宝とも子 宝とも子の概要

宝とも子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/06 14:59 UTC 版)

宝とも子(1954年)

略歴

1934年、13歳で宝塚少女歌劇団に入団。その後、声楽専科に所属。24期生。オルガ・カラスロワに師事してクラシックを学んだ。戦時中は宝塚慰問隊の一員としてハルビンを巡業した。月組スターとして活躍。

10年在籍後、1945年宝塚を退団。退団後はNHKラジオ大阪の歌謡歌手として関西を中心に活躍し『ラジオ歌謡』などに出演した他、『宝とも子アワー』などの番組を持った。東京キューバン・ボーイズのバンドマスター・見砂直照に認められ脚光を浴び、1954年2月、日本ビクターより「白樺の雨~星屑のタンゴ」でレコードデビュー。これを機に東京に進出し同年4月『セ・シ・ボン』を発表、「歌い方がセクシー過ぎる」と投書が相次ぎ発禁処分となったが、曲は大ヒットし一躍その名を轟かせた。

1955年からNHK紅白歌合戦にも4度出場、ラテンの女王と謳われた。

1958年、中南米に渡り修行を積みブラジルなどのテレビやクラブに出演。帰国後1965年、宝塚の同期生池真理子らと日本ラテン音楽協会を創設、代表としてラテン音楽の普及など多くの功績を残した。

1970年代半ばに金沢北陸放送で「日本列島ここが真ん中」というお昼のラジオ番組のレギュラーゲストを務めた。月1、2回程度の出演で台本原稿なしで金沢の街を3時間余り、街の人たちと喋りながら、たまに歌ったりして歩くというものだった。

テレビ番組

ラジオ番組

NHK紅白歌合戦出場歴

年度/放送回 曲目 対戦相手 備考
1955年(昭和30年)/第6回 インディアン・ラブコール 浜口庫之助
1956年(昭和31年)/第7回 セ・シ・ボン 高英男
1959年(昭和34年)/第10回 シェリト・リンド ダークダックス 「ヴォーカル・トリオ」として出場、有明ユリ藤崎世津子と共演
1960年(昭和35年)/第11回 カチート 笈田敏夫

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