吊り天井と野梁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 04:46 UTC 版)
次ぎの段階は吊り天井である。吊り天井で梁が隠れるようになると、ちょうど桔木のように荒々しい未成形の太く長い梁を構造材として使えるようになる。もちろん長さも太さも桔木よりも長く太い。そして桔木同様に多少曲がっていても無骨でも構わない。これが野梁で、その野梁を連続させて屋根を支える新しい構造が採用できるようになる。 これによって屋根と平面の関係が分離し、「母屋・庇の構造」に捕らわれないより自由な間取りが可能になる。天井板を剥がしたら、あるいは屋根の野地板を剥がしたら、法隆寺大講堂の虹梁(画像212)などとは全く違う、画像Ga10の元興寺小子房の天井吹き抜け部分のような、ほとんど丸太の、曲がった梁や桔木(はねぎ)や野梁が姿を現す。この建築技法は石田潤一郎によると密教の伝来に始まる寺院での宗教儀式の変化から、「母屋・庇の構造」では対応出来ない仏像の内陣に対する僧の儀式空間、礼堂、あるいは外陣の拡大の為の工夫だという。寺院建築から始まったこの工法は次第に上層住宅建築にまで広がっていく。 上層住宅建築、つまり寝殿造では、「母屋・庇の構造」の中で培われた上流貴族階級の有職故実が寝殿の南側の儀式空間、ハレ面を拘束してはいたが、儀式に関係の無い寝殿の北側では、旧来工法の範囲内ながら平安時代から徐々に変化が始まっていた。そして鎌倉時代には寝殿とは別棟の小御所などに「母屋・庇の構造」に拘束されない平面が採用されはじめる。川上貢はこう書く。 鎌倉時代後半期における上層公家住宅は平安時代のそれに比較して衰退したものと考えることは皮相な見方であって、寝殿自体の空間分化の進展、そして小御所の成立などを通じて古さからの脱皮が進行しつつあるものとしてとらえなければならない。
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