密教の伝来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 03:58 UTC 版)
日本で密教が公の場において初めて紹介されたのは、唐から帰国した伝教大師最澄によるものであった。当時の皇族や貴族は、最澄が本格的に修学した天台教学よりも、現世利益を重視する密教、来世での極楽浄土への生まれ変わりを約束する浄土教(念仏)に関心を寄せたが、天台教学が主であった最澄は密教を本格的に修学していたわけではなかった。 本格的に日本へ伝来されることになるのは、唐における密教の拠点であった青龍寺において密教を本格的に修学した空海(弘法大師)が806年に日本に帰国してからであった。日本に伝わったのは中期密教で、唐代には儒教の影響も強かったので後期密教はタントラ教が性道徳に反するとして唐では受け入れられなかったという説もある。 天台宗の豪潮律師は長崎の出島で中国僧から直接、中国密教と「出家戒」や、大系的な戒律である小乘戒・大乘戒・三昧耶戒を授かり、時の光格天皇の師として尊敬を集めるとともに、南海の龍と呼ばれた尾張・大納言齊朝候の庇護を受け、尾張と江戸で「準提法」(准胝観音法)を広めて多くの弟子を養成した。豪潮の残した資料の一つ『準提懺摩法 全』は明代の中国の資料と内容が一致する。この時期、戒律復興運動で有名な人物としては、「如法真言律」を提唱し、生涯において三十数万人の僧俗に灌頂と授戒を行なった霊雲寺の浄厳覚彦と、「正法律」を唱えた慈雲が挙げられる。
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