戦後復活した全学応援団
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「東京農業大学全学応援団」の記事における「戦後復活した全学応援団」の解説
1945年(昭和20年)8月15日太平洋戦争の終結により、内外へ出征していた学生らは渋谷・常磐松の校舎へ戻ったが、そこに残っていたのは横井講堂だけだった。1945年(昭和20年)11月、東京農業大学は常磐松から世田谷の現在地である旧陸軍機甲整備学校跡地へ移転し、再建に乗り出した。応援団は早くも活動を開始し、「全学生の団結なくして母校の発展はなし」と全学生を説き伏せ、「勉強のできる環境作り・運動場の整備」に立ち上がった。この時の農大応援団は専門部のみで構成されており、各科ごとに複数の応援団が存在していたが、全学的な実権は専門部応援団が持っていた。1946年(昭和21年)10月、応援団は戦後初めての収穫祭の準備に入った。時代は連合国軍占領下で5人以上の集会の禁止令があり、収穫祭の宣伝許可を得るため警視庁に申請したが、却下されてしまう。そこで連合国軍総司令部(GHQ)へ行きマーカット少将付き日系中尉キャピー原田に陳情した。交渉は難航したが、マッカーサー元帥の直筆の許可を得て、銀座、新橋、新宿、渋谷、三軒茶屋で大々的な宣伝パレードを行なった。また、応援団有志の手によって新団旗が作られた。 1947年(昭和22年)11月14日、大学ホールにおいて全学的応援団結成のため、学部・専門部・予科応援団の合同幹部会が開催された。そして全学生応援団の構想が具体化されると早速統合の運びとなり、1948年(昭和23年)2月16日、学部・専門部・予科を統一し全学生を包含した「東京農業大学全学応援団」が復活した。1949年(昭和24年)に東都大学野球連盟の1部6校が集まり、東都大学応援団連盟を結成し、盛大に記念式典を行った。 後に東都大学応援団連盟は、全日本学生応援団連盟へと発展する。 戦後ようやく復活した応援団ではあったが、1947年(昭和22年)11月に発足した全学学生自治会の委員総会から今までの応援団に対する不満の点、団費の値上げ問題について徹底的に追及される。結局解決に至らず、応援団組織を全面的に解散するか一部だけ解散するかの採決をとり、有効投票43票中全員が解散を要求した。このため、全学組織による応援団を再編成するために1950年(昭和25年)6月30日をもって、全学応援団は解散した。
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