20世紀初
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20世紀初頭、辛亥革命と中華民国成立の影響により、大量の知識人と清朝の官僚が香港に移住し、多くの中国語学校が設立された。これらの学校では中国語による教育を行い、中国文化を教授し、また五四運動による新思潮が流入した。イギリス政府は香港の教育問題に関心を持ち、1935年5月にはバーニー(E. Burney) 視察官を派遣し、イギリス国会に対し報告書を提出させている。報告書では政府は一部上流階級子女に限定した教育政策を改め、香港で多数派の中国人に対する教育の必要性を説き、同時に中国語教育と初級教育の整備を提言した。香港政庁は英語教育とエリート教育を保持したままこの提言を受け入れている。また民族主義の影響を受け、香港ではこの時期から次第に教育の現地化政策が採られるようになっていった。 香港政庁の教育の現地化は中国語学校の設立と中国語教育を柱としていた。1912年9月、教育局は漢文教育組(Chinese Vernaculate Education Board)を組織し中国語教育の発展と助成業務を担当した(翌年廃止)。また1920年には漢文師範学堂を開設し、中国語教員の育成に着手した。漢文師範学堂は当初男子校であった。女子に対するものとして1925年に庇理羅士女子中学が開校している。1926年は新界への教育普及が見られ、新界での小学校教師を養成する目的の官立大埔漢文師範学堂、同年3月1日には官立漢文中学が設立され、漢文師範学堂と合併している。これらの師範学堂は中国語による授業を実施していた。また1913年には香港科技専科学校の皇仁書院に漢文師資班が設置され、これらを総称して「漢文師範」と称されたが、現実として漢文師範では人材不足から教員養成は順風満帆ではなかった。その後上述のバーニー報告書と、1937年の裁判官リンゼル (R.E. Lindsell) らによる委員会の提言により、1939年に香港師資学院を設置している。 漢文師範以外、一般人に対する中国語の教育機関の整備もこの時期大幅な改善を見た。著名なものとしてはユダヤ人カドゥーリー (Ellis Kadoorie) と紳商の劉鑄伯が開校した育才書院、西南中学、民生書院などがある。これら中国語学校が大量に出現したことで、香港には2種類の中学制度が存在することとなった。辛亥革命以降、中華民国教育部は六三三の教育制度を発布し伝統的な家塾制度を廃止した。1928年には香港でも、中華民国の学校への進学に対応できるよう六三三の学制が施行された。また同時に英語学校ではイギリスの教育制度を採用し、予科課程を採用していた。また私立中学では1931年より広東省教育庁の高級・初級中学の試験に参加できるなど、地位は特殊であった。この二重制度は1965年に香港中学会考に統一されるまで存続した。 また香港の人口が急増し統治機構の人材養成を行う必要に迫られ、同時に中国内地の影響を強く受けることとなった。フレデリック・ルガード総督は1908年に聖士提反書院の卒業式の中で新たに大学を設置する意向を表明、1912年に香港初の大学として香港大学が開校した。開講当初は医学部と工学部のみであったが、後に文学部や教育学科などが次第に整備されていった。当時の主な教授は外国からの招聘教官であり、中国語学科のみ許地山等の華人が登用されていた。1911年に交付された『香港大学堂憲章』では、香港大学は香港政庁ではなく、イギリス政府に直接帰属すると規定され、学長は総督が任命し、実際の職務は副学長が担当、理事会によって意思決定がなされると定められている。開学時はイギリス政府は年間300ポンドのみの財政支援を行い、建築費用は各界の寄付により資金が調達された。大学は多くの官僚を輩出している。 この時期に整備された教育関係の法律としては1913年に成立した『1913教育条例』がある。これは全ての補助資金や私立学校は香港政庁の監督を受けることになり、違反者には罰則を科すものであった。
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