全体の戦略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/21 19:47 UTC 版)
「新アッシリア帝国の軍事史」の記事における「全体の戦略」の解説
メソポタミアの自然は平らで肥沃である上に、天然の要害がなかった。これはすなわち、防衛作戦は問題外であったことを意味する。敵に対する決定的な攻撃だけが、攻撃されやすく価値のある場所の防衛へとつながった。「攻撃こそが最大の防御」というわけである。都市アッシュルとニネヴェは、ともに川に挟まれていた。ニネヴェは、比較的近くにティグリス川があり、これに守られていたが、その一方でアッシュルは、ティグリス川には近かったが、ユーフラテス川からはそれなりに離れていた。この結果、この二つの都市は、天然の防衛手段を利用した。だが、川は、断固たる軍の進行を止めるものではない。このため、攻撃して敵の戦争遂行能力を奪うことが、アッシリア人が生き延びるための最善の方法だった。この目的を達成するためにアッシリア人は、敵軍を壊滅させるための決定的な交戦を探し求めた。 植民地化:アッシリア人は、国外追放政策(下記参照)とも関連するが、彼ら自身の民を外国の地に送り、植民させた。第一の目的は忠実な勢力基盤を建てることだった。税、食料、兵士たちが本国同様の信頼度で提供されたか、あるいはそのように期待されたに違いない。加えて、彼らの存在は数え切れないほどの利益をもたらした。他国からの攻撃への抵抗、自国内の反乱への対応、そして属国のアッシリアへの忠誠を保証することによるアッシリアの州知事への支援、などである。 都市の破壊:アッシリア人が総力戦を行ったと想定することには慎重でなければならない。だが、アッシリア人が敵を弱体化させ、報復を要求する戦略の一環として、敵がその能力を取り戻せない、あるいは強化できないように、暴力的に都市を破壊したことが知られている。アッシリアのエラム征服について、アッシュルバニパルは次のように記している。 1か月と25日の行程で、余はエラムの土地を荒廃させた。余は、塩とsihluを撒いた・・・。スサ、Madaktu、Haltemashとその他の都市の塵を集め、アッシリアに運んだ・・・。余は人々の音、牛と羊の足音、喜びの叫びを、この地から消した。野生のロバ、ガゼル、あらゆる種類の平原の獣を、家にいる時のように横たえた。 —アッシュルバニパル
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