日本の事後処理とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 日本の事後処理の意味・解説 

日本の事後処理

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)

ノモンハン事件」の記事における「日本の事後処理」の解説

関東軍中には、辻発案夜襲による総反撃参謀本部横槍中止されたため、負けてはいないという強気な空気もあったが、陸軍中枢では陸相の畑が「大失態」、更迭され中島後任沢田茂参謀本部次長が「陸軍始まって以来大敗戦、国軍未曽有の不祥事」、更迭され作戦課長稲田は「莫大な死傷敗戦汚点」などと敗戦意識強く、その責任追及する方針となった。特に関東軍司令官植田については、タムスク空爆の際に独断越境した罪で、昭和天皇何らかの処分求めていた。それは、昭和天皇指名により阿部内閣陸相となった畑も「明らかに越権行為にて一の大権干犯見ざる得ず。当然関東軍司令官責任なり」と昭和天皇意向汲んで植田激しく非難するなど、同じ思いであった植田自身も「全責任軍司令官たる植田に存す」と考えていたためまずは9月7日付で植田司令官から解任し、ほぼ同時に関東軍作戦参謀らも解任した。 ノモンハン事件後処理任され沢田茂陸軍省参謀本部関東軍から事情聴取を行うと、事件主導した関東軍だけではなく陸軍中枢の責任を負うきとした。その主要な論点下記の通りである。 事件発生には直接責任者なし。 事件拡大は主に関東軍責任あり、参謀本部責任は従である。 タムスク爆撃ハルハ河渡河攻撃などの独断越境攻撃関東軍責任あるが、当時現地観戦しながら黙認した参謀本部第一部長橋本群中将にも責任あり。 所要満たない兵力逐次投入して敗れた責任関東軍重く第6軍第23師団責任は軽い。 関東軍下級参謀押され勇断欠いた参謀本部参謀次長中島中将責任は重い。 関東軍責任司令官にのみあるものではなく下級幕僚らも責任逃れられない植田司令官磯谷参謀長重大な責任負わせるが、下級幕僚にも左遷的な異動処分実施する陸軍省責任統帥権独立立場から、ないものと判断。 この原案に基づき沢田考案した人事処分案は陸軍省人事局長、陸軍三長官裁可を受け、昭和天皇にも上奏され、決定となった下記の通り事件拡大図った関東軍とそれを不十分ながら抑えようとした参謀本部双方処分受けており、言わば“喧嘩両成敗”を念頭に置いた人事となっている。 (関東軍将官参謀処分役職氏名階級処分関東軍司令官 植田謙吉 大将 解任1939年12月1日予備役 関東軍参謀長 磯谷廉介 中将 解任1939年12月1日予備役 第6軍司令官 荻洲立兵 中将 進退伺提出受理1940年1月31日予備役 第23師団小松原道太郎 中将 進退伺提出受理1940年1月31日予備役同年10月6日病死 野戦重砲第3旅団長 畑勇三少将 進退伺提出受理1940年1月31日予備役 歩兵第14旅団長 森田範正 少将 解任1939年12月20日予備役 関東軍参謀副長 矢野音三郎 少将 1939年12月1日鎮海湾要塞司令官左遷 関東軍作戦参謀 寺田雅夫 大佐 1939年10月26日千葉陸軍戦車学校教官左遷 関東軍作戦参謀 服部卓四郎 中佐 1939年9月6日陸軍歩兵学校教官左遷 関東軍作戦参謀 辻政信 少佐 1939年9月7日第11軍司令部付に左遷 関東軍作戦参謀 島貫武治 少佐 1939年9月8日陸軍大学校教官左遷参謀本部処分役職氏名階級処分参謀次長 中島鉄蔵 中将 解任1939年12月1日予備役 参謀本部第1部長 橋本群 中将 解任1939年12月1日予備役 参謀本部作戦課長 稲田正純 大佐 1939年11月10日陸軍習志野学校教官左遷 しかし、この処分案ではいくつかの議論生じていた。その中で大きな論点となったのは下記3点であった閑院宮参謀総長責任問題現場責任者植田更迭された以上、参謀総長にも敗戦責任を問うべきとの意見もあったが、皇族で、なおかつ74歳高齢お飾り的な存在であるのに責任を問うのは酷だという意見出て自発的な辞任打診したが、結局引責辞任することなく1940年10月まで留まった。 辻関東軍参謀処置関東軍参謀末席に過ぎなかった辻がノモンハン戦を主導し、「事実上関東軍司令官」とまで言われ事情は、参謀本部も十分把握していた。作戦課長稲田第6軍司令官洲は免官にしろとの要望出し陸軍省野田人事局長は予備役が相当と判定したが、以前も辻を擁護していた参謀本部総務課長笠原幸雄少将からの「将来有望人物」という陳情聞き入れられ左遷異動済まされた。元陸相板垣初め、辻の個性能力高く買っている陸軍有力者多かったことが辻を救ったとなった。辻は、一旦は第11軍司令部付の閑職左遷されたが、1941年7月には参謀本部作戦課に栄転進級している。辻と同様に懲罰的左遷をされた服部も、一足先に参謀本部作戦課長就任しており、この事件実質的な責任者として懲罰的左遷となった関東軍作戦参謀多くその後中央部要職に就き、対英米戦を主導したと、遠山茂樹らは主張している。 部隊指揮官らの責任追及陸相陸軍中枢では「第一線には責任なし。第一線はよく戦った。罪は中央関東軍司令部とにある」とし、当初第6軍司令官第23師団小松原師団長らも不問とされる方向性であったが、小松原が「一時自決まで考えたが、その機を逸した全ての責任を受ける覚悟である」と沢田言ったように洲と小松原砲兵団長の畑は責任感じて自ら進退伺提出したため、受理され予備役編入となったノモンハン戦の特徴として、ソ連軍重囲下で、死傷者累積し弾薬食糧尽きた部隊の「無断撤退」が相次いだことが挙げられる敗戦体験乏し日本陸軍には予想もできなかった現象であり、参考になる前例が殆どなかった。自らの責任を取ると言って進退伺出した洲と小松原であったが、陸軍刑法第43条則してこの「無断撤退」を徹底的に追及しようと考えていた。師団長級以上の将官級の賞罰については、陸相決定し天皇意向打診しなければならなかったが、連隊長級の部隊指揮官賞罰については、陸軍懲罰令により軍司令官師団長の権限定められており、洲や小松原意向により厳し処分となった小松原が「無断撤退に対して強く拘った背景には、第一次ノモンハン事件の際に、部隊敵中孤立したため、隊付の師団参謀撤退進言行ったのに対し未だ連隊からの撤退命令届いていなかったため、陣地から後退せず玉砕した捜索隊東中佐に対し命令なき以上は撤退せずと動じなかったのは敬服価す」と日記書いたほど強い印象持っていたことや、壊滅した連隊連隊長多く戦場戦死したり、下記の通り自決したりしていることが影響しているものと思われる小松原は特にフイ高地無断撤退した井置中佐ノロ高地無断撤退した長谷部大佐を特に槍玉に挙げて「両者とも火砲重火器破壊せられ弾薬欠乏、守地を守るに戦力なきを理由とするならんも、これは理由となすに足らず」と、撤退余儀なくされた状況への配慮は全くなく、両名軍法会議かけよう決意していた。しかし、軍司令官洲の意向により軍法会議開廷されなかったため、小松原両名対し軍法会議であれば死刑当のであるから自決勧告を行うこととし洲も了承した小松原は、井置の処置に関して第23師団幕僚による会議開いたが、扇広参謀木村松治郎 参謀が「何とか憐憫の情を」と訴えるも最初から結論ありきで、小松原の強い意向により自決勧告が行われた。井置は師団代表した同期高橋浩騎兵中佐から師団決定伝えられると「謹んで受けする」と答えて9月17日未明拳銃自決した。その知らせ聞いた小松原は「井置中佐処分陸軍刑法にて行った。もし自決しなければ軍法会議にかかり銃殺は当然。これを戦死認め靖国神社祀ることは許されないと言い放ち戦病死」と関東軍報告して進級認めなかった。井置については関東軍参謀の辻も戦場からの報告関東軍司令部行った際に「フイ高地八百兵力中三百の死傷を生ぜしのみにして、守地を棄てたに対して謝罪字句無き知り」と激しく非難し軍法会議にかけるべきという主張をしていた。また、長谷部については詳細な経緯不明であるが、洲と小松原自決勧告され抗弁するともなく9月20日拳銃にて自決している。井置と長谷部自決勧告については、小松原陸軍刑法則った主張しているが、軍法会議にもよらない私刑であり、本来ならば井置らが受ける必要はなかったと戦後に元参謀の扇は指摘しているが、両名とも覚悟の上勧告受け入れている。但し、ノモンハン事件際し部隊指揮官級で自決勧告受けて自決したのはこの2名のみであり、自分意思自決し小松原が「痛惜此の上なし」とその死を悔やみノモンハン事件に関して唯一となる師団としての感状授与し少将への進級許可した歩兵第72連隊長酒井美喜雄大佐を自決勧告されたとしたり、ほとんどの連隊長自決追い込まれたなどと言われることも多いが事実誤認である。 自決勧告の他に下記の表の通り多く部隊指揮官級を更迭ないし左遷している。ノモンハン事件唯一懲戒免官処分付されたのが野戦重砲第1連隊中隊長土屋正一大尉であった。この免官査問軍法会議もなく唐突に命じられたものであったが、法的根拠を欠く自決勧告異なり内閣発令首相決済し、『官報』にも記載され合法的なもので、陸相から首相に対す説明では、「砲と運命共にするという砲兵精神欠き密かに掩蔽部に隠れ、敵の監視緩んだのに乗じて師団主力位置まで無断撤退した」というものであったこの他にも、兵士の服に着替えて地下足袋姿で戦場離脱した風聞流れた野戦重砲第7連隊長鷹司信熙らが、将官参謀らと同様に予備役編入させられたり懲罰的左遷受けたが、中には歩兵第26連隊長の須見のように、独断撤退をしたわけでもないのに、師団長意見具申行ったことを不服従と認定され予備役編入となった者もあった。更迭左遷人事異動については、軍司令官師団長陸軍中央異動上申するという手続きを踏むため、これらの処分については陸軍中央了承していたことになる。陸軍人事当局目論見は、進退伺受理し退任決定している「敗軍の将」洲と小松原に「汚れ役」をやらせて必要に応じて修正するのが好都合考えていたので、両名好きなようにやらせていた。 (関東軍部隊指揮官処分役職氏名階級問われ罪状処分野戦重砲第7連隊長 鷹司信熙 大佐 無断撤退 解任1939年12月1日予備役華族礼遇廃止 歩兵第26連隊長 須新一大佐 命令不服解任1939年12月30日予備役 第一独立守備隊歩兵第6大隊 四ツ谷巌 中佐 無断撤退 解任1939年12月20日予備役 64連隊大隊長 赤井三郎 中佐 無断撤退 1939年11月15日青森連隊区司令部左遷 長谷部支隊大隊長 杉谷良夫 中佐 無断撤退 1939年11月15日神戸連隊区司令部左遷 砲兵13連隊大隊長 秀雄 少佐 無断撤退 謹慎解任1939年12月20日予備役 野戦重砲第1連隊中隊長 土屋正一 大尉 無断撤退 1939年12月15日免官ノモンハン事件に関する処分唯一軍人身分失った内閣発令で『官報』にも記載された。 (自決した部隊指揮官役職氏名階級自決状況歩兵第72連隊長 酒井美喜雄 大1939年9月15日入院していたチチハル病院責任感じて自決小松原師団長から唯一の部隊感状授与され戦死扱い少将進級。辻もその死を悼んでいる。 歩兵第64連隊長 山県光 大1939年8月29日、バルシャガル高地から撤退中にソ連軍包囲され自決戦死扱い少将進級野砲13連隊長 伊勢高秀 大佐 同上 長谷部支隊長 長谷部理叡 大佐 ノロ高地からの無断撤退第6軍司令洲と第23師団小松原責められ1939年9月20日自決第23師団井置捜索隊長 井置栄一 中佐 フイ高地からの無断撤退について、師団長小松原の強い意志第23師団から自決勧告を受け、1939年9月17日自決。 ムーリン重砲連隊長 染谷義雄 中佐 バルシャガル高地ソ連軍包囲され1939年8月26日割腹自決飛行第1戦隊戦隊長 原田文男 少佐 1939年7月29日初出撃撃墜され捕虜。のち1940年5月第二次捕虜交換後に自らの意思自決。被撃墜日時1939年7月29日戦死扱い変更されず。

※この「日本の事後処理」の解説は、「ノモンハン事件」の解説の一部です。
「日本の事後処理」を含む「ノモンハン事件」の記事については、「ノモンハン事件」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「日本の事後処理」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「日本の事後処理」の関連用語

日本の事後処理のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



日本の事後処理のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのノモンハン事件 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS