日本の事後処理
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関東軍の中には、辻発案の夜襲による総反撃が参謀本部の横槍で中止されたため、負けてはいないという強気な空気もあったが、陸軍中枢では陸相の畑が「大失態」、更迭された中島の後任の沢田茂参謀本部次長が「陸軍始まって以来の大敗戦、国軍未曽有の不祥事」、更迭された作戦課長の稲田は「莫大な死傷、敗戦の汚点」などと敗戦意識が強く、その責任を追及する方針となった。特に関東軍司令官の植田については、タムスク空爆の際に独断で越境した罪で、昭和天皇は何らかの処分を求めていた。それは、昭和天皇の指名により阿部内閣の陸相となった畑も「明らかに越権行為にて一の大権干犯と見ざるを得ず。当然関東軍司令官の責任なり」と昭和天皇の意向を汲んで植田を激しく非難するなど、同じ思いであった。植田自身も「全責任は軍司令官たる植田に存す」と考えていたためまずは9月7日付で植田を司令官から解任し、ほぼ同時に関東軍の作戦参謀らも解任した。 ノモンハン事件の後処理を任された沢田茂は陸軍省、参謀本部、関東軍から事情聴取を行うと、事件を主導した関東軍だけではなく、陸軍中枢の責任を負うべきとした。その主要な論点は下記の通りである。 事件発生には直接の責任者なし。 事件拡大は主に関東軍に責任あり、参謀本部の責任は従である。 タムスク爆撃、ハルハ河渡河攻撃などの独断越境攻撃は関東軍に責任あるが、当時現地で観戦しながら黙認した参謀本部第一部長橋本群中将にも責任あり。 所要に満たない兵力を逐次投入して敗れた責任は関東軍に重く、第6軍と第23師団の責任は軽い。 関東軍の下級参謀に押され勇断を欠いた参謀本部の参謀次長中島中将の責任は重い。 関東軍の責任は司令官にのみあるものではなく、下級幕僚らも責任は逃れられない。植田司令官と磯谷参謀長に重大な責任を負わせるが、下級幕僚にも左遷的な異動処分を実施する。 陸軍省の責任は統帥権独立の立場から、ないものと判断。 この原案に基づき沢田が考案した人事処分案は陸軍省人事局長、陸軍三長官の裁可を受け、昭和天皇にも上奏され、決定となった。下記の通り、事件拡大を図った関東軍とそれを不十分ながら抑えようとした参謀本部双方が処分を受けており、言わば“喧嘩両成敗”を念頭に置いた人事となっている。 (関東軍将官・参謀の処分)役職氏名階級処分関東軍司令官 植田謙吉 大将 解任、1939年12月1日予備役 関東軍参謀長 磯谷廉介 中将 解任、1939年12月1日予備役 第6軍司令官 荻洲立兵 中将 進退伺提出・受理、1940年1月31日予備役 第23師団長 小松原道太郎 中将 進退伺提出・受理、1940年1月31日予備役、同年10月6日病死 野戦重砲第3旅団長 畑勇三郎 少将 進退伺提出・受理、1940年1月31日予備役 歩兵第14旅団長 森田範正 少将 解任、1939年12月20日予備役 関東軍参謀副長 矢野音三郎 少将 1939年12月1日鎮海湾要塞司令官に左遷 関東軍作戦参謀 寺田雅夫 大佐 1939年10月26日千葉陸軍戦車学校教官に左遷 関東軍作戦参謀 服部卓四郎 中佐 1939年9月6日陸軍歩兵学校教官に左遷 関東軍作戦参謀 辻政信 少佐 1939年9月7日第11軍司令部付に左遷 関東軍作戦参謀 島貫武治 少佐 1939年9月8日陸軍大学校教官に左遷 (参謀本部の処分)役職氏名階級処分参謀次長 中島鉄蔵 中将 解任、1939年12月1日予備役 参謀本部第1部長 橋本群 中将 解任、1939年12月1日予備役 参謀本部作戦課長 稲田正純 大佐 1939年11月10日陸軍習志野学校教官に左遷 しかし、この処分案ではいくつかの議論が生じていた。その中で大きな論点となったのは下記の3点であった。 閑院宮参謀総長の責任問題現場の責任者植田が更迭された以上、参謀総長にも敗戦の責任を問うべきとの意見もあったが、皇族で、なおかつ74歳の高齢でお飾り的な存在であるのに責任を問うのは酷だという意見も出て、自発的な辞任を打診したが、結局引責辞任することなく1940年10月まで留まった。 辻関東軍参謀の処置関東軍参謀の末席に過ぎなかった辻がノモンハン戦を主導し、「事実上の関東軍司令官」とまで言われた事情は、参謀本部も十分把握していた。作戦課長稲田と第6軍司令官荻洲は免官にしろとの要望を出し、陸軍省の野田人事局長は予備役が相当と判定したが、以前も辻を擁護していた参謀本部総務課長笠原幸雄少将からの「将来有望な人物」という陳情が聞き入れられ、左遷的異動で済まされた。元陸相の板垣を初め、辻の個性と能力を高く買っている陸軍有力者が多かったことが辻を救った形となった。辻は、一旦は第11軍司令部付の閑職に左遷されたが、1941年7月には参謀本部作戦課に栄転し進級している。辻と同様に懲罰的な左遷をされた服部も、一足先に参謀本部作戦課長に就任しており、この事件の実質的な責任者として懲罰的な左遷となった関東軍の作戦参謀の多くはその後、中央部の要職に就き、対英米戦を主導したと、遠山茂樹らは主張している。 部隊指揮官らの責任追及畑陸相ら陸軍中枢では「第一線には責任なし。第一線はよく戦った。罪は中央と関東軍司令部とにある」とし、当初は第6軍の荻洲司令官や第23師団の小松原師団長らも不問とされる方向性であったが、小松原が「一時自決まで考えたが、その機を逸した。全ての責任を受ける覚悟である」と沢田に言ったように荻洲と小松原と砲兵団長の畑は責任を感じて自ら進退伺を提出したため、受理されて予備役編入となった。 ノモンハン戦の特徴として、ソ連軍の重囲下で、死傷者が累積し弾薬や食糧も尽きた部隊の「無断撤退」が相次いだことが挙げられる。敗戦体験に乏しい日本陸軍には予想もできなかった現象であり、参考になる前例が殆どなかった。自らの責任を取ると言って進退伺を出した荻洲と小松原であったが、陸軍刑法第43条に則してこの「無断撤退」を徹底的に追及しようと考えていた。師団長級以上の将官級の賞罰については、陸相が決定し天皇の意向も打診しなければならなかったが、連隊長級の部隊指揮官の賞罰については、陸軍懲罰令により軍司令官・師団長の権限と定められており、荻洲や小松原の意向により厳しい処分となった。小松原が「無断撤退」に対して強く拘った背景には、第一次ノモンハン事件の際に、部隊が敵中で孤立したため、隊付の師団参謀が撤退の進言を行ったのに対し、未だ連隊からの撤退命令が届いていなかったため、陣地から後退せず玉砕した東捜索隊の東中佐に対し「命令なき以上は撤退せずと動じなかったのは敬服に価す」と日記に書いたほど強い印象を持っていたことや、壊滅した連隊の連隊長の多くが戦場で戦死したり、下記の通り自決したりしていることが影響しているものと思われる。 小松原は特にフイ高地を無断撤退した井置中佐とノロ高地を無断撤退した長谷部大佐を特に槍玉に挙げて「両者とも火砲、重火器破壊せられ弾薬欠乏、守地を守るに戦力なきを理由とするならんも、これは理由となすに足らず」と、撤退を余儀なくされた状況への配慮は全くなく、両名を軍法会議にかけようと決意していた。しかし、軍司令官の荻洲の意向により軍法会議は開廷されなかったため、小松原は両名に対し、軍法会議であれば死刑相当の罪であるから自決勧告を行うこととし、荻洲も了承した。小松原は、井置の処置に関しての第23師団幕僚による会議を開いたが、扇広参謀や木村松治郎 参謀が「何とか憐憫の情を」と訴えるも最初から結論ありきで、小松原の強い意向により自決勧告が行われた。井置は師団を代表した同期の高橋浩亮騎兵中佐から師団の決定を伝えられると「謹んでお受けする」と答えて、9月17日未明に拳銃で自決した。その知らせを聞いた小松原は「井置中佐の処分は陸軍刑法にて行った。もし自決しなければ軍法会議にかかり銃殺は当然。これを戦死と認め、靖国神社に祀ることは許されない」と言い放ち「戦病死」と関東軍に報告して進級を認めなかった。井置については関東軍参謀の辻も戦場からの報告を関東軍司令部に行った際に「フイ高地は八百の兵力中三百の死傷を生ぜしのみにして、守地を棄てたるに対して謝罪の字句の無きを知り」と激しく非難し、軍法会議にかけるべきという主張をしていた。また、長谷部については詳細な経緯は不明であるが、荻洲と小松原に自決勧告され、抗弁することもなく9月20日に拳銃にて自決している。井置と長谷部の自決勧告については、小松原は陸軍刑法に則ったと主張しているが、軍法会議にもよらない私刑であり、本来ならば井置らが受ける必要はなかったと戦後に元参謀の扇は指摘しているが、両名とも覚悟の上で勧告を受け入れている。但し、ノモンハン事件に際し、部隊指揮官級で自決勧告を受けて自決したのはこの2名のみであり、自分の意思で自決し、小松原が「痛惜此の上なし」とその死を悔やみ、ノモンハン事件に関して唯一となる師団としての感状を授与し、少将への進級を許可した歩兵第72連隊長酒井美喜雄大佐を自決勧告されたとしたり、ほとんどの連隊長が自決に追い込まれたなどと言われることも多いが事実誤認である。 自決勧告の他に下記の表の通り多くの部隊指揮官級を更迭ないし左遷している。ノモンハン事件で唯一懲戒免官処分に付されたのが野戦重砲第1連隊中隊長の土屋正一大尉であった。この免官は査問も軍法会議もなく唐突に命じられたものであったが、法的根拠を欠く自決勧告と異なり、内閣の発令で首相が決済し、『官報』にも記載された合法的なもので、陸相から首相に対する説明では、「砲と運命を共にするという砲兵精神を欠き、密かに掩蔽部に隠れ、敵の監視が緩んだのに乗じて師団主力の位置まで無断撤退した」というものであった。この他にも、兵士の服に着替えて地下足袋姿で戦場を離脱したと風聞が流れた野戦重砲第7連隊長の鷹司信熙らが、将官や参謀らと同様に予備役に編入させられたり懲罰的な左遷を受けたが、中には歩兵第26連隊長の須見のように、独断撤退をしたわけでもないのに、師団長に意見具申を行ったことを不服従と認定され予備役編入となった者もあった。更迭や左遷の人事異動については、軍司令官や師団長が陸軍中央に異動を上申するという手続きを踏むため、これらの処分については陸軍中央も了承していたことになる。陸軍人事当局の目論見は、進退伺を受理し退任が決定している「敗軍の将」荻洲と小松原に「汚れ役」をやらせて、必要に応じて修正するのが好都合と考えていたので、両名の好きなようにやらせていた。 (関東軍の部隊指揮官の処分)役職氏名階級問われた罪状処分野戦重砲第7連隊長 鷹司信熙 大佐 無断撤退 解任、1939年12月1日予備役、華族礼遇廃止 歩兵第26連隊長 須見新一郎 大佐 命令不服従 解任、1939年12月30日予備役 第一独立守備隊歩兵第6大隊 四ツ谷巌 中佐 無断撤退 解任、1939年12月20日予備役 64連隊大隊長 赤井豊三郎 中佐 無断撤退 1939年11月15日青森連隊区司令部に左遷 長谷部支隊大隊長 杉谷良夫 中佐 無断撤退 1939年11月15日神戸連隊区司令部に左遷 砲兵第13連隊大隊長 松友秀雄 少佐 無断撤退 謹慎後解任、1939年12月20日予備役 野戦重砲第1連隊中隊長 土屋正一 大尉 無断撤退 1939年12月15日免官、ノモンハン事件に関する処分で唯一、軍人の身分を失った。内閣の発令で『官報』にも記載された。 (自決した部隊指揮官)役職氏名階級自決の状況歩兵第72連隊長 酒井美喜雄 大佐 1939年9月15日入院していたチチハル病院で責任を感じて自決。小松原師団長から唯一の部隊感状を授与され、戦死扱いで少将に進級。辻もその死を悼んでいる。 歩兵第64連隊長 山県武光 大佐 1939年8月29日、バルシャガル高地から撤退中にソ連軍に包囲され自決。戦死扱いで少将に進級。 野砲第13連隊長 伊勢高秀 大佐 同上 長谷部支隊長 長谷部理叡 大佐 ノロ高地からの無断撤退を第6軍司令荻洲と第23師団長小松原に責められ、1939年9月20日自決。 第23師団井置捜索隊長 井置栄一 中佐 フイ高地からの無断撤退について、師団長の小松原の強い意志で第23師団から自決勧告を受け、1939年9月17日自決。 ムーリン重砲連隊長 染谷義雄 中佐 バルシャガル高地でソ連軍に包囲され、1939年8月26日割腹自決。 飛行第1戦隊戦隊長 原田文男 少佐 1939年7月29日初出撃で撃墜され捕虜。のち1940年5月の第二次捕虜交換後に自らの意思で自決。被撃墜日時1939年7月29日の戦死扱いは変更されず。
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