハーモニー)」などが重視されていたが、マニエリスムの画家たちは、たとえば人体を描く場合は、わざと蛇みたいに曲がりくねった身体として描いてみせたり、古典主義で使われた均整のとれた構図をわざと歪めてみたり、色彩は実際の色や中間色を良しとしていたのをあえて原色を使ってみる、といったことをするなど、彼らなりの工夫を凝らした。 ところが、これが後の時代になって、「(マニエリスムというのは)単に奇をてらったものだ」として軽蔑されるようになった。17~18世紀には、「マニエリスムというのは、単に前の世代を真似しているだけで、たとえ技巧的には新しいものがあったにしても、(本質的には)何も新しいものはなかった」と否定的な評価が主流になった。
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マニエリスム
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ジュリオ・ロマーノは、実質的にラファエロの後継者と言える人物で、彼の最後の建築であるパラッツォ・マダマの製作にも携わった熟練芸術家であった。彼もまたローマ建築を熱心に観察していたと思われるが、実際に設計された建物を見ると、ブラマンテとは全く違うアプローチでローマ建築を参考にていることが分かる。ジュリオ・ロマーノは、1524年にマントヴァのゴンザーガ家に召還され、パラッツォ・デル・テの設計に携わった。正面ファサードと中庭側のファサード、そして庭園側のファサードは、それぞれ同一のリズムを刻みながら全く異なったモティーフでデザインされており、機知に富んでいる。また、「巨人の間」は、絵画と建築、彫刻を融合した劇場的なイリュージョンを演出しており、ジュリオ・ロマーノの芸術的な感性の高さを物語っている。こうした意匠はローマ建築をよく知る教養人のみを意識したものであり、主題にひねりを加える玄人受けする要素は、ブラマンテのような主題を明快かつ重々しく表現する手法とは正反対である。 ジュリオ・ロマーノとミケランジェロに交流はなかったが、複雑で装飾的、かつ奇抜な芸術作品は二人に共通する特質である。ミケランジェロは、その卓越した才能で、それまで培われた比例やオーダーの規則といったルネサンスの伝統的形態から自由な建築を創造した。 ミケランジェロは、建築と彫刻を分離できない全体要素として構想し、これをサン・ロレンツォ聖堂の新聖器室、ロレンツォ図書館で試みた。両者ともにミケランジェロがローマに出立した1534年までに完成せず、未完のまま残され、1550年代になってジョルジョ・ヴァザーリとバルトロメオ・アンマナーティによって完成されたものだが、彼らはミケランジェロの意図に忠実な仕事を行った。端的に言うと、ミケランジェロはアルベルティやブラマンテの古典主義とは決定的に異なり、比例やオーダーの規則に束縛されなかった。奇妙なオーダー、柱を支持する持送り、盲ニッチ、などの形態は、それまでのルネサンス建築で規範とされたことを無視するものである。また、ロレンツォ図書館では前室を小さな正方形としたが天井は高く設計したのに対し、図書館部分は長く広く設計して低い天井をとるなど、空間そのものの効果をも演出した。ローマに召喚されたミケランジェロは、ユリウス2世の墓標と『最後の審判』の作成に手を取られ、サン・ピエトロ大聖堂の設計に介入することはなかった。彼がローマに着いた時、大聖堂の主任建築家はアントニオ・ダ・サンガッロ・イル・ジョヴァネであった。アントニオは当時ローマを代表する芸術家であり、彼の大聖堂のデザインはブラマンテ案を忠実に再現しようとする試みが随所に見られるが、それに成功しているとは言えず、ミケランジェロはこれを「牛の放牧場」と揶揄した。アントニオの死後、紆余曲折を経て大聖堂の主任建築家の地位はミケランジェロに一任された。高齢のため、彼はそれを望まなかったようであるが、死に至るまでその設計に精力を傾け、工事の大部分を完成させた。ミケランジェロはブラマンテの後継者によって大幅に改編されたプランを本来の集中形式に戻し、それまで行われていた工事の一部を破壊して規模を縮小することで、ドーム架構の構造的問題の解決と工期の大幅な短縮を促した。ドームに到達した時点で、ミケランジェロが死亡し、工事はジャコモ・デッラ・ポルタとドメニコ・フォンターナ、そしてヴィニョーラによって引き継がれた。サン・ピエトロ大聖堂に携わる一方で、ミケランジェロはパラッツォ・ファルネーゼとカンピドリオ広場(両者とも1546年頃)、ディオクレアヌス浴場のサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ聖堂改装の設計も行っている。ミケランジェロは、ルネサンスの規範を故意に無視し、様々な手法を組み合わせて独創的な空間を作り上げたが、その効果は彼自身の力量によるところが大きい。ジョルジョ・ヴァザーリは、ミケランジェロの意匠が非常に素晴らしいものであることを認めたが、同時にそれを才能のない芸術家が真似ることを警戒した。しかし、ミケランジェロ自身の作風はあまりに個性的すぎ、また彼に追従することのできる芸術家がいなかったため急速に廃れ、代わってジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラの作風が流行した。 ローマ略奪の後、16世紀半ばにようやくローマの建築活動は息を吹き返し、アントニオ・ダ・サンガッロやジャコモ・デッラ・ポルタ、バルトロメオ・アンマナーティ、ジョルジョ・ヴァザーリといった芸術家が活動を再開した。ミケランジェロがあまりにも偉大であるため、彼ら、とりわけヴィニョーラは影の薄い存在になっているが、ヴィニョーラもまた、当時の建築活動の際最も大きな影響を与えた人物のひとりである。ヴィニョーラは、ローマ建築の素描をおこなうことから建築に携わるようになり、ミケランジェロとは違って古典建築のモティーフをいかなる建築にも当てはめることができるような、つまり古典的要素の一般化を行うことから出発した。彼は、アンマナーティ、ヴァザーリとともにヴィラ・ジュリアの設計を行い、中庭の扱い方などにブラマンテのベルヴェデーレのモティーフを取り入れたが、直線的な正面ファサードに対して庭園側の正面はえぐれたような曲線を取り入れて両者を鋭く対照させている。ヴィテルボ近郊にあるヴィッラ・ファルネーゼは、元来は本格的な城郭であったが、ヴィニョーラはアントニオ・ダ・サンガッロとバルダッサーレ・ペルッツィの設計した五角形平面をそのまま踏襲し、上部構造と円形の中庭部分の設計に携わった。中庭のデザインは、やはりブラマンテのベルヴェデーレのモティーフを使い、内部の螺旋階段などは洗練された精神を感じさせる。両者ともにブラマンテのデザインを取り入れているが、ブラマンテの大規模な建築と比べると、小振りではあるが優雅であると言える。デザインは適度に抑制されており、ミケランジェロのそれに比べると、たしかに模倣しやすかったであろう。彼が後世に与えた最も大きな影響は、オーダーの標準的なテキストとなった著作『5つのオーダー』と、イエズス会の本部があったジェズ教会のデザインである。ジェズ教会は、アルベルティのサンタンドレア教会のプランとサンタ・マリア・ノヴェッラ教会のファサードに由来するもので、その原案はミケランジェロの手による。現在に見るファサードはジャコモ・デッラ・ポルタにより修正を受け、内部装飾は17世紀後期と19世紀に改修されて原案の通りではなが、平面はヴィニョーラの設計で、アルベルティのサンタンドレア聖堂と同じヴォールト天井を採用したラテン十字平面である。会衆に対する説教に合わせた大きさに設計されており、以後イエズス会の布教活動の発展とともに世界中で模倣された。
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マニエリスム
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バッサーノの作品『最後の晩餐』(Last Supper, 1542年)は、イタリア美術におけるマニエリスムへの新しい関心を示している。作品の中でバッサーノはデューラーの版画とラファエロの絵画に関連する影響を表現している。これは特に主題の非常に熱を帯びた感情と人物像の動的で高度に様式化された姿勢によって表される。彼がマニエリスムの高度に発達したデザインの要素に傾倒していたことは、キャンバスのディテールごとに鑑賞者の目を引くアクティブな構成を作り出す注意深い配置と「人物」の特徴から明らかである。より安定した以前の人物像と比較して『最後の晩餐』の人物像は初期の作品のぎこちない古びた姿勢ではなく、肌が皮膚の下の筋肉と腱を示唆しており、生きているように見える。 バッサーノは1550年代から1570年代頃に照明および主題の面で試行を始めた。画家が人工照明で夜の風景を描いたのはこの時期である。バッサーノは「夜想画」を描いた最初期の芸術家の1人として知られるが、このタイプの絵画は地元で非常に人気があり高く評価された。バッサーノはまた作品の中で彼の父親と彼の環境の一部の両方によって描かれた牧歌的な要素をより顕著に際立たせ始めた。ルネッサンス期のバッサーノと同等の芸術家が行ったように、古典的なローマの設定で宗教的場面を配置するのではなく、人物をより自然な風景の中に配置して、木々や花々を人物の姿と同じように注意深く描写した。
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マニエリスム
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「フォンテーヌブロー宮殿」の記事における「マニエリスム」の解説
宮殿の内装や庭は、フランスにイタリアのマニエリスム様式を導入しフランス風に解釈しなおしたものである。16世紀のフランスにおけるマニエリスム様式の室内装飾は「フォンテーヌブロー様式」として知られている。これは彫刻、金工、絵画、漆喰装飾、木工を組み合わせ、屋外庭園には図案化した花壇のパルテアなどを取り入れたものである。フォンテーヌブロー様式では寓意的な絵が漆喰のモールドに使われている。アラベスクやグロテスクも取り入れられ、縁取りはまるで皮か紙であるかのように、切り口が巻き上がった形に仕上げられている。 フォンテーヌブローにおける女性美の表現は「マンネリ」である。小さくてこぎれいな顔と長い首、過度に長い胴や四肢、小さくて高い位置にある胸、といった類であり、後期ゴシックの美の表現へほぼ回帰している。 フォンテーヌブローにおける新しさは洗練された細かな彫刻の意匠にあり、これらは鑑定家や芸術家の間に広がっていった。フォンテーヌブロー派による彫刻を通して、この新しいスタイルは他のヨーロッパ中北部、アントウェルペンを筆頭に、ドイツ、ついにはロンドンにまで波及した。
※この「マニエリスム」の解説は、「フォンテーヌブロー宮殿」の解説の一部です。
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