建造まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 04:08 UTC 版)
「剣埼型潜水母艦」も参照 1921年(大正10年)のワシントン海軍軍縮条約により、日本海軍の艦艇保有率は対米英比3対5と決定され日本の保有できる空母の合計基準排水量は81,000t(米・英:135,000t)となり、その後1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮条約に於いて、ワシントン条約では制限外であった10,000tの小型航空母艦も合計排水量に含まれることとなった。このため日本海軍は米英との戦力差を埋めるために、条約で制限外とされた補助艦艇の中でも航空母艦への改造が容易であり、平時の訓練で必要と考えられた潜水母艦(大鯨)、給油艦、水上機母艦(千歳・千代田)計5隻を条約に抵触しない範囲で航空母艦としての構造と航空艤装を持たせた上で建造することを計画した。戦時には飛行甲板180m以上、速力31kt、搭載機数30機の艦隊航空母艦として必要な性能を持つ艦へと三カ月程度で改造する事とした。なお、平時の潜水母艦、給油艦、水上機母艦は「第一状態」、戦時の航空母艦は「第二状態」と呼ばれていたが、この第二状態の存在は最機密の軍機とされており第一状態といった表現を使用する事すら避けられていた。 1934年(昭和9年)の第二次補充計画(通称②計画)において、艦隊用高速給油艦2隻(剣埼型潜水母艦)の建造が計画された。この剣埼型2隻は横須賀工廠関係者からは両艦の頭文字を取って「剣高」と呼ばれており、第一給油艦(剣埼)は1934年12月3日に起工され1935年(昭和10年)6月1日に進水。第二給油艦(高崎)は剣埼から遅れる事一年後の1935年6月20日に起工され、1936年(昭和11年)6月19日に進水を迎えた。
※この「建造まで」の解説は、「瑞鳳型航空母艦」の解説の一部です。
「建造まで」を含む「瑞鳳型航空母艦」の記事については、「瑞鳳型航空母艦」の概要を参照ください。
建造まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 05:16 UTC 版)
戦後復興と高度経済成長の流れを受け、阪神・別府航路の乗客数が年々増える中で関西汽船は小型軽量で大馬力な過給器付きディーゼル機関の発達を契機に1956年より新造船計画に着手し1958年に建造計画を発表。従来の1000トン級客船「あけぼの丸」「あかね丸」の3倍となる3000総トン級の船体に豪華設備と速度向上を図ったものとした。 従来の阪神・別府航路は17時間の所要時間で瀬戸内海を夜間航行する形だったが、本船では瀬戸内海の観光価値を考え多島美を楽しみながら日暮れに別府に到着できるダイヤを見込んだ。航海速力は国鉄の急行列車「高千穂」とほぼ対抗可能な14時間20分の所要時間で運航可能な18ノット以上、船体は別府港の施設に対応した垂線間長80m・全長86.7m以下が求められた。 10億円の建造費は荒金啓治別府市長が中心となり日本開発銀行などに要望書を提出し兵庫県や神戸市も陳情に加わり国際的な観光船という点も強調され財政融資が与えられた。 新三菱重工業神戸造船所にて1959年7月に進水、1960年竣工。1912年に就航したドイツ製の初代「紅丸」、さらに1928年就航の二代目「紅丸」の名を受け継ぐ命名となった。 「くれない丸」の名称に逆らってイメージカラーはライトグリーンで、船体下部とファンネル(煙突)は同色に塗装されていた。1960年3月に大阪港 - 神戸港 - 松山港 - 別府港を結ぶ阪神・別府航路(瀬戸内航路)の昼便(時刻表では観光船に分類。運賃に特別料金が発生した)に就航し、9月には同型船「むらさき丸」も就航し観光便は1日1往復体制となった。本船の就航した1960年の阪神・別府航路の乗客数は前年から30万人増の約132万5000人を記録した。 のちに僚船として1963年に「すみれ丸」「こはく丸」、1968年には「あいぼり丸」「こばると丸」が就航し3000トン級客船は最大で6隻体制を誇った。この時期、「くれない丸」他5隻が就航していた阪神・別府航路(瀬戸内航路)は、阪神と九州を結ぶ観光路線として多くの新婚旅行客を別府温泉などへと運んだ。 メインは2人部屋の一等客室であり、客船としては小型ではあるものの豪華で俊足を誇る優秀なクルーズ客船であった。1961年には当時実験途上であった造波抵抗の低減を図るとされるバルバス・バウ(球状船首)のひかえめなプロトタイプが装備され、「むらさき丸」との併走実験も行い、バルバスバウの商業船舶における効果を実証した。大阪港 - 別府港の航海時間は、急行列車にも引けを取らないおおむね14時間あまりであった。 船内施設は映画上映やダンスパーティに使用可能な大娯楽室、最上甲板に瀬戸内海の風景を楽しめる展望室、冷暖房の完備、1等室に絨毯敷き廊下といった豪華志向のものとなっており「瀬戸内海の女王」と呼ばれた。
※この「建造まで」の解説は、「ロイヤルウイング」の解説の一部です。
「建造まで」を含む「ロイヤルウイング」の記事については、「ロイヤルウイング」の概要を参照ください。
建造まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/13 06:36 UTC 版)
「ドレッドノート (原子力潜水艦)」の記事における「建造まで」の解説
イギリス海軍は1946年から、艦船用の原子力推進機関の設計について研究を行っていたが、1952年10月にはその研究の凍結が決定された。第二次世界大戦後のイギリス海軍は、潜水艦の水中航続力の改善策として、旧ドイツ海軍から接収したヴァルター機関に着目し、その研究を進めていたためであるが、ヴァルター機関による非大気依存推進の研究開発は思わしい進展を見なかった。他方、アメリカ海軍は1955年、世界初の原子力潜水艦ノーチラスを竣工させた。後日、ノーチラスは、第二次大戦を通じて卓越した技量を獲得していたはずのイギリス海軍対潜水艦戦部隊との演習に参加し、原子力潜水艦の優越性を発揮して見せた。イギリス海軍当局は原子力潜水艦の有用性を認め、第一海軍卿ルイス・マウントバッテン伯と潜水艦隊司令官サー・ウィルフレッド・ウッズの主導のもと、原子力潜水艦を建造する計画がたてられた。 当初の計画は設計から建造までを全てイギリスが行うというものであったが、先行するアメリカの技術を取り入れ、アメリカの原子力技術を利用することで、大幅に時間が切り詰められた。マウントバッテン卿と当時のアメリカ海軍作戦部長のアーレイ・バークとの良好な関係は、アメリカからの助力を得ることを容易にした。このことは、当時のアメリカ海軍における核動力プログラムの責任者であったハイマン・リッコーヴァー少将の反対にもかかわらず進められた。リッコーヴァーはいかなる技術移転にも反対であり、マウントバッテン卿がノーチラスを視察するのを拒んだほどであった。しかし、それも1956年のイギリス訪問までのことであり、リッコーヴァーは反対意見を取り下げた。リッコーヴァーはスケート級に搭載されたS3W型原子炉の提供を望んだが、マウントバッテン卿は自身の影響力を行使し、スキップジャック級の完全な機関部 (S5W型原子炉を含む) に関する技術情報を入手した。この技術情報をもとに建造されたことから、この機関部は「アメリカ区画」 (American sector) と通称されたが、事実上スキップジャック級の後部船体そのものといって差し支えない。エレクトリック・ボート社の協力を得たことで、船殻形状と建造実務において影響が見られるものの、機関部を除く船殻と戦闘システムの設計はイギリス自身の手によるものである。 ドレッドノートは1959年6月12日に起工され、女王エリザベス2世の臨席のもと、1960年10月21日のトラファルガー記念日に進水した。1962年12月には原子炉が初の臨界に達し、1963年1月10日にはラムスデン・ドックにて初の潜航を実施した。1963年4月17日に就役し、最初期の原子力潜水艦の1隻となった。
※この「建造まで」の解説は、「ドレッドノート (原子力潜水艦)」の解説の一部です。
「建造まで」を含む「ドレッドノート (原子力潜水艦)」の記事については、「ドレッドノート (原子力潜水艦)」の概要を参照ください。
- 建造までのページへのリンク