酒井家時代
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越前松平家の転封後、代わって老中首座酒井忠恭が前橋から入封する。姫路藩の酒井家は徳川家康の重臣酒井正親・重忠を祖とし、大老酒井忠世・酒井忠清を出した酒井雅楽頭家の宗家である。老中を務めていた忠恭の前橋領は居城が侵食されるほどの大規模な水害が多発する難所であり、加えて酒井家の格式を維持する費用、幕閣での勤めにかかる費用、放漫な財政運用などにより酒井家は財政が破綻していたため、忠恭は「同石高ながら実入りがいい」と聞いていた姫路への転封をかねてより目論んでいた。実際は、姫路領では前年に大旱魃が起き、そこに重税と転封の噂が重なり、寛延の百姓一揆と呼ばれる大規模な百姓一揆が起こっていたが、酒井家は気がついていなかった。それでも転封は実現したが、その年の夏に姫路領内を2度の台風が襲い、水害が発生し大変な損害を出し、転封費用も相まって財政はさらに悪化することとなった。ともあれ酒井家以降、姫路藩は頻繁な転封がなくなり、ようやく藩主家が安定した。歴代の姫路藩主は前橋時代同様にしばしば老中、大老を務め、幕政に重きを成した。 幕末には藩主酒井忠績が1865年に大老となり、河合宗元ら勤王派の制圧に力を振るったが、1867年に蟄居した。弟で次の藩主になった酒井忠惇は老中となるが、鳥羽・伏見の戦いで徳川将軍家の徳川慶喜に随行して大坂退去にも同道したので、戊辰戦争では姫路藩は朝敵の名を受け、官軍の討伐対象とされた。在国の家臣は1月17日に無血開城して姫路城は岡山藩に占領されるが、3月7日になって藩主忠惇の官位剥奪と入京禁止が命じられ、会津藩などと同様に慶喜の共犯者とみなされた。慶喜が江戸城を無血開城して恭順の意を表明すると、江戸藩邸にいた忠績・忠惇もそれに従って新政府軍に降伏した。ところが5月5日になって、忠績は江戸の大総督府に対して、酒井家は徳川家の臣であり天皇家の臣として主家と相並ぶことを拒絶して所領没収を望む、との嘆願書を提出した。姫路藩は、5月20日に忠惇が蟄居して分家上野伊勢崎藩酒井家から迎えた酒井忠邦に藩主の地位を譲り、軍資金として15万両を新政府に献上することで藩存続を許されるものの、佐幕派として立場が明確となった忠績への対応が迫られることになった。しかし、忠邦や重臣たちの説得に忠績は応じず、蟄居中の忠惇も忠績に同調する動きを示した。7月23日、新政府は家老の高須隼人・重臣河合屏山らに対して、忠績・忠惇の言動の背景には彼らの側近である佐幕派の影響があるとして、彼らの処断を迫った。このため、高須らは佐幕派の粛清に乗り出し、自害4名・永牢7名など多数の家臣が処分された。そして9月14日に忠績が実弟忠恕(静岡藩家臣、忠惇には兄にあたる)に預けられ、忠惇も静岡藩に身柄を移された後、明治2年9月28日に赦免されて同じく忠恕に預けられた。こうした事情からか、明治元年11月に河合屏山の進言で諸藩に先駆けて版籍奉還の建言書を提出する。 廃藩置県が実施されると姫路藩は姫路県となり、飾磨地方の諸県と合併して飾磨県となるが、1876年に飾磨県は廃止されて兵庫県に合併された。華族に列した藩主家は1887年に伯爵を受爵し、隠居の忠績と忠惇にも1889年に男爵が授けられる。
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酒井家時代
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その後、小浜藩には武蔵川越藩10万石の藩主だった酒井忠勝が若狭・越前敦賀郡・近江・安房の合計11万3500石に加増転封されて小浜藩に入る。寛永13年(1636年)には下野国内においてさらに1万石を加増され、合計12万3500石を領する、譜代有数の大身大名となる(近畿では彦根藩井伊家に次ぐ)。 忠勝は土井利勝らと並ぶ、江戸幕府初期の有名な老中・大老を歴任した人物である。将軍徳川家光より、忠勝は若狭一国の国持大名とされた。譜代大名で国持の格式となったのは忠勝ただ一人である。家光の忠勝に対する感謝の大きさが窺がわれる。しかし国持待遇は忠勝一代で終わった。 忠勝の後、その家督は四男の酒井忠直が継ぎ、嫡男の酒井忠朝は廃嫡された。忠直は寛文8年(1668年)、兄の子である酒井忠国に1万石を分与し、安房勝山藩が成立する。天和2年(1682年)には忠直の次男に越前敦賀郡と近江高島郡のうちで1万石を分与して越前敦賀藩(後期敦賀藩、鞠山藩)が成立する。また同時に五男・酒井忠根にも3000石が分与され独立した旗本となったため、小浜藩の所領は縮小して10万3500石となった。 藩政においては、初代藩主・忠勝は町奉行や代官を設置し、さらに税制の確立にも尽力して藩の支配体制を固めた。しかし享保20年(1735年)に小浜一帯を大洪水が襲って藩内に大被害をもたらした。しかもそれに連鎖するように飢饉も相次いで、領民は大いに苦しんだ。このため、小浜藩の領民は協力して藩主に窮状を訴えたが、聞き入られなかったため、明和7年(1770年)に百姓一揆が起こった。藩は何とか財政難打開を図ったが、天保7年(1836年)には藩に冷害による飢饉が襲い、遂に財政は火の車となった。 第12代藩主・並びに第14代(最後)の藩主となった酒井忠義は、幕末期の京都所司代として有名な人物である。忠義は井伊直弼に協力して安政の大獄を積極的に京都で推し進め、和宮降嫁や公武合体、武田耕雲斎率いる天狗党の乱鎮圧などで活躍した。慶応4年(1868年)の戊辰戦争で、酒井忠氏は幕府側に与して新政府軍と戦ったが、敗れて降伏した。その後、小浜藩は新政府より北陸道鎮撫使の先鋒を命じられ、奥羽まで転戦した。 明治2年(1869年)の版籍奉還で酒井忠禄(忠義の再任後の名前)は小浜藩知事となり、明治3年(1870年)9月に鞠山藩と合併し鞠山藩知事酒井忠経が小浜藩知事となる。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で小浜県となる。同年11月には敦賀県となり、明治9年(1876年)に滋賀県に編入され、明治14年(1881年)には福井県に編入された。 なお、『解体新書』で有名な蘭方医杉田玄白は、この小浜藩の藩医であった。杉田の名前を冠した杉田玄白記念公立小浜病院が、小浜城跡近くに設立されている。
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酒井家時代
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内藤氏改易後、勝山一帯は若狭小浜藩主酒井忠勝(雅楽頭系酒井家)の所領となる。忠勝の長男忠朝は若年寄まで務め、将来を嘱望された人物であったが、廃嫡の処分を受け、酒井家所領の市部村(現・南房総市市部)に蟄居して、この地で没している。 寛文8年(1668年)、小浜藩主酒井忠直(忠朝の弟)は甥の忠国(忠朝の子)に対して1万石(安房国平郡内4500石、越前国敦賀郡内5500石)を分知した。忠国は安房国勝山に陣屋を構えて居所とし、ここに再び安房勝山藩が立藩されることになる。所領の過半を占める越前国の領地を治める拠点としては野坂代官所(現在の敦賀市野坂)が置かれた。 天和2年(1682年)、忠国は5000石(安房国平郡内・上野国群馬郡内)の加増を受けるが、天和3年(1683年)に家督を継いだ忠胤は弟の忠成に平郡内の3000石を分知している(忠成は旗本寄合席に列する)。安房勝山藩は都合1万2000石となった。 歴代藩主の多くが、大番頭や大坂加番、奏者番などを歴任した。藩政においては明和7年(1770年)、第5代藩主・忠鄰の代に起こった忍足佐内事件(勝山藩西領騒動)が有名である。 第9代藩主・忠美は万延元年(1860年)に3歳で家督を継ぐ。安房勝山藩は幼少の藩主のもとで幕末期を迎え、藩内は佐幕派と尊王派に分裂して抗争したまま戊辰戦争を迎える。一部の藩士は林忠崇と合流するが、藩は最終的には新政府に恭順し、木更津に出兵して幕府軍と交戦している。明治元年(1868年)10月には所領の再編が行われ、上野国群馬郡の飛び地領が解消するとともに安房国平郡内に代替地が与えられた。明治2年(1869年)5月、加知山藩と改称した。越前勝山藩(勝山藩として存続)および美作勝山藩(真島藩に改称)との同名回避のためとされている。 明治初年の加知山藩に関して特筆する事項には、藩校「育英館」の開設がある。明治元年(1868年)10月、藩儒野呂道庵(野呂陶斎の子)を中心として勝山に開設されたこの学校は、版籍奉還による中断を挟み、廃藩置県を経て廃校となるが、士族子弟のみならず平民にも門戸を開放していた。 明治4年(1871年)7月、廃藩置県により加知山藩は加知山県となった。同年11月に加知山県は木更津県に再編されて廃された。越前国内にあった飛地は、木更津県から敦賀県に引き渡された。 最後の藩主である酒井忠美は、加知山藩の知藩事、加知山県知事に任命されたのち廃県により免職となった。明治17年(1884年)の華族令に伴い酒井忠勇(忠美の子)が子爵に叙せられたが、明治30年(1897年)に爵位を返上した。
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