自然哲学者として: 電気、光学、炭酸水
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「ジョゼフ・プリーストリー」の記事における「自然哲学者として: 電気、光学、炭酸水」の解説
本人は自然哲学を単なる趣味だとしていたが、真面目に取り組んでいる。History of Electricity の中で、科学者を「人類の安全と幸福」を推進する者だと記している。科学の実用面を重視し、理論的問題はめったに扱わなかった。ベンジャミン・フランクリンを理想としていた。リーズに移ってからも電気や化学の実験を続けていた。化学の実験については、近隣の醸造所から二酸化炭素をもらっていた。1767年から1770年にかけて、そうした実験について王立協会に5つの論文を提出している。そのうち4つめまでの論文はコロナ放電などの放電現象についてもので、5つめは様々な炭の電気伝導性に関するものである。その後、化学および空圧に関する実験を主に行った。 1772年、5巻の実験哲学史についての著作の1巻目 The History and Present State of Discoveries Relating to Vision, Light and Colours(通称 Optics)を出版。光学の歴史と同時代の光学実験について見事に解説しているが、数学的素養が不足していたため、最新の重要な理論については言及を避けている。さらに History of Electricity が自然哲学者にとって便利だったのは実験について詳しく解説していたからだが、こちらの著作ではそれもなかった。そのため評価は高くなく再版もされなかったが、光学についての英語の本としては当時唯一のものである。結局あまり売れず、出版までの費用を賄えなかったため、実験哲学史のその後の巻の出版をあきらめた。 ジェームズ・クックの2回目の航海に天文学者として参加を打診されたが、断わっている。ただし、その船員に炭酸水の作り方を教えた。彼はそれが壊血病の治療に役立つと思い込んでいた。そして、Directions for Impregnating Water with Fixed Air (1772) という小冊子を出版。炭酸水を販売するということは思いつかなかったようだが、後にヨハン・ヤコブ・シュヴェッペなどが炭酸水の製造販売で富を得ている。1773年、王立協会はプリーストリーの自然哲学への貢献を称えてコプリ・メダルを授与した。 友人たちはプリーストリーをもっと経済的に安定した地位に就けたいと考えていた。1772年、リチャード・プライス (Richard Price) とフランクリンの推薦を受けて、シェルバーン伯が助手および子供たちの教育係として働いてくれないかという手紙を書いた。本人は聖職者を辞めることを渋っていたが結局申し出を受け入れ、1772年12月20日にミルヒル礼拝堂を辞めることを決め、1773年5月16日の説教を最後として、リーズを離れた。
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