戦後復活した全学応援団とは? わかりやすく解説

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戦後復活した全学応援団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/06 16:58 UTC 版)

東京農業大学全学応援団」の記事における「戦後復活した全学応援団」の解説

1945年昭和20年8月15日太平洋戦争終結により、内外出征していた学生らは渋谷常磐松校舎戻ったが、そこに残っていたのは横井講堂けだった1945年昭和20年11月東京農業大学常磐松から世田谷現在地である旧陸軍機甲整備学校跡地移転し再建乗り出した応援団早くも活動開始し、「全学生団結なくして母校発展はなし」と全学生説き伏せ、「勉強のできる環境作り運動場整備」に立ち上がった。この時の農大応援団専門部のみで構成されており、各科ごとに複数応援団存在していたが、全学的な実権専門部応援団持っていた。1946年昭和21年10月応援団戦後初めての収穫祭準備入った時代連合国軍占領下で5人以上の集会禁止令があり、収穫祭宣伝許可を得るため警視庁申請したが、却下されてしまう。そこで連合国軍総司令部GHQ)へ行きマーカット少将付き日系中尉キャピー原田陳情した交渉難航したが、マッカーサー元帥直筆許可得て銀座新橋新宿渋谷三軒茶屋大々的宣伝パレード行なったまた、応援団有志の手によって新団旗作られた。 1947年昭和22年11月14日大学ホールにおいて全学応援団結成のため、学部専門部予科応援団合同幹部会開催された。そして全学生応援団構想具体化されると早速統合運びとなり、1948年昭和23年2月16日学部専門部予科統一し全学生包含した東京農業大学全学応援団」が復活した1949年昭和24年)に東都大学野球連盟1部6校が集まり東都大学応援団連盟結成し盛大に記念式典行った。 後に東都大学応援団連盟は、全日本学生応援団連盟へと発展する戦後ようやく復活した応援団ではあったが、1947年昭和22年11月発足した全学学生自治会委員総会から今まで応援団対する不満の点、団費の値上げ問題について徹底的に追及される。結局解決至らず応援団組織全面的に解散する一部だけ解散するかの採決をとり、有効投票43票中全員解散要求したこのため全学組織による応援団再編成するために1950年昭和25年6月30日をもって全学応援団解散した

※この「戦後復活した全学応援団」の解説は、「東京農業大学全学応援団」の解説の一部です。
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