ちかく‐へんどう【地殻変動】
地殻変動
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地殻変動(ちかくへんどう、英語: diastrophism)とは、地殻に応力が加わることで、長期間にわたり地殻の位置が年間数mmから数cm程度移動する現象である。地殻を構成するプレート運動や断層運動と密接に関係している。地殻変動と地殻変動の結果として引き起こされる地震や火山活動など地殻内で起こる全ての現象を地殻活動と呼ぶ[1]。
- ^ 地震調査研究推進本部事務局 「地殻活動」
- ^ 地殻変動の全国地図 初公開/国土地理院:火山活動や地盤沈下 わかりやすく『毎日新聞』朝刊2023年3月29日(総合・社会面)2023年4月2日閲覧
- ^ 一例として、『報道されない中東の真実 動乱のシリア・アラブ世界の地殻変動』(朝日新聞出版)
地殻変動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 14:06 UTC 版)
断層 詳細は「地溝湖」を参照 地殻の一部が分断されて上下にずれると高低差が生じて窪地が形成される。単一の断層によって形成される場合(例:アルバート湖)と、多数の断層によって形成される場合(例:バイカル湖、タンガニーカ湖、死海、琵琶湖)とがある。地殻が左右にずれる断層においても断層線が曲線状になっている場合には食い違いによって窪地が形成されることがある(例:ネス湖、諏訪湖)。断層湖または地溝湖と呼ばれる。 隆起や沈降 海底が隆起して陸地になるときに海が分断され湖沼として残されることがある(例:カスピ海)。一方、陸上においても下流へと流出していた水が地殻の沈降や隆起によって行き場を失い湖沼となることがある(例:ビクトリア湖、チチカカ湖)。
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地殻変動
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粟島は島全体が約1m隆起。日本海海岸では5 - 20cm沈下した。家屋の全壊は新潟市、村上市、鶴岡市、酒田市など各地において発生した。
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地殻変動
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「2001年の崑崙地震」の記事における「地殻変動」の解説
崑崙断層(英語版)はユーラシアプレートに関係するチベット高原の東側の移動に適合する主要な左側の断層構造の一つである。この移動はインドプレートとユーラシアプレートの間の衝突に関連する不明瞭な地殻地帯の横向きの拡大による。
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地殻変動
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「熊本地震 (2016年)」の記事における「地殻変動」の解説
国土地理院による衛星画像の解析によると、一連の地震で、布田川断層帯の北側では最大1 m以上の沈降、南側では最大30 cm以上の隆起が起きたと見られる。また、水平方向には、布田川断層帯の北側で東向きに最大1 m以上、南側で西向きに最大50 cm以上ずれたと見られる。政府の地震調査委員会によると、布田川断層帯沿いで長さ28 km、日奈久断層帯沿いで長さ6 kmの地表地震断層が発見された。益城町では、地表に断層のずれが現れ、水平方向に約2 m食い違っている様子が確認された。
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地殻変動
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三方五湖の久々子湖では約3メートル (m)、水月湖東部では3 - 4.5 m隆起した。若狭三方で記された『地頭之覚』には「当国は気山川口一丈余りゆりあげ」とあり、日向湖、水月湖、菅湖のそれぞれ東側の隆起が大きかったため、菅湖から東側の久々子湖へ流入していた気山川が塞がり、三方湖、水月湖、菅湖の湖水が行き場を失い溢れ、湖岸の海山、伊良積、田井、鳥浜など11か村が浸水した。小浜藩主酒井忠直は運河開削を命じ、2年に渡る工事で水月湖東側の浦見坂を掘り抜いて運河(浦見川)を通し久々子湖へ水を流すこととなった。 このような地殻変動は海側まで伸び、津波が発生した可能性があるとされ、701年の大宝地震などと共に若狭湾を襲った歴史津波の検討候補ともされている。 安曇川上流の朽木谷では、「町居崩れ」とよばれる大規模崩壊が発生し、崩壊土砂の直撃により死者約560人。また、河道閉塞(天然ダム)が形成され、堰止めと決壊による被害が生じた。
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地殻変動
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太田川付近では堤が地割れし2m程度沈下したが、これは地震動によるものであった。熊野灘の新宮では0.3m沈下、鳥羽では0.3m沈下、名古屋では0.25-0.4m沈下、渥美半島では0.3-0.4m程度の沈下、浜松では0.3-4m沈下、駿河湾岸の清水では0.5m沈下した。対して掛川では0.07m隆起、相良港では0.3m隆起、御前崎は0.15m隆起した。北西側は沈降、南東側は隆起の傾動は安政東海地震と類似しているが駿河湾西岸が沈降している点が異なり、また地殻変動の幅は小さかった。
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地殻変動
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※地震、火山活動、地殻変動等と、それに伴って発生する自然現象や災害(津波、土砂崩れなど)について解説する。 ※「日本の近代観測史上」が意味する「近代観測」は、近代になって導入された近代科学に基づく観測を意味し、近世以前の時代に行われた観測や考古学的知見・地質学的知見等は含まない。「史料等で確認できる、日本史上最大」は、地層や考古遺物、近世以前の文献等でも確認可能なものを含む、広義の「日本史上最大」を意味する。 地震 日本の近代観測史上、最大の地震 - 東北地方太平洋沖地震Mw9.0。2011年(平成23年)3月11日に発生し、東日本大震災をもたらした超巨大地震。発生から3か月以内に観測されたM5.0以上の余震の数も500回以上で日本一。 史料等で確認できる、観測時代以の歴史地震では激震域が800km近くに達する1707年宝永地震が最大ともされる。機器観測記録が無いためMw8.7-9.3と推定に幅がある。 日本の近代観測史上、最大の内陸直下型地震 - 濃尾地震Mj8.0。1891年(明治24年)10月28日発生。歴史時代まで含めれば、天正13年11月29日(1586年1月18日)の天正地震を日本最大 (M7.9〜8.1) の直下型とする説もある。 史料等で確認できる、日本一死者が多い地震 - 大正関東地震死者105,385。1923年(大正12年)9月1日に発生し、関東大震災をもたらした巨大地震。 日本一長い活断層 - 馬追断層推定全長約66km。石狩低地東縁断層帯の主部であり、北海道美唄市から、岩見沢市、夕張郡栗山町、夕張郡長沼町、夕張郡由仁町、千歳市を経て、勇払郡安平町にまで伸びている。 津波 史料等で確認できる、日本一津波による死者が多い地震 - 明治三陸地震死者21,959人。1896年(明治29年)6月15日に発生し、明治三陸大津波をもたらした巨大地震で、死者は全て津波によるものと考えられる。史料によれば1498年明応地震、1703年元禄地震、1707年宝永地震の津波では上記以上の死者の記録も存在するが、確実性については検証中である。 史料等で確認できる、日本史上最大の津波 - 明和の大津波(八重山地震の津波)最大波高40m(琉球王国石垣島。現・沖縄県の石垣島)。最大遡上高85.4m(同国、宮良村。現・石垣市内)。明和8年3月10日(1771年4月24日)に発生・到達。 ※最新の研究では最大遡上高は30m程度とする説もある。 史料等で確認できる、日本一死者が多い津波 - 明治三陸大津波:上記の「明治三陸地震」に同じ。 火山活動 日本列島史上最大の噴火特定を避けて複数が並立し得る「最大級」という表現を使う研究者が多いが、下記の3つが「最大級の噴火」といわれているものである。統一基準として考案された噴火マグニチュードは一つの目安になる。また、マグマ噴出量の比較データとして、雲仙普賢岳の1991年の噴火は0.2km3、富士山の9世紀の大噴火は1.4km3(歴史時代の富士山で最大)である。 ※「火山爆発指数#VEIで分類した噴火の例」の「7」も参照のこと。 ※世界レベルとの比較は「世界一の一覧#火山活動」を参照のこと。 9万年前から8万5000年前頃に起こった阿蘇山の破局噴火(学術名:阿蘇4、Aso4)日本列島史上最大級の噴火とされる。噴火マグニチュード8.4。マグマ噴出量600km3。火砕流で九州地方の4分の3(鹿児島地方を除く九州全域)と山口地方(秋吉台に痕跡あり)が壊滅。火山灰は日本列島全域のほか、朝鮮半島などで確認されている。阿蘇カルデラも参照。 約2万5000年前に起こった姶良カルデラの破局噴火(学術名:姶良Tn、AT)日本列島史上最大級の噴火とされる。噴火マグニチュード8.2。マグマ噴出量150km3。鹿児島・宮崎・熊本地方が壊滅。 約7300年前に起こった鬼界火山(鬼界カルデラ)の破局噴火(アカホヤ噴火。学術名:鬼界アカホヤ、K-Ah) 日本列島史上最大級の噴火とされる。噴火マグニチュード8.1。マグマ噴出量170km3。鬼界アカホヤ火山灰(面積約200万km2、体積約100km3)、幸屋火砕流(体積約50km3)、幸屋降下軽石(体積約20km3)等、日本列島とその周辺の広い地域に痕跡を留める。南九州の縄文文化を壊滅させたといわれる。現在見られる鬼界カルデラの前身。 完新世(最近1万1700年間)に起こった世界最大の噴火でもある。 歴史時代における日本最大の噴火 - 延喜15年(915年)に起こった十和田火山の噴火噴出量6.5km3。過去2000年間に日本国内で起きた最大規模の噴火であったと見られる。現在の十和田湖の前身。 史料等で確認できる、日本一死者が多い火山災害 - 島原大変肥後迷惑(1792年に起こった雲仙普賢岳の噴火・山体崩壊・津波)死者約15,000。寛政4年4月1日(1792年5月21日)発生。
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地殻変動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 03:56 UTC 版)
地殻変動については、国土地理院の11月23日の発表によると、震源に近い電子基準点「白馬」(白馬村)において、南東方向に29.2cm、下方向に12.0cm(沈降)と(それぞれ速報値)大きな変位が観測され、地震計による震源断層の動きにも整合している。塩島地区に出現した変位は約1mであるが、既知の内陸地震としては最も規模が小さいにも関わらず大きな変位を生じた地震である。また、遠田(2014)は、神城断層南部と松本盆地東縁断層北端にクローン応力変化の影響があったと推定している。
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地殻変動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 08:28 UTC 版)
古い記録では、1694年能代地震において地震の2か月前に埋木が地表に現れたほか半月前に石灯篭が風も無いのに倒れたことが記録されているが、後者は地盤の流動によるものとする指摘もある(今村、1977)。1793年西津軽地震や1802年佐渡地震では異常隆起によるものと考えられる海岸線の後退が記録されているが、前者は信憑性に疑問を呈する指摘がある(佐藤、1980)。1872年浜田地震では、地震の数十分から数分前に潮が引いてアワビを手掴みできたという記録も残っている。これらは目視によるものだが、明治以降は計器観測に代わっている。地殻変動は、水準測量や非定期的な測量により検出される定常的な地殻変動が2-3年から十数年の期間で次第に加速・減速・逆転する長期的変動と、伸縮計や傾斜計などの連続観測により検出される本震直前数分から数時間・数日の期間の短期的変動に大別される。 地震発生前後の水準測量の結果から、1927年関原地震では地震3か月前に震源付近で2-3cmの隆起があったほか、1961年長岡地震や同年の北美濃地震、1967年麻積地震でいずれも地震前に2-3cm程度の異常な隆起が観測されている。また1964年新潟地震では、檀原(1973)の報告によると、19世紀末の第1回測量から続いていた緩やかな隆起が1955-1956年に急激な隆起に転じ、いったん小休止した後に地震が発生する経過をたどったとされるが、茂木(1983)などは誤差による見かけの変動であると反論している。ただし、この付近では地殻変動観測所の傾斜変動のデータも異常を示している。 1983年日本海中部地震では、水準測量と潮位の測定において男鹿半島周辺で1978年ごろから隆起が加速し、その値は地震までに約5cmに及んだ。また男鹿の傾斜計では1978年頃から、前述とは反対方向である東上がりの異常な傾斜変動が観測された。この地震においては、地震空白域(後節参照)が生じたことも報告されている。 アメリカでは、1971年サンフェルナンド地震に先行して震源付近で20cm地殻に達する隆起が観測されており、これは断層面におけるクリープが断層下端から地表に向けてゆっくりと進行したことが原因とする報告がある。なおカリフォルニア州南部の広範囲で約45cmに達する隆起があったとする報告があるが、これは誤差による見かけの変動に過ぎないとの反論もなされている。 1944年昭和東南海地震では、今村明恒の要請により陸地測量部(現国土地理院)が実施していた静岡県掛川市付近での水準測量の最中に地震が発生し、特筆すべきデータが得られた。地震3日前と前日では許容誤差を大きく超える測定差があり、当日の地震発生直前の測量中には水準儀の気泡が揺れて静止しないほどだったと記録されている。茂木(1982)はこれを2-3日前に始まった異常な地殻変動が本震に向けて次第に加速したためだろうと推測している。この記録を基礎とした研究によりプレスリップ理論が構築され、東海地震予知の根拠に位置付けられて、1978年制定の大規模地震対策特別措置法に基づいて警戒体制が整備された。一方で木股・鷺谷(2005)は、数日前から当日午前中までの測定差はプレスリップがあったと断定するには精度が低すぎ、地震直前(10分前と推定)にプレスリップがあったとすれば説明できるとしている。 1943年鳥取地震では震源から60km離れた生野銀山の傾斜計で地震の6時間ほど前から、1952年吉野地震では同じく94km離れた逢坂山の伸縮計で地震の10か月ほど前から、それぞれ異常な変化があった。1973年根室半島沖地震では、同じく約250km離れたえりもで観測坑内の湧水量変化に異常があったほか、1978年伊豆大島近海の地震では石廊崎で地震の1か月前に気象庁設置の体積ひずみ計で異常な変化を観測している。 1970年代頃からは、観測データをより客観的に数値解析する試みも行われた。飯田・志知(1972)は愛知県犬山の伸縮計と傾斜計のデータに短周期除去のデジタル処理を施して、1969年岐阜県中部地震(震源-観測所の距離は48km)と1971年渥美半島沖の地震((同90km)の前兆と見られる変動を抽出している。Ishiguro(1981)はベイズ法を応用して観測データの変動の多様な要因を分離している。Ishii(1976)はチェビシェフ多項式を用いて地殻変動を近似するモデルを作成し、実際の値とのずれから異常を判定する手法を開発、震源から80km離れた地点の傾斜計のデータから1970年秋田県南東部の地震(M6.2)の前兆と見られる変動を検出した。石川・宮武(1978)はウィーナーフィルタ(英語版)を用いた手法を開発している。 観測データの変動を複雑化させる要因として、降雨の影響がある。田中(1979)はタンクモデルを用いて降雨に対する応答を補正する手法を提唱し、山内(1985)はこのモデルによる補正がうまくいかないときに観測所の周辺でしばしば地震が発生することを報告している。岡山・兵庫の山崎断層では断層破砕帯を跨いで群列観測が行われているが、尾池・岸本(1977)はそこでの伸縮記録から、降雨後のひずみの変化に異常があると微小地震が活発化する場合があることを報告している。 静的応力場におけるクーロン応力を規定するクーロン破壊関数(ΔCFF)の変化が地震の活発化や静穏化をもたらしうることは、Chimery(1963)のほか多くの研究者によって報告されている。1989年ロマ・プリータ地震や1992年ランダース地震ではΔCFFの変化とそれに対応する地震活動の変化が報告されている(Reasenberg and Simpson,1992; Jaume and Sykes,1992; Stein et al.,1992; Harris and Simpson,1992)。King et al.(1994)はΔCFFの変化が地殻内のせん断応力の変化であると報告している。 地震波速度の変化の報告が一時期活発に行われたこともあった。初期の報告として日下部(1915)のものが知られ、日本では1940年代から1060年代にかけて多くの報告がある。旧ソ連のガルム地方では集中的な観測が行われた。しかし、その後の報告では観測誤差を超えるようなものは出てこなくなった(宇津,1985)。宇津(2001)によると、地震の際の応力変化が50bar程度であることから考えて、地震波速度の変化は0.1%程度しかないだろうと推察されているが、震源域のアスペリティなどごく狭い領域に限定すれば、技術的に困難を伴うが発見可能かもしれないという。 このほかには、地殻変動の記録に含まれる潮汐の振幅や位相が地震前に変化するという報告(Nishimura,1950; Mikumo et al.,1977)や、地震の直前に地球潮汐の振幅や位相に異常が検出される可能性があるという報告(Tanaka and Kato,1974; Beaumont and Berger,1994)などがある。
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地殻変動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 10:19 UTC 版)
直後の調査で全体として奥尻島は沈降した、沈降量は北側で約30 cm、南側で60 cmから70 cmであった。しかし、島には海岸段丘が発達しており12.5万年前から0.9 m/1000年で隆起しているとされるが、どのような活動により隆起したのかは不明である。地震から20年後の2013年に行われた調査では、北海岸は僅かに沈降、東海岸では10 cm未満の沈降が継続、西海岸で4 cmから8 cmの隆起とされ、依然海岸段丘から読み取れる隆起活動には転じていない。
※この「地殻変動」の解説は、「北海道南西沖地震」の解説の一部です。
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地殻変動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 02:14 UTC 版)
この地震による地殻変動で三浦半島突端が1.7m、房総半島突端が3.4m隆起した。今村明恒によれば房総半島布良(現・館山市)4.7m(大正地震は2.0m)、野島崎5.0m(同1.8m)、三浦半島三崎1.6m(同1.4m)それぞれ隆起したという。また大磯付近も約2m隆起したと推定され、本地震は大正関東地震の震源域も包括していたと推定されている。また、松田時彦らの解析では江ノ島の隆起量は 0.7m程度とされている。 延宝元年(1673年)に描かれた房総半島南端の白浜町の絵図と明治17年(1884年)に測量され製作された地形図との比較から元禄地震前の海岸線は現在より約500m内陸にあり、また現在の地形図との比較から大正関東地震前の明治時代は現在より約100m内陸にあったことが判明した。この付近に見られる海岸段丘は最下部に大正関東地震によると見られる変位約2mで狭い巾の段丘の上部に元禄地震によると見られる変位約6mの巾も広い段丘が見られ、さらにその上部に狭い段丘数段と広い段丘の繰り返しパターンがあり、大正関東地震クラスの地震と、数度に一度、元禄地震クラスの特に規模の大きな地震が繰り返されていることが判明した。 地震後に暴風雨による洪水を抑えるのが困難になったとする『基煕公記』の記述から本地震で江戸の海岸が沈降した可能性が高いとされ、これは大正地震で羽田から船橋に至る東京湾北岸が1 - 2尺(30 - 60 cm)沈降した事と共通している。 このような南上がりの地殻変動は1923年関東地震と同様であり、相模トラフにおいて北アメリカプレートが衝上する低角逆断層のプレート境界型地震であることを示唆している。ただし、トラフ軸の走向に対するフィリピン海プレートの南東→北西方向沈み込み方向の関係から相模沖-房総半島までの断層モデルは1923年関東地震と同様に右横ずれ成分を顕著に含む。
※この「地殻変動」の解説は、「元禄地震」の解説の一部です。
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地殻変動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 07:01 UTC 版)
地震による地殻変動の結果、四国、紀伊半島は南東上りの傾動を示し、串本(現・串本町)は1-1.2m、室戸岬は1.2mそれぞれ隆起した(汐四尺程へり『久保野繁馬所蔵記録』)。足摺岬は伊佐浦で五尺(約1.5m)隆起した(『嘉永七寅年地震津浪記』)。 加太(現・和歌山市)1m、甲浦(現・東洋町)は1.2m沈下、高知周辺も3.5尺(約1m)沈下して潮江村、新町下知一円など新田の所が海となった(『続地震雑纂』)。宇佐(現・土佐市)でも「宇佐福嶋一面の海と成る」(『眞覚寺日記』)の記録があり、上ノ加江(現・中土佐町)では『大変略記』に「上の賀江久礼平生潮より五尺高、在所に迄汐入る」とあり地盤は1.5m沈下した。 地震により道後温泉は106日間にわたり湧出が停止した。翌年2月23日(1855年4月9日)から再び湧き出し(『松山市要』)、4月6日(1855年5月21日)から元のように入浴が許された(『転変奇説集』)。鉛山村温泉も崎之湯は翌年3月まで1滴も出ず、湯ノ峰温泉も翌年の2月か3月頃まで湧出が停止した(『田所氏記録』)。 このような南東上がりの地殻変動は宝永地震および昭和東南海・南海地震と同様であり、南海トラフ西側においてユーラシアプレートが衝上する低角逆断層のプレート境界型地震であることを示唆している。
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地殻変動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 21:12 UTC 版)
地震による地殻変動の結果、御前崎は 0.8 - 1 m 隆起。浜名湖北端・渥美湾岸は沈下し、南東側で隆起、北西の内陸側で沈降の傾動が見られた。また断層の滑り面は海底のみならず内陸にも達し、遠州相良港は3尺余り(約 1 m)隆起し、清水港は隆起により使用不能、相良では沖合い数十間(100 m 前後)が干潟となった。駿河湾西岸は原付近から横須賀湊辺りまでの広い範囲で1m余の隆起が見られた。「親知らず子知らず」と言われた街道の難所であった薩埵峠直下の海岸は波打際が大幅に後退して新たな陸地が生じ、現在ではここに国道1号線、東名高速道路、東海道本線が交差しながら通っている。 富士川河口付近には岩淵地震山(蒲原地震山)および松岡地震山と呼ばれる西側上がりの変位約一丈余(3m以上)の断層が生じて流路が変化し、その結果蒲原では耕地が増え、一方で東岸では水害に悩まされるようになった。このため蒲原では耕地の増加を歓迎し「地震さん地震さん、また来ておくれ、私の代にもう一度、孫子の代に二度三度」とまで唄われた。この蒲原地震山の成因について、古地図や航空写真の解析を行った田中 ほか (2018)は、富士川に地震と同時に生じた河道閉塞(白鳥山)は翌日に決壊しているため富士川の流量が減少したのではない。また、地震から5日程度経た後に地元有力者が確認していることなどからそれまでよりも東寄りに流路移動が生じたのは、白鳥山崩壊土砂の堆積によるもので地震による隆起が原因ではないとしている、同時に松岡地震山は存在そのものが疑問視されている。 一方で浜名湖北岸の気賀では沈降により2,800石の地が潮下に没した(『書付留』)。 このような南東上がりの地殻変動は宝永地震および昭和東南海・南海地震と同様であり、南海トラフ東側においてユーラシアプレートが衝上する低角逆断層のプレート境界型地震であることを示唆している。ただし、宝永地震や昭和東南海地震とは多少様相が異なり、これらの地震では沈降したとされる駿河湾西岸の清水・三保付近は安政東海地震では隆起している。
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地殻変動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 06:18 UTC 版)
象潟を中心に出羽国の沿岸が南北約25kmに渡って隆起し、芦田0.9m、金浦1.3m、象潟2.0m前後、川袋1.25m、吹浦0.9mの隆起量であった。この隆起で南北約2kmの象潟湖の大部分が陸地化し、一部沼地となった。この隆起で新たに形成された水田は、新田と呼ばれている。現在象潟海岸にある高さ4.3mの唐戸石は、地震前は大部分が海中にあった。一方で象潟の内陸側の小瀧では1m沈降している。
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地殻変動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/27 07:00 UTC 版)
地震震央の北西31km にあった国立防災科学技術センター(防災科学技術研究所の前身)の塩山観測点(ENZ)に設置されたボアホール型傾斜計は、この地震発生の18日前から10日間にわたって大きな傾斜変化が観測されていた。
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