自然哲学者とは? わかりやすく解説

自然哲学

(自然哲学者 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/25 05:33 UTC 版)

ニュートンの主著『自然哲学の数学的諸原理』通称「プリンキピア」
アタナシウス・キルヒャー『磁石あるいは磁気の術について』(1641年)口絵。知識の各分野と神・人間・自然の相互の結びつきが表現されている。外円は神学を頂点にした各分野。内円は「星界」(月より遠くにあるすべてのもの)、「月下界」(地球とのその大気)、「ミクロコスモス」(人間)で、中心にあるのは神の精神たる「原型世界」(羅:mundus archetypus)[1]

自然哲学(しぜんてつがく、: philosophia naturalis)とは、自然事象や生起についての体系的理解および理論的考察の総称であり、自然を総合的・統一的に解釈し説明しようとする形而上学である[2]自然学(羅: physica)と呼ばれた[2]自然、すなわちありとあらゆるものごとのnature(本性、自然 : nature: Natur[3]に関する哲学である。しかし同時に人間の本性の分析を含むこともあり、神学形而上学心理学道徳哲学をも含む[4]。自然哲学の一面として、自然魔術(羅: magia naturalis[注 1]がある。自然哲学は、学問の各分野の間においても宇宙の様々な局面の間でも、事物が相互に結ばれているという感覚を特徴とする[1]

現在では、「自然科学」とほぼ同義語として限定された意味で用いられることもあるが、その範囲と意図はもっと広大である[1]。「自然哲学」は、主にルネサンス以降の近代自然科学の確立期から19世紀初頭までの間の諸考察を指すといったほうが良いだろう。自然哲学的な観点が、より専門化・細分化された狭い「科学的な」観点に徐々に取って代わられるのは、19世紀になってからである[1]

自然哲学の探求者の多くは宗教的な人間であり、抑圧的な宗教者と科学者の戦いという図式ではなかった[注 2]。世界は「自然という書物」であり、神のメッセージだと考えられていたのである[1]。ヨーロッパでは近代まで、ほとんど全ての科学思想家はキリスト教を信じ実践しており、神学的真実と科学的真実の間の相互連結に疑いはなかった[1]ジョンズ・ホプキンス大学教授ローレンス・M・プリンチペ英語版は、科学の探求に無神論的な視点が必要であるという考え方は、20世紀に作られた神話にすぎないと指摘している[1]

起源

その由来は西洋哲学の起源であるタレスミレトス学派イオニア学派の「アルケー(根源・始原)の問い」に求めることができ、以後、優れた観察や分析が行われる。

また、アリストテレスを祖とするペリパトス派逍遥学派)においては、自然哲学(自然学)は、第一哲学形而上学)と共に「テオーリア(観照・理論)」部門を形成し、倫理学政治学から成る「プラクシス(実践)」部門と並ぶ哲学の二部門の1つとして扱われるようになった(ここに更に、哲学のための「オルガノン(道具)」としての論理学と、「ポイエーシス(制作学・制作術)」としての弁論術詩学が加わる)。

中世 - 近代

中世、古代ギリシャの『自然学』的自然観アルベルトゥス・マグヌスの検証紹介以降にほぼドグマ化したスコラ学の下では、自然哲学は停滞するが、ルネサンス期を経て、ベーコンデカルトらによって近代科学的方法が確立されると、哲学的諸問題に対する自然哲学の重要性はさらに増した。一方で、それは自然哲学と自然科学とが分離する前触れでもあった。ドイツ観念論における自然哲学は分離しつつあった両者を哲学的原理から統合しようとする試みとして捉えることができる。

生物学

生物学において、この時期に盛んであった比較解剖学が、多くこの流れを受けている。ゲーテもこの分野に多くの影響を与えた。彼は植物において花弁がいずれもの変形であることを見出し、このような変形を変態と呼んで、生物の構造の発展に重要なものと考えた。さらに後の研究者はこのような観点から、多様な生物の形態にはその基本となる『型』が存在すると考えた。このような考えは例えば相同器官相似器官といった概念を生み出し、あるいは同一構造の繰り返し構造(体節など)を認めることで動物の体制の理解などを推し進めた。しかしそれは往々にして恣意的な想像を広げることとなり、たとえばサン・ティレールは節足動物の付属肢と脊椎動物の肋骨を相同とする論を述べた。これには実証主義を掲げて比較解剖学を刷新したキュビエが強く反対し、大論争の末にキュビエが勝ったのは有名である。

他方、キュビエは実証主義にこだわって思想性を失った結果、天変地異説を唱えてラマルク進化論に反対する等、大局的には大きく見誤ったといえる。むしろ自然哲学の流れの最後尾に属するラマルク(彼は当時から『最後の哲学者』といわれた。これには揶揄の意が込められていた)が内容は誤っていたが進化論を創造した点は重要であると八杉竜一は述べている[5]

なお、比較解剖学の思想的な流れは19世紀に発生学に受け継がれる。発生学の中で比較発生学という流れが起こり、この分野が比較解剖学が生んだ相同性などの考え方の裏付けを作り始める。同時にこれらの分野が生んだ進化論が表舞台に出ると、比較発生学はそれを裏付けると同時に、それを適用することで系統論を生み出した。その方向の頂点に立つヘッケルはこの視点を徹底化することで全動物群の系統を論じることを可能にしたが、その過程で事実の様々な歪曲を行っている。これが後の世代から批判されることとなったのは、観念論的解剖学がキュビエの餌食になったのの二の舞を演じているように見える。ちなみにヘッケルが生物学の歴史を論じているものの中で、彼は観念論的解剖学を高く評価するとともにキュビエの立場をつまらない、低級なものとこき下ろしている。

近代 - 現代

19世紀以降、近代科学の発展や細分化などに伴い、これまで区別が曖昧であった自然科学と自然哲学の両者は完全に分離して考えられるようになった。現在では自然科学諸分野の知識を包括的・全体的に捉えた考察に対して限定的に用いられることがあるが、「自然哲学」を標榜する哲学者は極めて少ない。

しかし、これは「自然哲学」の消滅、もしくは、哲学と自然科学とが相反するものであることを示すものではない。現在においても自然科学の成果を踏まえる形での哲学的考察は多くの哲学者によって行われており、現在においても両者の親和性は高い。加えて、現代哲学は、過去の哲学を否定するものではない。こうした意味でも、現在でも自然哲学は生きていると考えられる。

脚注

注釈

  1. ^ ファンタジーに描かれる「魔法」とは異なる。「魔術」は、世界の中に埋め込まれた結びつきを学び、制御し、実践的な目的のために制御することを目指していた。右のキルヒャーの口絵では、「算術」と「医学」の間に置かれ、「太陽を追うヒマワリ」で表されている。
  2. ^ この図式は、19世紀後半に考案されて普及した神話である。

出典

  1. ^ a b c d e f g ローレンス・M・プリンチペ 著 『科学革命』 菅谷暁・山田俊弘 訳、丸善出版、2014年
  2. ^ a b 「自然哲学 physica; philosophia naturalis」『ブリタニカ国際大百科事典」
  3. ^ Droz, Layna; Chen, Hsun-Mei; Chu, Hung-Tao; Fajrini, Rika; Imbong, Jerry; Jannel, Romaric; Komatsubara, Orika; Lagasca-Hiloma, Concordia Marie A. et al. (2022-05-31). “Exploring the diversity of conceptualizations of nature in East and South-East Asia” (英語). Humanities and Social Sciences Communications 9 (1): 1–12. doi:10.1057/s41599-022-01186-5. ISSN 2662-9992. https://www.nature.com/articles/s41599-022-01186-5. 
  4. ^ 岩波『哲学・思想 辞典』
  5. ^ 八杉竜一、『進化学序論』、(1965)、岩波書店、p.29

参考文献

  • 八杉竜一 著 『進化学序論』、岩波書店、1965年
  • 八杉竜一 著 『進化論の歴史』、岩波新書、1969年
  • ローレンス・M・プリンチペ 著 『科学革命』 菅谷暁・山田俊弘 訳、丸善出版、2014年

関連項目

外部リンク


自然哲学者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:32 UTC 版)

枢軸時代」の記事における「自然哲学者」の解説

ギリシャ哲学紀元前6世紀頃、小アジアイオニア地方栄えたポリス共同体の生活を基盤として生まれた当時市民たちは、生活の労苦大部分奴隷の手にまかせ、自分たちは会話討論没頭する閑暇スコレー、scholē ) をもつことができた。生活上のゆとりをもった市民たちの自由な討論は、理性ロゴスlogos )を発達させ、理性通して感覚的なものの背後にあるもの、個々事物越えて存在する普遍的客観的原理とらえようとする態度生んだこうした静観的観想的態度をテオリア(theoria ) とよんでいる。そして、このような態度は、変転きわまりない自然を成り立たせている根源アルケー、arkhē )は何かを探究させることとなり、タレスに始まる「自然哲学者」と呼ばれる一群下表)を生むこととなった哲学者思想内容特色タレス(BC624?–BC546?) ミレトス学派最初哲学者万物の根源であると説いたアナクシマンドロス(BC610?–BC547?) ミレトス学派と火のように対立するものが共に生み出されてくるようなもの、つまり「限りなくつづくもの(ト・アペイロン)」が万物の根源であるとした。 アナクシメネス(BC585?–BC528?) ミレトス学派。「ト・アペイロン」を空気ととらえ、空気希薄化濃厚化で万物説明しようとした。 ヘラクレイトス(BC544?–?) 変化こそが世界真実であるとし、「万物は火の交換物」、「万物流転する」と説いた弁証法的世界観創始者ピュタゴラス(BC582?–BC497) 数の関係にしたがって万物秩序コスモス)が保たれているとした。「ピタゴラスの定理」で有名。ピュタゴラス学派形成パルメニデス(BC515?–BC445?) エレア派。「有るものが有り、無いものは無い」の命題から出発事物生成消滅運動変化否定したクセノファネス(BC6世紀前半–BC5世紀前半エレア派。「神はたただ一つ不動不滅一にして一切」と説くゼノン(BC495?–BC435?) エレア派パルメニデス弟子雑多否定運動の否定。「ゼノンパラドクス」で有名。 メリッソス(BC5世紀活躍エレア派パルメニデス思想継承。「有るもの」を空間的にも無限とした。 アナクサゴラス(BC500?–BC428?) 多元論者。万物知性ヌース)によって混沌カオス)から形成されたと説くエンペドクレス(BC493?–BC433?) 多元論者。四元素説。火・空気水・地4つ元素愛憎2つの力によって多様な現象説明したレウキッポス(BC5世紀後半活躍多元論者。原子論の提唱デモクリトスの師。 デモクリトス(BC460?–BC370?) 多元論者。原子論確立最初唯物論者万物の根源として、それ以上分割不可能な原子アトム)を考え、その集合離散によって全自然現象説明しようとした。 上述スコレー(生活上のゆとり)とテオリア(観想)的態度によって、実用からはなれ、自由に真理求め愛するというフィロソフィアphilosophia愛知の学=哲学) の精神はぐくまれていった最初哲学者タレスは、アルケーであるとしたが、これは、あらゆる生きものなくては生きられないという経験的事実から出発し思弁によって論理的に結論導いたという点で神話的思考超え、はじめて学問的精神を示すものであった

※この「自然哲学者」の解説は、「枢軸時代」の解説の一部です。
「自然哲学者」を含む「枢軸時代」の記事については、「枢軸時代」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「自然哲学者」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「自然哲学者」の関連用語

自然哲学者のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



自然哲学者のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの自然哲学 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの枢軸時代 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS