豪潮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 06:39 UTC 版)
豪潮(ごうちょう、ごうしょう:寛延2年〈1749年〉 - 天保6年7月3日〈1835年7月28日〉)は、江戸時代の僧侶。長崎の出島において、中国僧より直接、当時の中国密教と戒律等の伝授を受け、その生涯を通じて本尊とした準提仏母(准胝観音)の信仰を広めると共に、御霊の供養と飢饉救済を目的とした仏塔(宝篋印塔)の建立に勤め、大小あわせて約八万四千の仏塔を建立したと伝えられる[1]。また、自身が戒律を守ることに専一なだけでなく、天台宗において史上初の出来事として、中国密教に基づいた具足戒・菩薩戒・三昧耶戒を網羅した体系的な戒律をもたらし、江戸時代の『戒律復興運動』に貢献した。僧俗にも戒律と灌頂を授け、各寺院において「懺法」(さんぽう、せんぽう)[2] を実施した。
- ^ 豪潮律師が作ったされる仏塔は、大きいものは高さ8メートル、小さいものは約5センチとあり、材質も様々で金属製や木製のものもある。正式に宝篋印塔や梵字塔として野外に建立されたものは、約二千基とされている。
- ^ 歴史上の釈尊以来の教えとして、声聞乗・大乗・金剛乘(密教)に共通して仏教徒となるためには戒律を授かる必要があり、授かった後は戒律を維持するために、毎月2回、普通は新月と満月の時か、旧暦の1日と15日に集まって懺悔(さんげ)のための『懺法』という法要を行なう必要がある。この法要を日本では『布薩会』(ふさつえ)とも呼んで、お寺の重要な行事とされた。豪潮律師が信仰した準提仏母は、密教に不可欠な三昧耶戒を取り戻すための重要な尊挌とされ、かの弘法大師空海が高野山の開山にあたり、最初にお祀りした仏像とも伝えられている。
- ^ ここでいう「唐墨」は、当時の中国からもたらされた墨を指す。明代や清代には、新たな技術革新によって、目的に応じた書き味が異なる墨や、美術品としの価値を持つ鑑賞・贈答用の墨や硯が次々と作られた。現在、この時代の墨や硯は、好事家の間で非常に高価なものとして珍重されている。
- ^ 『豪潮律師の研究』(日本談義社)、p165。
- ^ 『豪潮律師の研究』(日本談義社)、pp.9-10。
- ^ 『豪潮律師遺墨』(日貿出版社)、p172。
- ^ この場合の「阿」字は、「阿字本不生」(あじほんぶしょう)という密教における不生の仏心を体現した「阿」であるとみられる。
- ^ 『豪潮律師遺墨』(日貿出版社)、p180、p189。
- ^ 『豪潮』(城野印刷)、pp.136-137、p168。
- ^ 『繁根木山什物記』の名前のうち、「繁根木」(はねぎ)は寿福寺があった地名。それゆえ「繁根木山」は山号かと思われるが、寿福寺が廃寺となっているので不明。「什物」は集まった物という意味で、「寿福寺に集まった宝物を記したもの」の意味となる。ここでは『繁根木山什物記』を目録として扱い、音読みで表記することとした。なお、寿福寺は戦災に遭って消失したのではなく、明治の廃仏毀釈により廃寺となったものであるから、この目録に記された品々は海外への流失を含めて、いずれも現存する可能性を否定できない。現在、確認されているものは、欣子内親王御賜による「仏母准提尊木像」のみであるが、同じく廃寺になった霊験寺の本尊で、豪潮律師が復元したとする「薬師如来像」が、熊本県内で他の寺に所蔵されていたのが近年発見されている。
- ^ 堀河天皇(善仁親王:1079-1107)は、歴代の天皇の中でも和歌の達人として知られ、勅撰和歌集の『金葉和歌集』などに九首が入集している。その天皇が直筆で和歌を記した書と見られ、現存すれば識者には垂涎の作品。
- ^ 準提仏母を本尊とする「懺法」のテキスト。原典は、明・夏道人の著作である『大准提菩薩焚修悉地懺悔玄文』。
- ^ 『豪潮律師遺墨』(日貿出版社)、p1。
- ^ 一般に知られる宋本『阿弥陀経』鳩摩羅什訳より21文字多く、古来、これを異本として卍続蔵経に『阿弥陀経異本』(第一冊、№6)の名で収録されるも、鳩摩羅什訳とはしない。豪潮律師は唐の善導大師の手書き本『阿弥陀経』と、福岡県の宗像大社に現存する隋の陳仁稜の筆写本による建久9年(1198年)頃に[[宋 (王朝)|]]より請来された『阿弥陀仏経碑』(重要文化財)からの原拓本により、この21字多い異本『阿弥陀経』を鳩摩羅什訳の正本とする。
- ^ 『豪潮』(城野印刷)に写真版を収録。
- ^ 豪潮律師が52歳の頃の作とされている。
- ^ 『豪潮』(城野印刷)、p168。
- ^ 豪潮律師が77歳の時の作、『念仏法語』と同名の類本が多くあるが、ここでは高野山の明遍上人の口伝を書き写したもの。
- ^ 『豪潮』(城野印刷)、p34。
- ^ 文政8年(1825年)に豪潮律師が尾張の久昌寺に滞在して法座を開いた際、久昌寺に鎌倉時代から伝来していた『十六羅漢像』の掛軸のうち、第二・第八・第十一・第十五尊の四幅が欠けて十二幅となっているのを知り、足りない四尊を描き上げて十六羅漢としたもの。この『十六羅漢像』が、後に愛知県江南市の久昌寺より、鶴見の總持寺へと寄進された。現在、豪潮律師が書き足した四幅を含めて、その十六幅の全てが重要文化財に指定されている。
- ^ 『全国寺院名鑑』(中部編)、p297。
- >> 「豪潮」を含む用語の索引
- 豪潮のページへのリンク