戦後復興とフルトヴェングラー時代
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「ザルツブルク音楽祭」の記事における「戦後復興とフルトヴェングラー時代」の解説
第二次世界大戦ではザルツブルクにも空襲があり(ヒトラーの別荘が近くのベルヒデスガーデンにあったため)モーツァルト所縁の家などが破壊された。1945年5月にはアメリカ軍がザルツブルクに進駐してきたが、音楽祭は例年通り開催されることになった。当初、アメリカ軍を通じてトスカニーニやワルター(いずれも当時アメリカに滞在)の復帰や、ウラディーミル・ホロヴィッツ、ヤッシャ・ハイフェッツらアメリカの著名音楽家の出演を要請したが叶わなかった。それでも、8月12日に初日を迎え「後宮からの誘拐」(フェリックス・プロハスカ指揮)などが演奏された。ただし、ウィーン国立歌劇場が3月に空襲で破壊され、舞台装置や衣装などがアテに出来なくなった為、この頃からウィーンとは別のプロダクションを制作することになった。 戦前の音楽祭で中心だったフルトヴェングラーなどの面々は非ナチ化裁判やアメリカへの亡命の影響などもあって1947年まで出演できず、エルネスト・アンセルメやフェレンツ・フリッチャイ、ジョージ・セル、カール・シューリヒトなどの新顔が出演するようになった。フルトヴェングラーは復帰すると亡くなる1954年まで、「フィデリオ」、「オテロ」、「フィガロの結婚」、「魔弾の射手」、「魔笛」、「ドン・ジョヴァンニ」の各歌劇やいくつかのコンサートを指揮し大活躍した(1952年は急病のためキャンセル)。1951年には単身でヨーロッパ演奏旅行をしていたレオポルド・ストコフスキーがただ1度の出演をし、翌1952年には1944年にゲネラルプローベだけが行われた「ダナエの愛」の初演が行われた。また、戦前の常連ワルターが復帰してモーツァルトの交響曲第25番や『レクィエム』などの演奏を披露しているほか、現代作品も多くプログラムに取り入れられるようになった。 カラヤンは1948年に「フィガロの結婚」などを振って本格的な初出演を果たしたが、フルトヴェングラーとの確執もあり(ザルツブルク復帰に微力ながら尽力したにも拘らず)、音楽祭芸術監督就任後の1957年まで音楽祭にはご無沙汰することとなった。また、1947年からは現代作品が積極的に取り上げられるようになり、嚆矢としてゴットフリート・フォン・アイネムの新作歌劇「ダントンの死」が取り上げられた(クレンペラー→フリッチャイ指揮)。
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