戦後復興とフルトヴェングラー時代とは? わかりやすく解説

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戦後復興とフルトヴェングラー時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 22:55 UTC 版)

ザルツブルク音楽祭」の記事における「戦後復興とフルトヴェングラー時代」の解説

第二次世界大戦ではザルツブルクにも空襲があり(ヒトラー別荘近くのベルヒデスガーデンにあったため)モーツァルト所縁の家などが破壊された。1945年5月にはアメリカ軍ザルツブルク進駐してきたが、音楽祭例年通り開催されることになった当初アメリカ軍通じてトスカニーニワルターいずれも当時アメリカ滞在)の復帰や、ウラディーミル・ホロヴィッツヤッシャ・ハイフェッツアメリカ著名音楽家出演要請したが叶わなかった。それでも、8月12日初日迎え後宮からの誘拐」(フェリックス・プロハスカ指揮)などが演奏された。ただし、ウィーン国立歌劇場3月空襲破壊され舞台装置衣装などがアテ出来なくなった為、この頃からウィーンとは別のプロダクション制作することになった戦前音楽祭中心だったフルトヴェングラーなどの面々非ナチ化裁判アメリカへの亡命影響などもあって1947年まで出演できず、エルネスト・アンセルメフェレンツ・フリッチャイジョージ・セルカール・シューリヒトなどの新顔出演するようになったフルトヴェングラー復帰する亡くなる1954年まで、「フィデリオ」、「オテロ」、「フィガロの結婚」、「魔弾の射手」、「魔笛」、「ドン・ジョヴァンニ」の各歌劇いくつかのコンサート指揮し大活躍した(1952年急病のためキャンセル)。1951年には単身ヨーロッパ演奏旅行をしていたレオポルド・ストコフスキーがただ1度出演をし、翌1952年には1944年ゲネラルプローベだけが行われた「ダナエの愛」の初演が行われた。また、戦前常連ワルター復帰してモーツァルトの交響曲25番や『レクィエム』などの演奏披露しているほか、現代作品も多くプログラム取り入れられるようになったカラヤン1948年に「フィガロの結婚」などを振って本格的な初出演果たしたが、フルトヴェングラーとの確執もあり(ザルツブルク復帰微力ながら尽力したにも拘らず)、音楽祭芸術監督就任後1957年まで音楽祭にはご無沙汰することとなったまた、1947年からは現代作品が積極的に取り上げられるようになり、嚆矢としてゴットフリート・フォン・アイネム新作歌劇ダントンの死」が取り上げられた(クレンペラーフリッチャイ指揮)。

※この「戦後復興とフルトヴェングラー時代」の解説は、「ザルツブルク音楽祭」の解説の一部です。
「戦後復興とフルトヴェングラー時代」を含む「ザルツブルク音楽祭」の記事については、「ザルツブルク音楽祭」の概要を参照ください。

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