運用方針決定まで
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「B-29 (航空機)」の記事における「運用方針決定まで」の解説
1943年1月に開催されたカサブランカ会談の席上で、ジョージ・マーシャルアメリカ陸軍参謀総長は、中華民国を基地とする戦略爆撃機で、日本の工業に強力な打撃を与えて戦力を粉砕すべきと提案し、アーノルドがそのためにB-29という戦略爆撃機を開発中であると報告した。ルーズベルトは中華民国の戦意を高めるために、日本本土に散発的でもいいので爆撃を加えるべきと考えており、蔣介石に対して、アーノルドを重慶に派遣して日本本土への爆撃計画を検討すると告げた。カサブランカ会談ののち、ルーズベルトの意を汲んだアーノルドは「蔣介石と協議し、日本の心臓部を直ちに爆撃する基地を獲得し、その準備を終えようとしている」と演説した。 日本軍は本土空襲に対する警戒と準備を始めることになった。ちょうどこのころB-29試作機が墜落し、この情報を知った日本軍は対策に乗り出す。日本陸軍は軍務局長佐藤賢了少将を委員長とするB-29対策委員会を設置、海外調査機関を通じて資料を収集する。量産開始は1943年9月~10月、生産累計は1944年6月末480機・同年末千数百機という予想をたてた。この時点ではB-29の性能を把握しておらず、日本軍はB-29がハワイ島やミッドウェー島から日本本土へ直接飛来する可能性を考慮していた。東条英機陸軍大臣は「敵の出鼻を叩くために一機対一機の体当たりでゆく」と強調した。 1943年6月にR-3350-13sエンジンからR-3350-21sエンジンにアップグレードされた実用実験機のYB-29が飛行を開始した。B-29の開発状況をつぶさに見ていたアーノルドは、実験機で不具合や故障を出し尽くし、外地に基地を作り本格的な運用を開始できるのは1年後になると見積もったが、その予測をもとに「我々はB-29の爆撃目標をドイツとは考えなかった。B-29の作戦準備が整うまでに、B-17やB-24が、ドイツとドイツの占領地域の工業力、通信網、そのほかの軍事目標の大半を、すでに破壊してしまっている」と考えて、B-29を日本に対して使用しようと決めている。 1943年5月に、ワシントンD.C.でフランクリン・ルーズベルト大統領、ウィンストン・チャーチル首相、アメリカ・イギリス軍連合本部が、対日戦におけるB-29の使用方法を検討した。会議の中心はB-29の基地をどこに置くかであったが、連合軍支配地域で対日爆撃の基地として使えそうなのは、中華民国の湖南省であり、東京から2,400kmかなたのここを基地とする「セッティング・サン(日没)」計画が立案された。しかし、中華民国中央部に基地を設ければ、日本軍の支配地域に囲まれることとなり、基地の維持が困難であることは明白であった。中国・ビルマ・インド戦域アメリカ陸軍司令官ジョセフ・スティルウェル中将は「それらの爆撃攻勢に対し、日本軍は陸空の大規模な作戦をもって、猛烈に反撃するであろう」と、ドーリットル空襲に対し日本が浙贛作戦を行ったことや、飛行場を防衛するために多大な戦力が必要になると計画修正の必要性を訴えた。そのため、セッティング・サン計画の代案として、補給が容易なインドのカルカッタ地区を根拠基地とし、桂林―長沙に沿う数か所に前進基地を設けて爆撃任務の時だけ用いる「トワイライト(薄明り)」計画が立案された。 1943年8月のケベック会談ではB-29の使用が戦略の一つに挙げられ、トワイライト計画も議題となった。会議ではトワイライト計画自体は否定されたが、インドと中華民国の連携基地という概念は残り、カルカッタの基地を飛び立ったB-29は、中華民国の前進基地で余分な燃料を下ろして爆弾を搭載して日本本土爆撃に向かうといったトワイライト計画の修正計画が検討されることとなった。この時点での日本本土爆撃計画は、1944年10月のB-29の28機ずつの10航空群(合計280機)から始め、のちに780機まで増強されたB-29が1か月に5回出撃すれば、日本本土の目標を十分に破壊しさり、12か月以内に日本を屈服させることができるという楽観的なものであった。 1943年10月13日、アーノルドとスティルウェルがトワイライト作戦改訂案をルーズベルトに提出。それによれば、前進基地を四川省の成都とし、日本本土攻撃の開始を1944年4月1日と前倒しにした。ルーズベルトはこれを承認し、計画はマッターホルン作戦と名付けられた。ルーズベルトはマッターホルン作戦を承認すると、チャーチルに「我々は来年早々、新爆撃機(B-29)をもって、日本に強力な打撃を与える準備中である。日本の軍事力を支えている製鉄工業の原動力となっている満州および九州の炭鉱地帯は、中華民国成都地区からの爆撃機の行動圏内に入ることになる」「この重爆は、カルカッタ付近に建設中の基地から飛ばすことができる。これは大胆であるが、実行可能な計画である。この作戦の遂行によって、アジアにおける連合軍の勝利を促進できるだろう」という手紙を送って協力を要請し、蔣介石に対しては1944年3月末までに成都地区に5個の飛行場を絶対に建設するよう指示した。 太平洋の戦いにおいては、軍の指揮権が、ダグラス・マッカーサー大将率いるアメリカ陸軍が主力の連合国南西太平洋軍(英語版)(SWPA)と、チェスター・ニミッツ提督率いるアメリカ海軍、アメリカ海兵隊主力の連合国太平洋軍(英語版)(POA)の2つに分権されていた。このことで、陸軍と海軍の主導権争いが激化しており、マッカーサーは自分への指揮権統合を主張していた。マッカーサーはバターンの戦い(英語版)の屈辱を早くはらしたいとして、ニューギニアを経由して早急なフィリピンの奪還を主張していたが、栄誉を独占しようというマッカーサーを警戒していたアーネスト・キング海軍作戦部長が強硬に反対していた。キングは従来からのアメリカ海軍の対日戦のドクトリンであるオレンジ計画に基づき、太平洋中央の海路による進撃を主張していたが、なかでもマリアナ諸島が日本本土と南方の日本軍基地とを結ぶ後方連絡線の中間に位置し、フィリピンや南方資源地帯に至る日本にとっての太平洋の生命線で、これを攻略できれば、その後さらに西方(日本方面)にある台湾や中国本土への侵攻基地となるうえ、日本本土を封鎖して経済的に息の根を止めることもできると考え、その攻略を急ぐべきだと考えていた。 アーノルドも、中国からではB-29の航続距離をもってしても九州を爆撃するのが精いっぱいで、より日本本土に近い基地が必要であると考えており、マリアナにその白羽の矢を立てていた。マリアナを基地として確保できれば、ほぼ日本全域を空襲圏内に収めることができるうえ、補給量が限られる空路に頼らざるを得ない中国内のB-29前進基地と比較すると、マリアナへは海路で大量の物資を安定的に補給できるのも、大きな理由となった。そこでアーノルドはケベック会談においてマリアナからの日本本土空襲計画となる「日本を撃破するための航空攻撃計画」を提案しているが、ここでは採択までには至らなかった。キングとアーノルドは互いに目的は異なるとはいえ、同じマリアナ攻略を検討していることを知ると接近し、両名はフィリピンへの早期侵攻を主張するマッカーサーに理解を示していた陸軍参謀総長マーシャルに、マリアナの戦略的価値を説き続けついには納得させた。一方でマッカーサーも、真珠湾から3,000マイル、もっとも近いアメリカ軍の基地エニウェトクからでも1,000マイルの大遠征作戦となるマリアナ侵攻作戦に不安を抱いていたニミッツを抱き込んで、マリアナ攻略の断念を主張した。アーノルドと同じアメリカ陸軍航空軍所属ながらマッカーサーの腹心でもあった極東空軍(Far East Air Force, FEAF)司令官ジョージ・ケニー(英語版)少将もマッカーサーの肩を持ち「マリアナからでは戦闘機の護衛が不可能であり、護衛がなければB-29は高高度からの爆撃を余儀なくされ、精度はお粗末になるだろう。こうした空襲は『曲芸』以外の何物でもない」と上官でもあるアーノルドの作戦計画を嘲笑うかのような反論を行った。 しかし、陸海軍の有力者である、マーシャル、キング、アーノルドの信念は全く揺らぐことなく、マッカーサーやケニーらの反論を撥ねつけた。キングの計画では、マリアナをB-29の拠点として活用することは主たる作戦目的ではなく、キングが自らの計画を推し進めるべく、陸軍航空軍のアーノルドを味方にするために付け加えられたのに過ぎなかったが、キングとアーノルドが最終的な目的は異なるとは言え、手を結んだことは、自分の戦線優先を主張するマッカーサーや、ナチスドイツ打倒優先を主張するチャーチルによって停滞していた太平洋戦線戦略計画立案の停滞状況を打破することとなった。1943年12月のカイロ会談において、1944年10月のマリアナの攻略と、アーノルドの「日本を撃破するための航空攻撃計画」も承認され会議文書に「日本本土戦略爆撃のために戦略爆撃部隊をグアムとテニアン、サイパンに設置する」という文言が織り込まれて、マリアナからの日本本土空襲が決定された。その後も、マッカーサーはマリアナの攻略より自分が担当する西太平洋戦域に戦力を集中すべきであるという主張を変えなかったため、1944年3月にアメリカ統合参謀本部はワシントンで太平洋における戦略論争に決着をつけるための会議を開催し、マッカーサーの代理で会議に出席していたリチャード・サザランド中将には、統合参謀本部の方針に従って西太平洋方面での限定的な攻勢を進めることという勧告がなされるとともに、ニミッツに対してはマリアナ侵攻のフォレージャー作戦(掠奪者作戦)を1944年6月に前倒しすることが決定された。
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