製造・運用
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「甘木鉄道AR200形気動車」の記事における「製造・運用」の解説
AR100形置き換えまで新車両の追加製造の必要性がなく、同形式置き換えの際には各部の構造を変更した新形式AR300形を導入したため、結果的に1両のみの製造に終わった。 AR300形・AR400形とともに使用されていたが、2006年(平成18年)秋に廃車となり、翌年3月にミャンマーへ輸出された。ミャンマーでは赤色とクリーム色のツートンカラーに塗り替えられ、日本から譲渡された他の気動車の貫通扉や貫通幌を移設して前面貫通形に改造され、客車として運用されている姿が確認されている。
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製造・運用
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2016年度に3両編成2本・2両編成2本の計10両が、2017年度に3両編成2本・2両編成1本の計8両が導入された。2016年度の増備車は2017年3月18日に試乗会を行い、3月20日に9001F+9103Fが、3月30日に9002F+9104Fが運用を開始した。2017年度には9105Fが5月26日、9006Fが5月27日、9007Fが5月31日に運転を開始した。又、2021年に、新たに9011F、9112Fの2両2編成が導入された。 主に急行での運用に充てられている。一部普通運用に充てられている編成もある。ラッシュ時は5000形や6000形・6050形とともに特急運用に充てられることもある。
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製造・運用
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「西ドイツ国鉄V160形ディーゼル機関車」の記事における「製造・運用」の解説
開発は、1956年よりクルップにより行われた。1960年、1800PS(1320kW)のエンジンを1基搭載したプロトタイプが10両製造された。V160 006を除きマイバッハ(のちのMTU)のV形16気筒エンジン、MD16V538TB10型を搭載している。プロトタイプ10両のうち、最後まで稼働していたV160 003はDBが所有権を保持したままリューベックの愛好家の団体により保存されている。 量産車は1963年から1969年にかけて214両がクルップ、KHD、ヘンシェル、クラウス=マッファイ、MaKで製造された。MB16V652TB10型エンジンを搭載している。156号機からは、新しい称号である216形として落成している。 2003年、216形は全機運用から外された。
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製造・運用
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「札幌市交通局2000形電車」の記事における「製造・運用」の解説
1970年から1978年まで160両全車が川崎重工業で製造された。但し電気機器は数社(富士電機・日立製作所・三菱電機・東芝・東洋電機)が製造に参加している。 当初は2両編成を1000形、4両編成を2000形と称しそれぞれ閑散時用、混雑時用と使い分けることを想定していたが、実際には開業時から4両編成が基本となり、2両編成での運転はごく僅かであった。8両編成化後、16 - 18編成は4両+4両、19編成は6両+2両で編成され、20編成は8両全て制御電動車だった。これは当初、先頭車が多く製造されたことによる。車両番号の改番はブロック状の金属板を車体に取り付ける方式で施行したが、新製車の車両番号は車体に直接文字を取り付けている。 8次車は3000形01編成3101 - 3801である。 1970年 1次試作車 1001+1002 開業に先立ちプロトタイプとして製造された車両である。乗務員室が狭く営業運転では中間に組み込まれることがほとんどだった。内装の木目調化粧板は濃い茶系で、先頭部の非公式側(運転台のない)の乗務員室の機器配置に違いがあり、真駒内方の1001では曲面ガラスの近くに機器はないが、北24条方の1002では曲面ガラスの後ろに大型の機器があり、量産車でもこの部分は踏襲された。唯一現存する保存車である。 1971年 2次試作車 1003+1004 2001+2002+2003+2004 1次量産車 1005+1006 - 1027+1028 2005+2006+2007+2008 - 2025+2026+2027+2028 開業用に製造された車両で1000形13本26両、2000形7本28両が増備された。このうち6両(1003+1004、2001+2002+2003+2004)は2次試作車で、先頭車の1003・1004・2001・2004は1次試作車1001・1002と同様に乗務員室が狭く、早期に中間に組み込まれた。この製造分より一部の窓が開閉可能となる。全て固定窓だった1001・1002も改修される。なお1000形の製造は終了し、以後の増備は2000形に一本化された。 1972年 2次量産車 2029+2030+2031+2032 2033+2034+2035+2036 2038+2039 2042+2043 2046+2047 2050+2051 輸送力増強のため4両編成2本と中間車8両が増備された。この増備で中間車8両は1021 - 1028を2000形(2037、2040、2041、2044、2045、2048、2049、2052)に改番の上4両編成を組んだ。1972年7月のダイヤ改正で一部編成が6両化される。 1974年 3次量産車 2053+2054 - 2063+2064 6両化のため中間車12両が増備されたが、この製造分より車内の木目調化粧板の色がやや明るい黄褐色系に変更される。2055+2056(後の2513+2613)は当時開発中だった東西線6000形と同じ名所イラスト入り化粧板を施した内装となった。今回の増備と既存の編成組替により全編成が6両編成となる。 1975年 4次量産車 2101+2201+2301+2401+2701+2801 - 2104+2204+2304+2404+2704+2804 本グループより大幅な設計変更が行われ6両編成4本が増備された。この時から将来の8両化に備えた番号が付番され、2500・2600を除いた2100 - 2800とされた。この4本が後の01 - 04編成である。この製造分より側面窓の天地寸法が小さくなり、従来分割形だった座席の背もたれが一体形となっているのが特徴で、これら4編成は全車小窓の車両で組成された。なお先頭車の製造は終了し、以後の増備は中間車のみとなる。 1976年 5次量産車 2205+2305+2405+2705 - 2206+2306+2406+2706 2307+2407 2308+2408 増発用の中間車12両が増備された。この12両と既存の1017 - 1020、2029 - 2036を改番の上、6両編成4本の05 - 08編成とした。 1977年 6次量産車 2209+2309+2409+2509+2609+2709 - 2211+2311+2411+2511+2611+2711 南北線初の8両化用として中間車18両が増備された。この18両と既存の1011 - 1016を改番の上、8両編成3本の09 - 11編成とした。 1978年 7次量産車 2501+2601 - 2508+2608 麻生延伸開業に備えた8両化用として中間車16両が増備された。この増備により01 - 08編成の8両化が行われた。この製造分より車内の化粧板の色が茶系から黄土色に変更される。 8次量産車(3000形01編成) 3101+3202+3301+3401+3501+3601+3701+3801 7次車と同じく麻生延伸開業に備えた車両で2000形8次車として計画されたが、車体構造・制御方式・デザイン等が変更され、3000形01編成となった。 9次量産車 2212+2312+2412+2512+2612+2712 最終増備車として12編成8両化用の中間車6両が増備される。この6両と既存の1009・1010を改番の上、8両編成の12編成とした。残りの旧付番車も先頭車の恒久的中間組込改造および編成ごとに末尾をそろえる改番が行われ、1000形は形式消滅となり、01 - 20編成の全編成8両化が完了する。 1000形・2000形 新製車一覧 系列製造区分製造年次Mc1Mc2内装最終編成備考1000形 1次試作車 1970 1001→2320 1002→2420 濃茶 20 保存車 2次試作車 1971 1003→2520 1004→2220 1次量産車 1005→2120 1006→2620 1007→2119 1008→2819 19 1009→2112 1010→2812 12 1011→2109 1012→2809 09 1013→2111 1014→2811 11 1015→2110 1016→2810 10 1017→2105 1018→2805 05 1019→2106 1020→2806 06 最終運行編成 1021→2037→2114 1022→2040→2814 14 1023→2041→2118 1024→2044→2418 18 1025→2045→2518 1026→2048→2818 1027→2049→2115 1028→2052→2815 15 系列製造区分製造年次Mc1M2M1Mc2内装最終編成備考2000形 2次試作車 1971 2001→2719 2002→2219 2003→2519 2004→2619 濃茶 19 1次量産車 2005→2116 2006→2216 2007→2316 2008→2416 16 2009→2113 2010→2213 2011→2713 2012→2813 13 2013→2516 2014→2616 2015→2716 2016→2816 16 2017→2720 2018→2419 2019→2319 2020→2820 19・20 2021→2117 2022→2217 2023→2317 2024→2417 17 2025→2517 2026→2617 2027→2717 2028→2817 2次量産車 1972 2029→2107 2030→2207 2031→2707 2032→2807 07 2033→2108 2034→2208 2035→2708 2036→2808 08 2038→2214 2039→2714 14 2042→2218 2043→2318 18 2046→2618 2047→2718 2050→2215 2051→2715 15 3次量産車 1974 2053→2313 2054→2413 黄褐 13 2055→2513 2056→2613 絵柄 東西線6000形内装色 2057→2314 2058→2414 黄褐 14 2059→2514 2060→2614 2061→2315 2062→2415 15 2063→2515 2064→2615 系列製造区分製造年次21002200230024002500260027002800内装最終編成備考Mc1M2M1M2M1M2M1Mc22000形(新番号) 4次量産車 1975 2101 2201 2301 2401 2701 2801 黄褐 01 2102 2202 2302 2402 2702 2802 02 2103 2203 2303 2403 2703 2803 03 2104 2204 2304 2404 2704 2804 04 5次量産車 1976 2205 2305 2405 2705 05 2206 2306 2406 2706 06 最終運行編成 2307 2407 07 2308 2408 08 6次量産車 1977 2209 2309 2409 2509 2609 2709 09 2210 2310 2410 2510 2610 2710 10 2211 2311 2411 2511 2611 2711 11 7次量産車 1978 2501 2601 黄土 01 2502 2602 02 2503 2603 03 2504 2604 04 2505 2605 05 2506 2606 06 最終運行編成 2507 2607 07 2508 2608 08 9次量産車 2212 2312 2412 2512 2612 2712 12 太字:乗務員室の狭い車両
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製造・運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 01:08 UTC 版)
「福岡市交通局1000系電車」の記事における「製造・運用」の解説
1981年(昭和56年)の開業時に01 - 08編成(近畿車輛製)が製造され、1983年(昭和58年)の筑肥線との相互乗り入れ開始にあわせて09 - 15編成(川崎重工業製)が製造された。その後、路線延長に伴い1984年(昭和59年)に16編成(日本車輌製造製)・1985年(昭和60年)に17編成(東急車輛製造製)・1986年(昭和61年)に18編成(日立製作所製)が製造され、2015年(平成27年)現在は18編成108両体制となっている。このうち11編成(1521編成)は1985年8月7日に筑肥線姪浜駅 - 今宿駅間の踏切で大型トレーラートラックと衝突し、大破した上り方先頭車の1522が廃車となり、翌1986年に2代目の1522が新製されて編成復旧された。11編成の3号車から5号車の側面には事故の衝撃で生じた外板の変形が現在も残っているほか、損傷の激しかった部分を切り継ぎした痕跡も見られる。 全編成が姪浜車両基地に配属され、地下鉄空港線・箱崎線全線および筑肥線姪浜駅 - 筑前前原駅(コロナ禍前は筑前深江駅)間で運用されている。
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製造・運用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 09:36 UTC 版)
「国鉄DD21形ディーゼル機関車」の記事における「製造・運用」の解説
DD20形より少し後の1963年12月に1号機が日本車輌製造で製造された。落成後は東新潟機関区に配置されて試運転が行われたが、軸重が14tと重いため一部のローカル線に入線できなかったことや、除雪装置を装着したままでの入換作業が不便であったこと、入換時に運転室からの見通しに難があったことなどから量産は見送られ、1両のみの試作にとどまった。 その後も新潟地区で除雪に使用されたが、DD20形と同様、長期休車を経て1986年(昭和61年)に廃車。1992年(平成4年)頃までは新津車両所(当時、現在の新津車両製作所)に留置されていたが、車輌新造施設建設にともない解体された。
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