徳川吉宗 政策・信条

徳川吉宗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 22:57 UTC 版)

政策・信条

方針

  • 吉宗は将軍就任後、新井白石らの手による「正徳の治」で行われた法令を多く廃止した。これは白石の方針が間違っているとの考えによるものであるが、正しいと考えた方針には理解を示し、廃止しなかった。そのため、吉宗は単純に白石が嫌いであると思っていた幕臣たちは驚き、吉宗の考えが理解できなかったという。なお、一説には吉宗は白石の著書を廃棄して学問的な弾圧をも加えたとも言われている。
  • 一方で、幕府創設者である徳川家康と並んで幕政改革に熱心であった第5代将軍・綱吉を尊敬し、綱吉が定めた「生類憐れみの令」を即日廃止した第6代将軍・家宣を批判したと言われる。ただし、綱吉の代に禁止されていた犬追物鷹狩の復活も行なっており、必ずしも綱吉の政策に盲従していたわけではない。
  • 江戸幕府の基本政策である治水や埋め立て、町場の整備の一環として飛鳥山隅田川堤などへ桜の植樹をしたことでも知られる。

倹約

  • 肌着は木綿と決めて、それ以外のものは着用せず、鷹狩の際の羽織や袴も木綿と定めていた。平日の食事は一汁一菜と決め、その回数も一日に朝夕の二食を原則としていた[12]
  • 吉宗を将軍に指名した天英院に対しては、年間1万2千両という格別な報酬を与え、さらに家継の生母・月光院にも居所として吹上御殿を建設し、年間1万両にも及ぶ報酬を与えるなどしており、天英院の影響下にある大奥の上層部の経費削減には手を付けることはなかった。

経済

  • 江戸時代の税制の基本であった米価の調節に努め、上米の制定免法新田開発などの米政策を実行したことによって吉宗は「米将軍」、また「米」の字を分解して「八十八将軍」または「八木将軍」とも呼ばれた。
    • 吉宗の死後、傍らに置いていた箱の中から数百枚の反故紙が見つかった。そこには細かい文字で、浅草の米相場価格がびっしりと書かれていた、と伝わる。
  • 商品作物酪農などの新しい農業を推奨した。それまで清国からの輸入に頼るしかなかった貴重品の砂糖を日本でも生産できないかと考えてサトウキビの栽培を試みた結果、後に日本初の国産の砂糖として商品化に成功したのが和三盆である。その他、飢饉の際に役立つ救荒作物としてサツマイモの栽培を全国に奨励した。
  • 御三家筆頭尾張家徳川宗春は吉宗と異なった経済政策を取り、積極政策による自由経済の発展を図ったが、吉宗の施政に反する独自政策や宗春の行動が幕府に快く思われず、尾張藩と幕府との関係が悪化した[注釈 6][注釈 7]。尾張藩家老竹腰正武らは宗春の失脚を企て、同じく成瀬正泰は尾張家の存続を第一と考えたため[14]、宗春は隠居謹慎の上、閉門を命じられ、その処分は宗春の死後も解かれることがなかった[注釈 8][注釈 9]。また、高尾太夫を落籍し、華美な遊興で知られた榊原政岑も処罰するなど[注釈 10]、自らの方針に反対する者は親藩であろうと譜代の重鎮であろうとも容赦はしないことで、幕府の権威を強力に見せつけた。
  • 吉宗は将軍に就任するなり新井白石を罷免したが、白石が着手し、元禄・宝永金銀と混在流通の状態に陥っていた正徳金の通用については一段と強力な措置を講じた[16]。享保3年(1718年)には通用銀を宝永銀から正徳銀へ変更し、享保7年末(1723年)限りで元禄金宝永銀を通用停止とした。しかし米価の下落から困窮していた武士や農民の救済のため金銀の品位を下げ流通量を増やすべきとする大岡忠相の強い進言に折れ政策を転換した[17][18]元文元年(1736年)に行われた元文の改鋳は、日本経済に好影響をもたらした数少ない貨幣改鋳であるとして、積極的に評価されている[19]。吉宗は以前の改鋳が庶民を苦しめたこともあり、この改鋳に当初は否定的であったが、貨幣の材質を落とすことで製造上の差益を得る目的であった過去の改鋳と違い、元文の改鋳は純粋に通貨供給量を増やすものであった。元文の通貨は以後80年間安定を続けた。
  • 吉宗の行なった享保の改革は一応成功し、幕府財政もある程度は再建された。そのため、この改革はのちの寛政の改革天保の改革などの基本となった。ただし、財政再建の一番の要因は上米令と増税によるものであったが、上米令は将軍権威の失墜を招きかねないため一時的なものにならざるを得ず、増税は百姓一揆の頻発を招いた。そのため、寛政・天保の両改革ではこれらの政策を継承できず、結局失敗に終わった。

保安

  • 和歌山藩の基幹産業の一つである捕鯨との関わりも深く、熊野の鯨組に軍事訓練を兼ねた大規模捕鯨を1702年(元禄15年)と1710年(宝永7年)に紀伊熊野の瀬戸と湯崎(和歌山県白浜町)の2度実施させており、その際は自ら観覧している。また、熊野灘の鯨山見(高台にある鯨の探索や捕鯨の司令塔)から和歌山城まで狼煙を使った海上保安の連絡網を設けていた。
  • 将軍就任後、河川氾濫による被災者の救出や、江戸湾へ流出した河川荷役、塵芥の回収に、鯨舟(古式捕鯨の和船)を使い、「鯨船鞘廻御用」という役職を設けて海上保安に努めた。
  • 海防政策としては大船建造の禁を踏襲しつつも下田より浦賀を重視し、奉行所の移転や船改めを行い警戒に当たった。
  • 将軍として初めて「御庭番」を創設し、諸藩や反逆者を取り締まらせた[注釈 11]

注釈

  1. ^ 血液型は、徳川家綱と同じO型だったとされている[2]
  2. ^ 他に秀忠の男系子孫には保科正之に始まる会津松平家があり、秀忠の家系を伝えていた。だが保科家は御連枝や親藩ですらない譜代大名である。
  3. ^ 両者に関しては和歌山藩による陰謀・暗殺とする説もある。
  4. ^ 徳川家宣の御台所天英院の姪であり、2代将軍徳川秀忠の娘和子の玄孫でもある。また姉の尚子は後に中御門天皇の女御として桜町天皇を産んでいる。
  5. ^ 御連枝としていまだ独立もしていないのに従四位下左近衛権少将に昇進している[5]。ただし、任じられたのはようやく21歳になってからのこと。弟の松平通温も部屋住みであったが正徳2年(1712年)には15歳で従四位下侍従兼安房守、同4年(1714年)には左近衛権少将に任官されている。継友が権少将に任官した正徳2年12月当時の藩主の吉通は24歳、五郎太は1歳であり、継友ら兄弟は、当主の吉通らが病没するなどの非常時のための後継候補要員として官位などが用意されていた、とも考えられる。さらに和歌山藩の場合、部屋住みのまま頼職は15歳で従四位下左近衛権少将兼内蔵頭、頼久(のちの吉宗)も12歳で従四位下・右近衛権少将兼主税頭に任じられている上に、気前のい綱吉とはいえ、翌年には兄弟に新規所領が与えられている。
  6. ^ 御三家筆頭の名古屋藩と、二番手である和歌山藩出身の吉宗、および将軍家との格式の張り合い、また8代将軍選定時の尾張藩(先代の継友)と吉宗との遺恨、朝廷派の尾張藩と幕府の対立なども含まれるとされる。
  7. ^ ただし、宗春が吉宗を直接批判した文章は残っていない。吉宗は宗春にたいへん目をかけていた記録も散見される[13]。宗春が江戸でも尾張藩内と同じように派手な言動をとった記録は、市谷尾張藩邸の新築時に江戸庶民に開放した享保17年5月の端午の節句以外の直接的な資料はいまだ見つかっていない。
  8. ^ 1764年に赦免されるまで、墓石には罪人を示す金網が被せられていたとされているが、金網が被せられていたことを裏付ける史料は見つかっていない。
  9. ^ 吉宗は謹慎中の宗春に対し、生活を気遣う使者を送っている[15]
  10. ^ 前述の宗春も芸者を落籍して側室としている。
  11. ^ 誇大に語られる御庭番だが、実態としては大目付目付を補う、小回りの利く将軍直属の監察官秘書官に近い。

出典

  1. ^ 徳川吉宗』 - コトバンク
  2. ^ 得能審二『江戸時代を観る』リバティ書房、1994年、122-138頁
  3. ^ 豊臣秀頼などもこの体裁を取っている。
  4. ^ 小山誉城「紀州徳川家の参勤交代」(『徳川将軍家と紀伊徳川家』精文堂出版、2011年)
  5. ^ 『尾藩世記』『尾張徳川家系譜』『徳川実紀』より。
  6. ^ 福留真紀 『将軍と側近 室鳩巣の手紙を読む』( 新潮社、2014年12月20日、pp.140-141)
  7. ^ a b c 小笠原政登著・『吉宗公 御一代記』
  8. ^ a b 篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』(新潮新書2005年5月ISBN 978-4106101199)より。また、謎解き!江戸のススメBS-TBS2015年3月9日放送)でも紹介された。
  9. ^ 『像志』(当時のベストセラー)(1729年)
  10. ^ 『象の旅長崎から江戸へ』石坂昌三(1992年)
  11. ^ a b 宮本義己『歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』(中央労働災害防止協会、2002年、243頁)
  12. ^ 宮本義己『歴史をつくった人びとの健康法―生涯現役をつらぬく―』(中央労働災害防止協会、2002年、243-244頁)
  13. ^ 徳川実紀
  14. ^ NHK『その時歴史が動いた』2008年9月17日放送
  15. ^ 『尾公口授』江戸時代写本
  16. ^ 瀧澤・西脇『日本史小百科「貨幣」』270-271頁
  17. ^ 三上隆三『江戸の貨幣物語』189-191頁
  18. ^ 河合敦『なぜ偉人たちは教科書から消えたのか』128-133頁
  19. ^ 日本銀行金融研究所貨幣博物館:貨幣の散歩道 Archived 1999年2月9日, at the Wayback Machine.
  20. ^ 将軍の肖像画、下絵はリアル 徳川宗家に伝来、研究進む:朝日新聞2012年8月8日
  21. ^ 鶴は千年、亀は萬年。 2012年8月8日付[リンク切れ]


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