連合国軍の戦略
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「アドミラルティ諸島の戦い」の記事における「連合国軍の戦略」の解説
アドミラルティ諸島は、太平洋戦争開戦時にはオーストラリアの委任統治領だったが日本軍に占領された。1943年(昭和18年)11月、ダグラス・マッカーサー大将の指揮する連合国軍は、アドミラルティ諸島及び東部ニューギニア北岸ハンサ湾の攻略を検討し始めた。その当初の目的は、ビスマルク諸島一帯を勢力圏に収め、日本軍の一大拠点であるラバウルを孤立化させることにあった。その後、艦隊泊地として整備し、以後の作戦拠点にすることも目的に加わった。 攻略担当はアメリカ陸軍第6軍(通称「アラモ軍」)で、第1騎兵師団(実質は4単位編成の歩兵師団)を基幹とする戦闘員25,974名が用意され、基地建設を行う陸軍の建設工兵や海軍のシービーなど後方要員約16,000人が戦列に加わった。航空支援を担当するオーストラリア空軍部隊2,500人も参加した。これらを合計すると45,110人の大部隊だった。
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連合国軍の戦略
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連合軍は、沖縄本島の存在について、有力な航空基地と泊地を設置可能で日本本土と中国大陸のいずれに侵攻する際の作戦拠点にもできる島と考えていた。また、沖縄諸島の基地化により、日本の南西方面の海上航路・航空路を遮断することもできると見ていた。他方、連合国軍がフィリピンへ侵攻した場合には、日本軍の反撃拠点となりうる島であるとも警戒していた。 1944年8月時点での連合軍の戦略では、沖縄本島よりも先に台湾を攻略することが計画されていた。台湾を拠点とした後に、中国大陸あるいは沖縄県のいずれかへ進撃することが予定された。台湾の攻略作戦についてはコーズウェイ作戦 (Operation Causeway 日本語で土手道のこと) の名の下に具体的な検討が進められ、すでに上陸部隊の司令官には、連合国軍の1国であるアメリカ陸軍のサイモン・B・バックナー・ジュニア中将が決まっていた。 ところが、9月中旬になってレイテ島上陸の予定繰上げが決まり、フィリピンでの泊地確保もより早く行える可能性が出てくると、アメリカ海軍のチェスター・ニミッツ提督らは台湾攻略以外の選択肢について再検討を始めた。アメリカ陸軍も、ルソン島さえ占領すれば台湾は無力化できると考えて、台湾攻略中止に同調した。そして、新たな日本本土空襲の拠点を求めていたアメリカ陸軍航空軍が、台湾より日本本土に近い小笠原諸島や沖縄本島がその拠点に相応しいと考え、南太平洋地域陸軍司令官且つ第20空軍の副司令官ミラード・F・ハーモン(英語版)中将がコーズウェイ作戦を中止し、小笠原諸島や沖縄本島を攻略目標とすることを提案し、コーズウェイ作戦の指揮官に内定していたバックナーも、南太平洋地域での補給部隊と支援部隊の不足を理由にハーモンの意見に同調した。陸軍の意見にアーネスト・キング海軍作戦部長も同意し、1944年10月2日にルソン島、小笠原ついで沖縄の順で攻略することが決定した。計画では10月20日のレイテ島上陸、12月20日のルソン島上陸、翌1945年1月20日の硫黄島占領に続いて、3月1日に沖縄諸島へと上陸することとなった。バックナー中将は、台湾上陸部隊の司令官から、そのまま沖縄上陸部隊の司令官へと任務が変更された。バックナーと沖縄攻略を主張したハーモンは、アメリカ軍が硫黄島に上陸した直後の1945年2月26日に、沖縄攻略を含む今後の太平洋方面の戦略を協議するため、グアムからハワイに向かう途中に搭乗していたB-24が墜落して行方不明となり、沖縄上陸を見ることなく死亡と認定された。 さっそくレイテ島への侵攻作戦に着手した連合国軍は、事前に日本軍の反撃戦力を削る航空撃滅戦として沖縄県周辺や台湾などを攻撃した。1944年10月10日、アメリカ軍とイギリス軍を中心とした機動部隊が南西諸島一帯に対して大規模な空襲を行い、所在の日本軍航空機や艦船は大きな打撃を受けた(十・十空襲)。偵察活動も進められたが、1944年12月末に偵察任務で沖縄へ向かった潜水艦「ソードフィッシュ」が未帰還となった。ペリリュー島の戦いで行われた偵察上陸では半数の人員が未帰還という大被害を出していることも踏まえて、偵察要員の事前上陸は見送られた。 1945年3月、連合軍は、予定よりは遅れながらもルソン島攻略と硫黄島攻略をほぼ完了した。このときまでには、日本本土上陸作戦であるダウンフォール作戦の立案もされており、沖縄本島は、九州上陸を支援する拠点として利用されることに決まっていた。ルソン島攻略の遅れによる輸送船不足と3月の悪天候により沖縄侵攻は2度にわたって繰り下げられ、当初計画からはちょうど1ヶ月遅れで、沖縄攻略を目的とした「アイスバーグ作戦」が発動されることとなった。投入される陸上戦力はアメリカ陸軍第10軍の陸軍5個師団・4個戦車大隊ほかとアメリカ海兵隊3個師団であった。第10軍自体は新編成の組織であるが、主力の第24軍団と第3水陸両用軍団に属する師団はいずれも実戦経験を積んだ部隊であった。 装備についても、陣地攻撃に絶大な威力を発揮してきた火炎放射器装備のM4中戦車の射程・火力強化型、暗視スコープ付きの狙撃銃、近接信管の野砲砲弾、対砲兵の音波探知機、M18 57mm無反動砲、M20 75mm無反動砲、M2 107mm迫撃砲などの新型兵器が多数配備された。アメリカの軍需産業はフル回転しており、軍事資材の面では全く懸念はなかった。従って第10軍は装備、士気、練度、補給と、どの面から見ても、アメリカ軍史上最強の軍と見られていた。 これらの部隊を沖縄に上陸させるため、アメリカ軍は太平洋戦争で最大規模の水陸両用作戦を準備した。沖縄攻略の為の統合遠征部隊は艦船1,213隻と支援艦載機564機で編成されていた。この部隊を第58任務部隊の高速空母部隊82隻、艦載機919機とイギリス太平洋艦隊22隻、艦載機244機が支援した。他にも第21爆撃集団と極東航空軍も直接支援を行った。最大の問題はこれらの大部隊を養うだけの大量の物資を絶え間なく輸送する必要があることで、まずは当面の740,000トンもの物資をアメリカ本国やハワイなどから、沖縄上陸40日前から21回の輸送で、前線基地のあるレイテ島やウルシー環礁やマリアナ諸島に輸送された。その中には収容を見込んでいる沖縄の民間人の食糧として、米や大豆や魚の缶詰など70,000人分の食糧も含まれていた。 ノルマンディー上陸作戦を含む多くのヨーロッパ戦線の激戦に従軍し、前年にピューリッツァー賞を受賞した従軍記者のアーニー・パイルは沖縄攻略部隊の陣容を「我々は太平洋航海史上、最大・最強の軍隊だ」「海軍力・兵力・戦闘力の点でアメリカがヨーロッパに投入した全兵力に匹敵する規模だ」と記述している。実際に、攻撃初日に投入された陸戦兵力は182,000名であり、これは史上最大の作戦といわれたノルマンディー上陸作戦のD-デイに投入された兵力を75,000名も上回っていた。 アメリカ軍情報部は沖縄本島の日本軍の兵力を55,000人~65,000人、大口径火砲198門と推定しており、沖縄攻略作戦は1カ月前後の短期作戦と想定していたが、この戦力推定は大きく誤っており、迅速な勝利の希望はたちまちしぼんでいった。
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連合国軍の戦略
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「ニューメキシコ作戦」の記事における「連合国軍の戦略」の解説
1861年夏、ジョン・ベイラーはテキサス人部隊を率いて南部地域に進み、メシーリャを獲得してアメリカ連合国アリゾナ準州を設立した。この侵攻はカリフォルニアの一部またはすべてを獲得しようとする連合国側の大きな戦略の一部であったが、しかし連合国軍は砂漠を渡ってロスアンジェルスへ向かうことはできなかった。1862年の作戦は全体の戦略の延長で、非常に長い侵攻ルートを使い、もし成功すれば、カリフォルニアを手中にし西部を合衆国から完全に奪うものであった。新しい戦略ではロッキー山脈の東側に沿って侵攻し、西部の鉱石に富んだネバダ州とカリフォルニア州を攻撃する前に、コロラド準州(当時コロラド・ゴールドラッシュの最中だった)とララミー砦(英語版)(オレゴン・トレイル沿いにある最重要の合衆国陸軍駐屯地)を奪取することが標榜された。
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