酒井家時代とは? わかりやすく解説

酒井家時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/03 08:06 UTC 版)

姫路藩」の記事における「酒井家時代」の解説

越前松平家転封後、代わって老中首座酒井忠恭前橋から入封する。姫路藩酒井家徳川家康重臣酒井正親・重忠を祖とし、大老酒井忠世酒井忠清出した酒井雅楽頭家の宗家である。老中務めていた忠恭の前橋領は居城侵食されるほどの大規模な水害多発する難所であり、加えて酒井家格式維持する費用幕閣での勤めにかかる費用放漫な財政運用などにより酒井家財政破綻していたため、忠恭は「同石高ながら実入りがいい」と聞いていた姫路への転封かねてより目論んでいた。実際は、姫路領では前年大旱魃が起き、そこに重税転封の噂が重なり寛延百姓一揆呼ばれる大規模な百姓一揆起こっていたが、酒井家は気がついていなかった。それでも転封実現したが、その年の夏に姫路領内2度台風襲い水害発生し大変な損害出し転封費用相まって財政はさらに悪化することとなったともあれ酒井家以降姫路藩頻繁な転封なくなり、ようやく藩主家安定した歴代姫路藩主は前橋時代同様にしばしば老中大老務め幕政重き成した幕末には藩主酒井忠績1865年大老となり、河合宗元勤王派の制圧に力を振るったが、1867年蟄居した。弟で次の藩主になった酒井忠惇老中となるが、鳥羽・伏見の戦い徳川将軍家徳川慶喜随行して大坂退去にも同道したので、戊辰戦争では姫路藩朝敵の名を受け、官軍討伐対象とされた。在国家臣1月17日無血開城して姫路城岡山藩占領されるが、3月7日になって藩主忠惇の官位剥奪入京禁止命じられ会津藩などと同様に慶喜共犯者みなされた。慶喜江戸城無血開城して恭順の意を表明すると、江戸藩邸にいた忠績・忠惇もそれに従って新政府軍降伏した。ところが5月5日になって、忠績は江戸の大総督府に対して酒井家徳川家の臣であり天皇家の臣として主家相並ぶことを拒絶して所領没収を望む、との嘆願書提出した姫路藩は、5月20日に忠惇が蟄居して分家上野伊勢崎藩酒井家から迎えた酒井忠邦藩主地位譲り軍資金として15万両新政府献上することで藩存続許されるものの、佐幕派として立場が明確となった忠績への対応が迫られることになった。しかし、忠邦や重臣たちの説得に忠績は応じず、蟄居中の忠惇も忠績に同調する動き示した7月23日新政府家老高須隼人重臣河合屏山に対して、忠績・忠惇の言動背景には彼らの側近である佐幕派影響があるとして、彼らの処断迫ったこのため高須らは佐幕派粛清乗り出し自害4名・永牢7名など多数家臣処分された。そして9月14日に忠績が実弟忠恕静岡藩家臣、忠惇には兄にあたる)に預けられ、忠惇も静岡藩身柄移された後、明治2年9月28日赦免され同じく忠恕預けられた。こうした事情からか、明治元年11月河合屏山進言諸藩先駆けて版籍奉還建言書を提出する廃藩置県実施される姫路藩姫路県となり、飾磨地方諸県合併して飾磨県となるが、1876年飾磨県廃止され兵庫県合併された。華族列した藩主家1887年伯爵を受爵し、隠居の忠績と忠惇にも1889年男爵授けられる

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酒井家時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 09:32 UTC 版)

小浜藩」の記事における「酒井家時代」の解説

その後小浜藩には武蔵川越藩10万石の藩主だった酒井忠勝若狭越前敦賀郡近江安房合計113500石に加増転封されて小浜藩に入る。寛永13年1636年)には下野国内においてさらに1万石を加増され、合計123500石を領する譜代有数大身大名となる(近畿では彦根藩井伊家に次ぐ)。 忠勝は土井利勝らと並ぶ、江戸幕府初期有名な老中大老歴任した人物である。将軍徳川家光より、忠勝は若狭一国国持大名とされた。譜代大名国持格式となったのは忠勝ただ一人である。家光の忠勝に対す感謝大きさが窺がわれる。しかし国持待遇は忠勝一代で終わった。 忠勝の後、その家督は四男の酒井忠直継ぎ嫡男酒井忠朝廃嫡された。忠直寛文8年1668年)、兄の子である酒井忠国1万石を分与し安房勝山藩成立する天和2年1682年)には忠直次男越前敦賀郡近江高島郡のうちで1万石を分与し越前敦賀藩後期敦賀藩鞠山藩)が成立する。また同時に五男・酒井忠根にも3000石が分与され独立した旗本となったため、小浜藩所領縮小して10万3500となった藩政においては初代藩主・忠勝は町奉行代官設置し、さらに税制確立にも尽力して藩の支配体制固めた。しかし享保20年1735年)に小浜一帯大洪水襲って藩内に大被害もたらした。しかもそれに連鎖するように飢饉相次いで領民大い苦しんだこのため小浜藩領民協力して藩主窮状訴えたが、聞き入られなかったため、明和7年1770年)に百姓一揆起こった。藩は何とか財政難打開図ったが、天保7年1836年)には藩に冷害による飢饉襲い遂に財政火の車となった第12代藩主並びに第14代最後)の藩主となった酒井忠義は、幕末期京都所司代として有名な人物である。忠義井伊直弼協力して安政の大獄積極的に京都推し進め和宮降嫁公武合体武田耕雲斎率い天狗党の乱鎮圧などで活躍した慶応4年1868年)の戊辰戦争で、酒井忠氏幕府側に与して新政府軍戦ったが、敗れて降伏したその後小浜藩新政府より北陸道鎮撫使先鋒命じられ奥羽まで転戦した明治2年1869年)の版籍奉還酒井忠禄忠義再任後の名前)は小浜藩知事となり、明治3年1870年9月鞠山藩合併し鞠山藩知事酒井忠経小浜藩知事となる。明治4年1871年7月廃藩置県小浜県となる。同年11月には敦賀県となり、明治9年1876年)に滋賀県編入され明治14年1881年)には福井県編入された。 なお、『解体新書』で有名な蘭方医杉田玄白は、この小浜藩藩医であった杉田の名前を冠した杉田玄白記念公立小浜病院が、小浜城近く設立されている。

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酒井家時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 01:37 UTC 版)

安房勝山藩」の記事における「酒井家時代」の解説

内藤氏改易後勝山一帯若狭小浜藩酒井忠勝雅楽頭酒井家)の所領となる。忠勝の長男忠朝は若年寄まで務め将来嘱望され人物であったが、廃嫡処分を受け、酒井家所領市部(現・南房総市市部)に蟄居して、この地で没している。 寛文8年1668年)、小浜藩酒井忠直(忠朝の弟)は甥の忠国(忠朝の子に対して1万石(安房国平郡内4500石、越前国敦賀郡内5500石)を分知した。忠国は安房国勝山陣屋構えて居所とし、ここに再び安房勝山藩立藩されることになる。所領過半占め越前国領地治め拠点としては野坂代官所現在の敦賀市野坂)が置かれた。 天和2年1682年)、忠国は5000石(安房国平郡内・上野国群馬郡内)の加増を受けるが、天和3年1683年)に家督継いだ忠胤は弟の忠成に平郡内の3000石を分知している(忠成は旗本寄合席列する)。安房勝山藩都合1万2000となった歴代藩主多くが、大番頭大坂加番奏者番などを歴任した藩政においては明和7年1770年)、第5代藩主・忠鄰の代に起こった忍足佐内事件勝山藩西領騒動)が有名である。 第9代藩主・忠美は万延元年1860年)に3歳家督を継ぐ。安房勝山藩幼少藩主のもとで幕末期迎え、藩内は佐幕派尊王派分裂して抗争したまま戊辰戦争迎える。一部藩士林忠崇合流するが、藩は最終的に新政府恭順し、木更津出兵して幕府軍と交戦している。明治元年1868年10月には所領再編が行われ、上野国群馬郡飛び地領が解消するとともに安房国平郡内に代替地与えられた。明治2年1869年5月加知山藩改称した越前勝山藩勝山藩として存続)および美作勝山藩真島藩改称)との同名回避のためとされている。 明治初年加知山藩に関して特筆する事項には、藩校育英館」の開設がある。明治元年1868年10月藩儒野呂道庵野呂陶斎の子)を中心として勝山開設されたこの学校は、版籍奉還による中断挟み廃藩置県経て廃校となるが、士族子弟のみならず平民にも門戸開放していた。 明治4年1871年7月廃藩置県により加知山藩加知山県となった同年11月加知山県木更津県再編され廃された。越前国にあった飛地は、木更津県から敦賀県引き渡された。 最後藩主である酒井忠美は、加知山藩知藩事加知山県知事任命されたのち廃県により免職となった明治17年1884年)の華族令に伴い酒井忠勇(忠美の子)が子爵叙せられたが、明治30年1897年)に爵位返上した

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