戦後対策
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戦争終結が目前にせまった昭和20年8月9日京都衣笠の住友別邸に第七代住友総理事古田俊之助(住友最後の総理事)以下、住友本社の課長以上の幹部が緊急集結し、戦後の具体策の検討がはじまった。13日には住友別邸に「敗戦近し」の情報がもたらされる。戦争終結で、GHQの財閥解体指令によって住友本社の解散が決定的となった。この時点で住友の緊急かつ最大の課題は、解散予定の住友本社職員および日本各地はもとより、中国大陸や、南方諸地域に散っていた外地からの復員、引揚者など多くの住友人をどうするかであった。当時、住友の在籍従業員は約20万人に達し、住友各社の従業員は仕事量の激減から過剰状態で、帰還要員を安易に送り込むわけにいかず、また住友が長年育成してきた優れた人材を一挙に離散させるのは重大問題であり、単に住友のためだけでなく、戦後復興に大いに活躍してもらうための受け皿を用意するのが住友の社会的責任であるという結論に達した。9月10日と11日の両日、住友本社は戦後対策を主題とする「事業転換方策懇談会」を開いた。全住友の事業にとって歴史的な会合であった。出席者は常務理事以下関係課長、連系各社の幹部ほか関係者50余名。本社解体と住友直営事業の収拾および新事業の創出が、直面する緊急課題として協議された。提出された新規事業計画案は、製塩、水産、セメント、出版、商事などであったが、新たに設備投資を必要とするような事業計画は、緊急に職場を開設しなければならない状況を考慮すれば、困難であるとの判断から、最後まで残ったのが商事であった。それから5週間後の10月17日、住友本社最後の常務理事会が開かれ、本社解体方針の最終協議に入った。当然、商事部門の新設問題も重要議題の1つとして討議された。しかし常務理事会では商事部門の新設に反対ないしは疑問符を投げかける意見が大勢を占めていた。その主張の根幹をなしていたのは、大正9年1月の鈴木馬左也総理事の商社設立禁止宣言であった。
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