ロマネスク建築
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ロマネスク建築(ロマネスクけんちく、英: Romanesque architecture)は、10世紀末から12世紀にかけて、ヨーロッパ各地で展開した建築様式である[1][2]。
- ^ 西田雅嗣『建築史 西洋の建築』、101頁。
- ^ “LIFUL HOMES「ロマネスク様式」”. 2024年4月1日閲覧。
- ^ “LIFUL HOMES「ロマネスク様式」”. 2024年4月1日閲覧。
- ^ 『新装版 図説 西洋建築の歴史』河出書房新社、2022、111頁。
- ^ 馬杉宗夫、p42-p43。ロマネスクという言葉は1818年にフランスの考古学者ジェルヴィルのopus romanumに端を発する。中世建築の再評価が始まるのは1840年頃からであり、しかも、まずそれはゴシック建築であった。ロマネスク美術の評価は、アンリ・フォションによって1930年代から始まる。辻佐保子訳『ロマネスク彫刻 形体の歴史を求めて』がある。(1975年、中央公論社)
- ^ N.ペヴスナー、J.フレミング、H.オナー、p514。
- ^ H.E.クーバッハ『図説世界建築史』ロマネスク建築p6-p7。当時の西ヨーロッパが他の地域と全く交流がなかったわけではなく、大シスマの後も東ローマ帝国との交流は盛んであった。それだけに、その独自性は注目に値する。
- ^ a b N.ペヴスナー、p51。
- ^ H.E.クーバッハ『図説世界建築史ロマネスク建築』p10。
- ^ H.E.クーバッハ『図説世界建築史ロマネスク建築』p16-p17。
- ^ 馬杉宗夫、p58。
- ^ H.E.クーバッハ『図説世界建築史』p22。両方の説は互いに排除しあうものではなく、両方の機能があった可能性もある。
- ^ N.ペヴスナー、p40。
- ^ ただし、ローマ帝国(独:Romisches Reich)と名乗ったのはコンラート2世、神聖ローマ帝国(独:Heiliges Romisches Reich)の呼称が用いられるようになるのは、後の時代、いわゆる「大空位時代」にあたる1254年である。
- ^ 菊池良生、p53。オットー1世は聖職者を雇用するとともに、各教会組織に対して諸侯並みの権限を与える代わりに、司教の選任権を行使して教会組織を管理した。しかし、これは聖職者に政治的権力を与えることになり、後に封建領主的な大司教、大修道院を作り出すことになる。
- ^ ただし、この教会堂は創建当時のまま残っているわけではなく、第二次世界大戦によって大破し、その後修復された。
- ^ 身廊と側廊をアーケード(列柱)で分離する場合、アーケードの柱を円柱-角柱-円柱-角柱、あるいは円柱-円柱-角柱-円柱-円柱-角柱などと配置することで、強弱を繰り返すパターン。この方式だと、円柱のみのアーケードよりも強度が増し、構造は安定する。
- ^ H. E.クーバッハ、p76。
- ^ H.E.クーバッハ、p98-p99。
- ^ H.E.クーバッハ、p107。
- ^ H.E.クーバッハ、p48。初期ロマネスク建築で、当時のまま残っている建築物はなく、塔自体が後世の改築か増築によるためである。
- ^ ポンポーサのベネディクト会修道院の付属教会堂であるサンタ・マリーア聖堂は8世紀に建設されたものだが、1063年に建設された単塔が残る。その他、西正面ではないが、ラヴェンナのサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂にも10世紀の円形鐘楼がある。
- ^ 初期キリスト教建築では、壁面にモザイク画、フレスコ画を描き、壁面を強調しない。この効果は、ラヴェンナのサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂や、シチリア島のモンレアーレ大聖堂において実感することができる。
- ^ 馬杉宗夫、p63。ザンクト・ミヒャエル聖堂の平面は、身廊と袖廊の幅が同じなので、その交差部分は正方形となる。この交差部分の柱間と同じ間隔で、身廊のアーケードにピアが配置され、その間に円柱が配置されている。しかし、かなり控え目な措置なので、それと認識しなければ気づかれない。
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