戦後復興と高度経済成長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 06:26 UTC 版)
「川崎市の歴史」の記事における「戦後復興と高度経済成長」の解説
1945年8月30日から神奈川県に進駐を始めた連合国軍は、もとの軍事施設や軍需工場を接収した。食糧難の時代でも、まだ川崎市域には1000ヘクタールの農耕地が残っていたので、県は食糧の自給と工業用水の利用のために1946年から4年をかけて、資材も人力もない条件下で三沢川を改修、宿河原堰堤を作った。闇市は市内の各所に設けられ、例えば市役所前の疎開跡地に約100、大師停留所付近に約20、東横線新丸子駅前通に約20、溝の口駅前に約100、登戸駅前には約30の店が並んでいた。 金美館チェーンを所有していた美須鐄は、戦後の1945年10月にいち早く川崎銀星座を復興し、1946年の間には合計6つの映画館を次々と作り出し、娯楽を求める大衆に敏感に反応した。 焼け野原となった京浜工業地帯からいちはやく稼働したのは、1945年12月の昭和電工川崎工場で、他の工場も続々と操業を始めた。1946年2月には昭和電工川崎工場に昭和天皇が行幸した。 江辺市長の市費の着服と新円の不当獲得が明るみに出たことで1946年5月に退職、代わって川崎市初の公選市長に金刺不二太郎が選出された。1959年、金刺市長は臨海部に新しい埋立地197ヘクタールを造成、千鳥町と名付けられた。この敷地に日本石油化学を始めとした企業群がコンビナートを形成した。さらに1962年には埋立地445ヘクタールの浮島町が完成し、東燃石油化学をはじめとしたコンビナートが操業を開始し、日本最大の石油化学コンビナート地帯の京葉工業地帯の一翼を担った。京浜運河には人工島の扇島が造成され、1976年11月にこの場所で日本鋼管京浜製鉄所が操業を開始した。
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